うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

Ⅰlove

2007年01月06日 | お屋敷
お正月の色々は飛び去っていき、松の内ももう終わる。縁者が集まれば、蓋をしてきた色々もお正月のすき焼きやら重箱の前でつまびらかとなり、愛し合っているはずの者の集まりの、絡まった糸はより絡まっていき、血族親族いり乱れて、あるものは泣き、あるものは知らん振りをし、あるものはとりなし。私はといえば、その食卓をひっくりかえして啖呵をきりたい場面もあったのだけれど、それを堪えて、泣く人の肩を擦るしかなかった。一年ぶりのお正月は、こどもを大人にし、大人を老年にし、していくのだ。そして、じゃあまたと、それぞれの生活に戻っていくのだ。問題は解決してはいなくとも、また、いつもの生活は始まるのだ。

愛するとは、なんだろうと考える。それは持っていることと少し似ている。本当に愛するのなら、「それ」を自分のものにすることは出来ない。いとしくて、もったいなくて、愛するものと共にあること、そのことだけを「有難き」と思う。そうして、自分のものとならなくとも、なんの差し支えもない。そこにそれが在るということ、それだけが、もったいなくも、有難いことだ。美しいものが私の元に来た時も、同じような気持ちになる。美しいものは私が持っていようといまいと、ずっとずっと美しい。有難く、拝みたいような、泣きたいような気持ちになる。今、それが「在る」ということの、ただその事実の、それだけで、何も要らないと思える。私のものでなくとも、よいのだ。私は、それを見つけ、愛し、それがそこに在る。それだけでよいのだ。

愛するとは、なんだろう。
悲しかったことは、その昔、あなたが自身の悲しみでいっぱいだったということだ。私はあなたに愛されていることを知っていたから、あなたの悲しみが私から発したものかも知れぬと思った。混乱するあなたの言うがままになった。それで気が済むのならよいと思った。東に走り西に走りした。でも、あなたはあなたの悲しみでいっぱいで、それを無くすことにいっぱいで、私の悲しみは見えていなかったんだね。愛すことは、愛するものの悲しみを無くすことだけを考えることだよ、って今の私なら言える。可哀想な人。それがわからないんだね。だから私は、いま、こうやって、あなたとは違う形の愛を、胸の内に抱いて歩くよ。


持っているのに持っていない。
永遠にそれを持つことは出来ない。
愛する者は生き続け、
私はその前に無力だ。
愛する人は問う。あなたよ、私はあなたの物なのか。
否。
愛する人よ、あなたは自由だ。
私ごときが所有できるものではない。
私はあなたが「ある」ことを瞬時でも感じたくて、
あなたを腕に囲っているだけだ。
愛しているこの時にしばし満たされているだけだ。
だから、あなたは限りなく自由だ。

(画像:建設中大型スーパー。建ちかかっている姿が、不思議なことに廃墟に似てる。生まれつつある物と崩れていく物が同じに見える不思議が、世界には隠れているのかな)
コメント (4)
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