うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

それは昔、の鶯

2007年01月14日 | ことばを巡る色色
私がその昔、選挙のウグイス嬢をやっていたことは前にも書いたのだけれど、それはなかなかおもしろいバイトだった。県内の各地を選挙カーで回り、町村の議員さんの先導で、遊説するのである。「町議○○さんの御先導の下、ご挨拶に参りました。△△でございます。ご支援よろしくお願いいたします。」とアナウンスし、白手袋を振るのである。休憩は公民館やら、町役場やら。地元のおばちゃんの漬けた赤蕪などをいただき、温かいお茶を飲み、休む。その横では顔役の人たちが、この機を逃すなとばかりに、あの道を作ってくれだの、と言うような陳情やら、ちょっとちょっとこちらへと陰に候補者を連れて行って秘密のお話やら、なぜ御酒の入ってらっしゃるおじさんもある。
なにやらに似ているなあ、と考え、思いついた。これは「祭り」なのだなあ。わっしょいと神輿を担ぎ、酒を飲み、持ち寄りの食べ物を頂き、世話話をする。選挙前日には、「桃太郎行列」というのがある。候補者の名入りの旗を持ち、繁華街を支援者を連れて歩く。「選挙は一度やったらやめられぬ」というのは、このような祭り的要素の故なんだろう。
多分、人は祭りなしでは生きていけぬものであり、祭りは祀りであり、政(マツリゴト)であるのであろう。
それに比べ、今の選挙は様変わりしているようだ。昔私が関わった物とは違っている。何に似ていると言えば、対戦ゲームかな。
人は自らの体験した興奮の記憶から逃れられない。他の場所にそれを焼き写してしまう。最も興奮した物のスタイルを、興奮の場のスタイルとして形成していくのだろう。昔の人の興奮のスタイルが「祭」であり、それを選挙のスタイルとしたように、今の人はゲームをそこに写して、そのスタイルとしている。その中で行われるのは、叩き続けて勝つことであり、吊るし上げることであり、平板な勧善懲悪であり、その奥にある、隠微な情報戦であるのだろう。

興奮のスタイルはなぞられ、模倣され、本歌取りとなり、本歌を隠していく。「吊るし上げる」スタイル。「叩き続ける」スタイル。世の中にそれは低く重く広がっている。ガッコーという場に、カイシャという場に、カテイという場に。
コメント (3)
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