うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

懐かしきものの罪

2006年11月15日 | ことばを巡る色色
なつかしのメロディーというやつがある。演歌だったり、フォークソングだったり。それを聴くのに文句はないのだけれど、年をとれば取るほど、「昔の耳」で聞いてしまう人が少なからず居て、そんな人の感想やら、思い出話やらを聞くのは、本当に辛い。「君は知らないだろうけれど、このときはこんなことがあって、この歌をみんなが口ずさんだものだよ」「君も覚えているだろう、こんなことがあったね。」という、解釈を聞きながら歌を聴かなければならないのは、本当に辛い。
耳というのは目同様、選択的な器官だ。ニュートラルな状態で物音や歌を聴くというのはなかなか難しい。人は聴きたいものを聴き、聴きたくないものは聴かない。そうして、自分の中にいくつかある耳の聞き方のバージョンを選んで聴いているのではないかと思う。昔馴染みの音楽を聴くとき、人は、その頃の耳になってしまいがちだ。そのとき持っていたの音楽の評価基準で歌を聞く。今聴けば、本当につまらない音楽でも、そのときの耳で聞けば、とても高く評価できる場合があるし、一気にそのときの自分に戻ることができる。それを否定はしない。そのように聴くことも過去を振り返るという点では意味がある。しかし、その耳でしかものが聞けない人が多くはないだろうか。それから、一体何年、何十年が経ったのだろう。その間に、きっと多くの新しい音楽に接したであろうに、当時の音楽への評価となると、何十年前かの耳に戻ってしまう。
その耳の中はさぞや、ぬくぬくとしていることだろう。時の中で温かく守られているだろう。しかし、こと、音楽を聴くという点では甘ったれた聴き方だと思う。今聴く音は、今の耳で評価されるべきではないだろうか。
時を経て、新しい音が現れても、変わらずすばらしい、心を動かす音はある。しかし、その時代の気分で流行った歌もある。それを区別するということは、大切なことのように私は思う。
思い出の中に浸ることは甘美だ。時は過去を美しくする。自分がその甘美さの中で聞いているのか、それとも、今の耳でもそれを美しいと思っているのかは、厳しく区別されるべきだと、私は思う。
同じことは目にも言える。過去の思い出という名の下、心を動かされてしまうこともある。
もっとも、厳しく区別すべきは、心であろう。昔のものを、懐かしいというだけど、「美しい音」「美しい絵」として見ていはしないか聴いてはいないかを、いつもいつも自らに問うべきだ。そうしなければ、本当に美しいものは見えてこない。
年長けて生きているからこそ、厳しく問わねばならない。

まだまだ草稿状態です。きちんと推敲しておりませんので、おかしなところがあるやも知れません。今日は年賀状印刷に忙しく、時間が足りませんでしたが、どうしても書きたくて、投稿いたします。
コメント (6)
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