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うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

サベツ

2006年11月01日 | ことばを巡る色色
もう今年も残りふた月となった。ふと振り返ると、私は今年ずっと「差別」のことを考えている。最近のニュースは伝える。いじめ自殺と被差別利権と。それらを一緒くたに語ることは許されないことかもしれないけれど、私は私の言葉でしか語れないから、私の中でこれらは一緒くたに考えられているのだ。いじめと被差別と国籍差別と社会的弱者福祉とモラルハラスメントと。当然、そう当然、私はこれらを頭の中で整理できず、これらについての記事を書けないでいる。今年が始まって以来、ずっと書きたい、いや、書かねばと思いながら、書けないでいる。
人は自らの上にも、そうして下にも人を作りたいということだ。縦線の中で自分の位置を確かめようとする。はてさて、自分は今どんなところにいる?もうちょっと上に行きたいな、でも見下ろしてみれば、あんな奴もいるから大丈夫さ、と。自分があまりにも可哀想なところにいるとき、そうして心細い時、下の者を無理にも見つけようとする。そいつを罵倒すればするほど、安心する。彼らの差別・いじめの理由を理解するのは簡単だ。彼らが弱者であるからでしかない。差別やいじめをする者がその悪鎖から抜け出すには、彼らが本当の強者になるしか道はないのかもしれない。そうして、そのときの強者とは、けして「比較」の中では生まれない。自分の中で問うものであり、安易な縦線に位置づけられるようなものではない。
「いじめられるほうも弱いから悪いのだ、と言うのはやめよう」とは昨今よく言われていることだ。正論である。いじめや差別は、されるほうに非がないからこそ、「いじめ」であり、「差別」である。しかし、「あんたも強くなりなさい」というのをやめたからといって、被害者である彼が救われるわけではない。では、私は彼になにを語ればよいのだ。
きっと多くの人の反感をかうであろうということを覚悟しながら、私は書く。
こと「いじめ」において、その中で苦しむ君よ。君は君を苦しめるものに仕返しをしたいと思うだろうか。なぜ自分の無念が晴らされないと思い悩むのだろうか。なぜ自分ばかりが一人遠くに追いやられると思うのだろうか。
深呼吸をして、奴を見てみなさい。そうして自分を見てみなさい。思い悩む心の中に、「いじめられるもの」への蔑視がないのだろうか。自分が「いじめられるもの」という箱に入れられたことを恥じる心の奥に、「いじめられるもの」への差別がないのか。自分は、みんなと同じでありたいと思う心は、君がいつか「いじめる」方にまわることもあるということだ。君も同じく、「差別」の心を持っているということだ。
うまく言えたかどうかわからない。ずっと言いたかったのだけれど、うまく言える自信が今もない。10ヶ月間、どう書けばいいか考えてきたような気がする。しかし、やはりうまく書けない。
自分の弱さを見るということは、他人を許すということだ。おあいこ、ということだ。もちろん、今回の事件、そうして私の身近にもあるそれらに、「いじめられても、差別されても許しなさい」とは言わない。差別し、いじめるものは社会的に許されるものではない。しかし、心の中とは、別のことだ。
多分、傷ついた魂は、許すことでしか救われない。社会が差別やいじめをなくすことと、された人が救われる方法とは別のことなのだ。
君よ、捨ててしまえ、許すことは遠い遠い先に投げていい。今は、そんな奴らは捨ててしまえ。君が捨てるのだ。寂しくとも捨てるのだ。捨ててしまえるだけ心はいつだって自由だ。そうして、立ち上がらなくては。本当の再生は、恨みを晴らすことではやってこない。再生は、他人を同じ目に合わせないように生きていくことでしかやってこない。長い長い時間をかけて、自分がされたことが世の中からなくなるようにすることだけが、本当の再生の道だ。

うまく書けませんでした。また、書きます。

コメント (6)
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