うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

かわいくねぇ

2006年11月09日 | ことばを巡る色色
最近の記事を読み返すと、随分、暗く重い。書いてる私は全然暗い気持ちでも、重い気持ちでもないのだけど、読みようによってはそう読めるんだろうなあ。 てな訳で、今日はちょいと雑談。
朝晩めっきり冷え込む昨今、皆様いかがお過ごしでしょうか。エコ実践(という名は便利だな)の私は、昨日ジョボジョボと湯たんぽを作り、温くとまりながら夜を過ごしました。今期初湯たんぽ。ああ幸せでござる。思い起こせば9月は美術館三昧で、いよよ隠居ライフ突入かと思っていたのだけれど、突然湧いてきたような案件が目白押しとなり、さすがの私も少々お疲れ。擦り減り、磨り減る毎日。
擦り減る案件の中でいろんな話をしたり、出かけたり、話したりしたのだけれど、「殴ったろか」の場面がいくつかあり、はあ、と深くため息をつく。
唐突ながら、そこでふと、「むかつく要素」とは何か、と考えた。早い話が私は「むかついた」訳なのだ。
同じ話をしていても、素直に聞きたいと思う相手と、妙にむかつく相手がいる。同じ内容を相手が話していても、「おもしれー」と思える相手と、「ツマラン、時間の無駄」と思える相手がいる。話の内容はおんなじなのに、である。人生何十年とやっていると、「ツマラン」匂いのする相手には近づかないようにする術が身につくし、そういう相手は避けて通るというのも年をとった特権である(若いうちは誰とでも、ぶつかるのが人生の修行であるけどね) そんなわけで数年「ツマラン」相手とは話をせずに済んできた。なのに、ここに来て急にそういう場に出なければならなくなってしまった。私が引き起こしたことではないのだけれど、これも私の不徳のいたすとこ、っと考えといて、話をした。
まあ、揉め事についての話し合いであるのだから、仕方ないのだけれど、「教え諭す」ように話は進み、かれは自らの成果を面に出したり、隠したりしながら、慇懃に話を進める。、私はかれにとって小娘(ハハ・・・)に見えたのかもしれない。それは私の年頃とか、立場からそう判断したのだろう。「私だってさ、私だってさ」と語って名乗るのもかっこ悪いし、日本人の謙遜でもって、私は静かにお話を承った。そうして、つまんなかった。何が「ツマラン」のか。それはかれが、かれの経歴の中でしか語ることのできない人だからだろう。かれはその道では立志伝中の人かもしれない。かれの下部にいる人はかれの話をありがたく聞くかもしれない。それはかれがその地位にいるからであり、彼の名刺の肩書きの話を聞いているのであって、かれ個人の話を聞いているのではない。しかし、彼は肩書きのまま話をする。肩書きのあるものを愛し、肩書きと取引をする。たとえそれが自分で作った物であろうと(それが所属会社の名前だったりするともっと目も当てられんが)その中のものとして自分を語ることは、「つまんねぇ」。その肩書きとの上下関係の中に私を取り込もうとする。そうしてカシャカシャと数字やら下心やらの計算をしている。「だから、私の言うことをあなたは聞きなさい」と言わんばかりに。もちろん、抗ったけれど、かれの肩書き攻撃は強力である。彼自身がそれを疑ってみたことがないからなんだろうなあ。老人クラブにまで就労期の肩書きを持ち込み、勘違いに威張ったりするオジがいるが、「どうせ人間裸で生まれ裸で死ぬのよ」ってのがちゃんとわかってる人に、何か言われつつ、クラブの足手まといになったりするんだろうと悔し紛れにそっと想像したりする。彼の決定的問題は、かれが「かわいくねぇ」ということである。肩書きとか、年とかを基準に話をする人は、かわいげがない。14.5で人生の悲哀を持つ子もいれば、60.70になっても、おかわいそうに自らの「分」が見えていない人もいる。尊敬に値する10代もいれば、軽蔑すべき老齢もいる。肩書きの中で生きてきた人には、それが見えていないらしい。だから、見苦しい。語っていて時間の惜しくない人は、「かわいい」人である。かわいい人は、自分のことを語るとき、本当に楽しそうだ。他人のことを語るときもそうだ。他人のちょっとした行動を褒めたりする。そうして自分の「分」を知っている。他人の弱点を指摘する前に自分を振り返っている。うまくいかない局面を他人のせいにすることから始めはしない。まず、自分に何ができるかということから考えようとする。かといって、「全部自分が悪いのよ」という自虐の甘い浴槽に浸ったりすることもしない。
何かを手に入れることは、それなりの努力を必要とすることである。かれも肩書きを手にするためには、夢や希望や失望や石の上にも3年やらがあったことだろう。それを手に入れた今、振りかざしたくなる気にもなるだろう。しかし、自らの力量を超える物が、肩書きもなく世には転がっているよ。肩書きの中で世を見るとそれに気づかない。日本昔話の汚い坊さん、サリンジャーの太ったおばさんは、今となりにいるかもしれないのに、それを考えようという想像力がない。だから、見苦しく、かわいげがない。そうして、あらかじめ用意された名前の中にしか自らのアイデンティティを刻めない人と話すのは徒労だ。
子どもの頃からそういう大人がデエキレエ(大嫌)だったさ。仮想敵だったさ。実際もいたけどね、そういう想像力のない大人って。そういう人に負けないために勉強したかも。肩書きを振りかざす人は肩書きに弱いからね。でも今回は、立場上、ちょっと負け。故に、むかついているんかもしれないけど。
雑談のつもりが、愚痴になってしまいましたか?
かわいくねぇと 毒づく私も かわいくねぇ 人の充実ってなんぞと 見上ぐ11月の空
コメント (10)
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