うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

次号のお楽しみ

2007年01月18日 | ことばを巡る色色
最近、本を読んでいない。もう何年も読んでいない。全く申し訳ないことながら、読んでいない。読みたいと思えるものが本当に少なくなってしまった。「言葉」という媒体がかえって耽溺することを阻んでいるのかもしれない。瑣末な言い回しや、言語観の違いが気になってその世界になかなか入ることができない。気になりだすと、そのお話の世界までが「嘘っぽく」感じられてしまい、本の世界から遠ざかってしまった。かわりに読んでいるのは、ネットのエントリーとか、週刊誌のエッセイとかコミックとか。これらは確かに手ごろな読み物であり、読書離れの理由を「安易な物への移行」と言われても仕方がない。しかし、「本」に浸ることができなくなってしまったことは、ある意味、時代の不幸でもある。本の世界にわくわくできる世の中ではなくなってしまったよ、ということだからである。

真実を語るものが、コミックになってしまっているのかな。
最近は、山田芳裕の「へうげもの」を読んでいる。古田織部(織部!・・・織部のことはまたいずれ)の話だ。この中で織部は物狂いと、国盗りの狭間にある。彼の物狂いは擬態語で表される。「はにゃあ」だのというような。そうだ、物狂いは、そうやってやってくる。それが欲しいという気持ちは、強烈な擬態語となって、脳の中に槌をふりおとす、んだよね。

去年、最もわくわくして読んだのは岡野玲子の「陰陽師」 日本中の神社がその中から大きく柱を立て、渦巻く銀河系のイメージと共に祝詞が身の回りで私を取り巻いているような陶酔感を味わった。 
そうして、浦沢直樹 「MONSTER」から始まり、「20世紀少年」「PLUTO」 浦沢直樹を読むのは村上龍を読む代わりのような物になってるのかもしれない。

その時代の才能のある人があるカテゴリーに集中するということがある。ある時期においてそれは芝居であり、その後にはバンドとなった。それと同じように、今の世の中で才能がある人は、本ではなくコミックを書いているのかも知れないなあと思う。それが何故なのか、小説の世界に人生が書き辛くなっている、読みづらくなっているのは何故か、それを考えてみるのもおもしろいなあと思う。

そんなわけで、今や私は、「働きマン」「チェーザレ」「プライド」「大奥」そして、「20世紀少年」「PLUTO」の連載が連続ドラマとかより楽しみ(あ、楽しみと言えば一つだけ連載小説もあり。東野圭吾「流星の絆」はなかなか) 画像:made in japan テンプルちゃん(?)人形
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