11月、秋たけなわのお出かけは、名古屋市則武にある、トヨタの産業技術記念館。自動織機や、車の製造工程や、ロボット展や、お子達も一杯、家族連れ、ドこぞの企業のおじさんの研修旅行の団体。外国の方。賑わっておりました。子どもの頃から文系で、機械やらには興味がなかった私。機械って、煮物ばかしが詰まって全体に茶色いお弁当のようだと思ってた。それに比べて、お話やら歴史やらは、だし巻きの黄色、ブロッコリーの緑、トマトの赤、エビフライの黄金色、とにかく色とりどりで楽しそうって思ってた。しかし、大人になって「機械」を見ると、結構エキサイティング。最新の自動織機はまるで和太鼓集団のようにリズムを刻みながらお仕事をする。ロボットは心を持っているように、働いている。たっぷり時間をかけて見ても飽きない。私の頃の大学受験は、文系でも盛りだくさんの理系科目の記述入試があり、そのおかげで、否応なく理系科目のリテラシーは育てられた。昨今の受験は少子化の影響もあり、入試科目が減らされていたり、文系にとっての理系(理系にとっての文系)はマークシートとなってしまっている。大学入試の時期に、自分の専門の対岸にある科目を、きちんと勉強しないことのデメリットは大きい。日本は、マークシートの導入に伴い、そういう育て方をしてしまっているのかもしれない。本当に高度に専門化された研究をするには、真逆の発想、文系における理系的発想、理系における文系的発想が不可欠であるのに。それができない人を日本の教育は何年もかけて作り上げているということかもしれない。大学受験が人生最大の通過儀礼であるという日本のシステムにおいて、その罪過は深いなあ、とレンガ作りの展示館を見ながら考えた。
まだ、日暮れには時間があったので、急いで川上貞奴が福澤桃介と住んだ二葉御殿へと向かった。二葉御殿は数年前までその崩落が危惧されていたのだけれど、市の改修によって、きれいに保存されていた。「お大尽御殿探検隊(いつから?)」の私にとっては、ちょっと美しくなりすぎていて、もっと古いままで改修して欲しかったなって思ったのだけれど。
ステンドグラスの花、紅葉、女神。
往時の女性には珍しく、花のように口をあけて笑う美しい貞奴。そうして「人たらし」であっただろうと思わせる桃介の美丈夫ぶりの幾枚もの写真。ここは名古屋産業界のサロンであった。貞奴と桃介は若い頃出会い、お互い違う相手と結婚をした。貞奴は川上音二郎と結婚し、欧州で女優としての名声を轟かせた。桃介は福澤諭吉に見込まれその娘の養子となり、株投資で成功、電力王と呼ばれるまでになった。そうして、壮年となった二人はここに共に住んだ。彼らにとって、お互いは運命の恋人であったのだろう。しかし、貞奴は音二郎と結婚し欧州に渡っていなければ、一介の人気芸妓で終わっていたかもしれない。桃介も諭吉に見出されて婿になっていなければ、郷里に帰って病弱な教師にでもなっていたかもしれない。お互い違う相手と結婚したことにより、名をあげ、それ故に再会できたのかもしれない。それを経なければ、一緒になれぬ二人のえにしというものもある。それも運命の皮肉ということである。また出会うために、他者との結婚が必要であった二人。稀代の女優と稀代の電力王は、その運命の力で、最も人生の充実した時をここで過ごしたのだろう。
そうして私はあの青年を、いや、少年とも青年とも区別できぬあの頃の彼を思い出している。思い出は、多くはない幾本かの糸となり、その糸を私は縦にし、横にし織っている。時にあの時の彼の面影がふと形をなし、また消えてしまう。ちょっとだけ私に笑ってみせる。もうとうに青年ではなくなった彼の顔と重なったり、離れたりしながら。
まだ、日暮れには時間があったので、急いで川上貞奴が福澤桃介と住んだ二葉御殿へと向かった。二葉御殿は数年前までその崩落が危惧されていたのだけれど、市の改修によって、きれいに保存されていた。「お大尽御殿探検隊(いつから?)」の私にとっては、ちょっと美しくなりすぎていて、もっと古いままで改修して欲しかったなって思ったのだけれど。
ステンドグラスの花、紅葉、女神。
往時の女性には珍しく、花のように口をあけて笑う美しい貞奴。そうして「人たらし」であっただろうと思わせる桃介の美丈夫ぶりの幾枚もの写真。ここは名古屋産業界のサロンであった。貞奴と桃介は若い頃出会い、お互い違う相手と結婚をした。貞奴は川上音二郎と結婚し、欧州で女優としての名声を轟かせた。桃介は福澤諭吉に見込まれその娘の養子となり、株投資で成功、電力王と呼ばれるまでになった。そうして、壮年となった二人はここに共に住んだ。彼らにとって、お互いは運命の恋人であったのだろう。しかし、貞奴は音二郎と結婚し欧州に渡っていなければ、一介の人気芸妓で終わっていたかもしれない。桃介も諭吉に見出されて婿になっていなければ、郷里に帰って病弱な教師にでもなっていたかもしれない。お互い違う相手と結婚したことにより、名をあげ、それ故に再会できたのかもしれない。それを経なければ、一緒になれぬ二人のえにしというものもある。それも運命の皮肉ということである。また出会うために、他者との結婚が必要であった二人。稀代の女優と稀代の電力王は、その運命の力で、最も人生の充実した時をここで過ごしたのだろう。
そうして私はあの青年を、いや、少年とも青年とも区別できぬあの頃の彼を思い出している。思い出は、多くはない幾本かの糸となり、その糸を私は縦にし、横にし織っている。時にあの時の彼の面影がふと形をなし、また消えてしまう。ちょっとだけ私に笑ってみせる。もうとうに青年ではなくなった彼の顔と重なったり、離れたりしながら。