行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

土曜日も稼動すると・・・

2008-03-29 12:00:15 | Weblog
 今朝は、コンタクトレンズの検査で朝9時から外出した。検査が終わり、そのまま職場へ。土曜日に応対する部署もあるため、万が一同じ被害を被ったら、と思うと嫌な気持ちになる。土日を使って、平日に集中できない仕事を片付けることがあるので、もし、開城してしまえば、中途半端な仕事しかできず、集中できない分フラストレーションが溜まっていく訳で、効率の悪い仕事量になる。集中すれば午前中の2時間程度で終える仕事も、稼動すると、半日程かかってしまうこともある。午前中で終えて帰路につけると、少し得をした気になれる(そもそも出勤する事自体が大損している・・・)
 低コストで質の高い仕事、が当たり前なので、せめて無料奉仕している土日は守り抜いて欲しい。
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寒暖の差

2008-03-28 23:21:31 | Weblog
 この季節、日中と夜間の温度差が大きく、帰り道は案外寒い。しかし、寒い気温だから、桜の花もより美しく映える
 以前、坂口安吾を紹介したが、満開の桜の下を通ると、何か怖ろしい気持ちになる、というのが何となく分かる。
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夜桜

2008-03-28 23:10:14 | Weblog
 「あの夜、見事に咲いたお目付け桜、夜桜を・・・まさかうぬら、見忘れたとは言わせねえぞ!目ん玉かっぽじって、よっく見やがれい!」とは、松方金四郎。まさに、お奉行様、というよりヤ○ザ。実在した遠山金四郎は、女性の生首をかたどった刺青をしていた。本当は見せたがらなかった。また、遠山金四郎が住んだ屋敷は、以前、大岡忠相が住んでいたという。歴史の巡り合わせとは、本当に不思議なものである。
 北町奉行・遠山金四郎に対し、南町奉行は鳥居耀蔵であった。鳥居は「マムシの耀蔵」の異名を取り、奉行としての厳しさからとても嫌われていた。彼は明治維新後まで生きる。
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蒼天航路

2008-03-27 23:00:37 | Weblog
 1994年~2005年、週間モーニングに連載された曹操孟徳を主人公にした漫画。正史「三国志」は晋の史家・陳寿の著作で、『史記』・『漢書』・『後漢書』に続く4番目の正史である。三国の歴史を『魏書』、『蜀書』、『呉書』に分け、それぞれの国のトップや臣下の事跡を紀伝体で記している。この中で皇帝の一代記である「紀」は『魏書』あるだけで、『蜀書』、『呉書』には臣下などの事跡を記す「伝」のみである。晋は魏より政権を引継いでいるため、魏が正当でなければ晋王朝が正当ではなくなる。そのため、実際には皇帝にならなかったが、曹操を「武帝紀」としている。劉備は「先主伝」であり、孫権にいたっては、単に「孫権伝」と臣下並の扱いである。陳寿は、三国とも公平に記したが、簡潔で細かいエピソードが省かれている。その後、南北朝時代に裴松之(ハイショウシ)が諸書より資料を集め、史実を補完した。これが現在に流布する「三国志」である。
 『蒼天航路』は、小説であるところの悪玉=曹操、善玉=劉備にとらわれず、悪玉と評された人物が果たして本当に悪人なのか、という姿勢から描かれている。たった1代で、広大な中国の3分の2を支配下に置いた事は、やはり英雄と評すべきであろう。作品は、曹操の1代記で、曹操の死まで描かれる。曹操が人間と土地から新しき体制を創設し行く人物に対し、「神」に昇りつめた人物・関羽雲長との対比が興味を惹く。関羽の死に際し、丁重に国葬を営む曹操は、関羽の死を羨む場面がある。神として崇められ、後世に渡って祀られる関羽と、人間として亡くなっていく曹操自身を比較している。作者も、神になってしまった関羽に最大の敬意を払いつつ描いている感がある。また、劉備がいかにも人間くさく描かれ、小説のような聖人君子ではない。ヤクザの親分のような表現である。諸葛亮は曹操にとって、劉備の幕僚に過ぎない印象で描き続けている。後の晋王朝の礎を築いた司馬懿(シバイ)も曹操時代には、殆ど閑職に置かれていた。この辺りの経緯は、NHK人形劇三国志で、曹叡が北伐の蜀に対抗できる人物が司馬懿(シバイ)しかおらず、止む無く起用する事に際し、述懐している。「お祖父様(曹操)は司馬懿(シバイ)の鷹のような鋭い目付き(から底知れぬ野心を抱いている事)と、深慮遠謀な頭脳を見抜いていた。だから、文書整理のような閑職に置いていたのだ」と。そのため、曹操の活躍する時代には全くと言って良い程、無名であった。

 小説のイメージと全く異なる三国志。新訳三国史と思って読む事が出来る。
 
 この漫画の見せ場は数多くあるが、個人的には曹操対張繍の賈詡(カク)との応酬が最も印象に残っている。
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超人

2008-03-27 01:00:19 | Weblog
 漫画家ゆでたまごの「キン肉マン」が生誕29周年を迎え、「キン肉マンⅡ世」も連載された。Ⅱ世の方は何とも言えないが、最初の方は単行本36冊全巻所持していた。始めはギャグマンガだったが、徐々にシリアスな展開になり、「友情」が大きなテーマであった。年末にはDVDボックスも発売されるという。
 超人の設定も面白く、ラーメンマン(中国)、ブロッケンJr.(ドイツ)、テリーマン(アメリカ)、ロビンマスク(イギリス)、ウォーズマン(ソビエト)、ペンタゴン(アメリカ)などなど、当時の国際情勢を考えると面白い組み合わせである。例えばロビンとウォーズマンは師弟関係にあり、ロビンが師、ウォーズマンが弟子という設定である。イギリスとソビエトは手を組むのか?など考えていくと案外興味深くなる。また、ウォーズマンVSペンタゴンは、ペンタゴンが敗退し、アメリカ国防省はソビエト軍に敗れるということである。なかなか政治的なマンガだな、と感心してしまう。その中でも、ブロッケンJr.なんて、ハーケンクロイツが描かれていますが・・・。
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夢占い

2008-03-26 00:37:48 | Weblog
 昨日、というか先程、「三国志Ⅰ」で扱う予定だったのは魏末期の鐘会という人物。
鐘会と艾(トウガイ)が蜀討伐戦の司令官となり、天然の要害・剣閣に籠もる蜀の姜維軍と膠着状態となり、蜀軍は戦意が高く、力攻めをすれば魏軍が大損害を被る恐れがあった。
 この状況を打破すべく、艾が鐘会に断り、少人数の別働隊を率いて、道の無い山を進んで行った。鐘会は、艾の別働隊を全く期待していなかったが、予想に反し剣閣を抜け綿竹城に出没した魏軍を見て、守備兵らは剣閣が破られた、と錯覚し、あっさり降伏してしまう。これに勢いを得た艾は、降伏兵を加えながら成都を目指す。結局劉禅は戦わずして降伏。成都から降伏の勅旨を受け、剣閣に籠もる姜維軍は泣きながら剣を岩に斬りつけたという。
 この戦果に面白くないのは鐘会である。鐘会は、秀才でプライドも高く、艾に先を越されたのが不満で仕方が無かった。降伏した姜維は鐘会の人物を見抜き、プライドをくすぐりながら、魏から独立させた。姜維としては、見通しは絶望的であったが、蜀漢再興の最後の賭けであった。魏の司馬昭らは鐘会の野心を薄々感じていたが、鐘会は反乱を起こした。姜維や鐘会の策略で艾は殺害されたが、鐘会の反乱に従う部下は僅かであった。やがて直ぐに更に反乱が起こり、乱戦の最中、姜維も鐘会も戦死する。

 鐘会が戦死する前、無数の大蛇が鐘会に噛み付く夢を鐘会は見たという。姜維はその話を聞き反乱の失敗と、死を覚悟したが、鐘会には吉兆であると言い続けた。無数の大蛇は、どう考えても凶夢だったが・・・。

 夢占いの話でもう一つ。
董卓が呂布に殺害される前、董卓はこんな夢を見た。
 宮廷に向かう馬車に対し、袖口に「口」の文字が記された人物が馬車を止めた。するとその人物は突然、剣を振り下ろしてきたという。ここで董卓は目が覚めた。顔は見えないが、袖口だけが見えたその人物、それは呂布奉先であった。董卓は宮廷の中で、背後から呂布に呼び止められ、斬りつけられ絶命した。

 こんな挿話を紹介したかっただけだが、書き始めてしまった三国志。どう収拾しようか悩んでいる。
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三国志Ⅰ

2008-03-25 23:54:55 | Weblog
 「蒼天すでに死す、黄天当に立つべし」
184年、五斗米道とともに道教の祖とする太平道の創始者・張角は数十万の信徒を率いて河北・河南で挙兵した。「黄巾の乱」である。
 歴史的背景として、前漢末以来、豪族の大土地所有が進み、農民層が困窮していた。後漢の政府は宦官が権力を掌握し、皇帝をも自在に操る勢力であった。黄巾の乱が起こる15年ほど前、「党錮の禁」と呼ばれる、宦官の専横に反対する官僚や学者ら知識人が終身禁錮などの弾圧を受けていた。宦官政府は党錮の禁を解除し、農民と知識人の呼応を阻止しようとした。一方で、軍事力を持たないため霊帝の后である何皇后の兄・何進を大将軍に据えて乱の鎮圧に取り掛かり、諸国の豪族らに呼びかけた。
 何進自身、宦官の傀儡である事を不満に思い密かに宦官の一掃を企んでいた。また、呼応した豪族にも、宦官勢力を取り除こうとする豪族もおり、その急先鋒が河北の袁紹であった。袁紹は、4代続けて三公を排出した名門の出であり、諸豪族の旗頭として申し分ない身分であった。彼ら諸豪族もいち早く都・洛陽に入り皇帝を手中に抑えたい野心もあった。
 黄巾の乱そのものは、張角が乱発生後1年足らずで亡くなったため、組織的な結束はなくなったが、各地で断続的に乱は続いていた。洛陽の安全確保を最優先していた宦官政府は各地の豪族へ檄を飛ばし、それに呼応する形で袁紹、曹操、孫堅、劉備らが都を目指した。その中には、西涼の軍閥・董卓も含まれていた。
 さて、何進は乱の平定を進めながら宦官の一掃を目論んでいたが、この企みは事前に宦官の知るところとなった。これら宦官の中で特に権力の強かった者は「十常侍」と呼ばれ権勢を振るっていた。何進の動きを知った十常侍は先手を打ち、何進を討取ってしまった。何進が殺されたのを契機に、諸豪族は洛陽へ乱入、袁紹や曹操らが中心となり、今度は宦官を一掃し始めた。十常侍は、霊帝の後を継いだ弘農王と協(後の献帝)を連れ、密かに洛陽を落ちていった。
 皇帝不在の都に残った諸豪族連合はやがてすぐに反目し合い、各地へ帰って行った。残ったのは荒れ果てた都であった。この頃、孫堅が玉璽を発見した、と演義にある。
 十常侍の落ちて行った先で皇帝らを掌握したのは、遠方から出てきた董卓であった。黄巾の乱では殆ど戦果は無く、袁紹らに遅れて洛陽を目指していたが、思わぬ戦果にその本性が現れる。元々人物像はすこぶる悪かったようだが、正史でも演義でも碌な人物評がない。皇帝を手中に弘農王を廃して殺害し、協を皇帝に据えた。また悪逆非道の限りを尽くし、人心は離れていった。宦官政府は門戸を開いて虎狼を引き入れてしまった。

 当然これに反発する勢力が現れる。袁紹ら諸豪族である。

・・・勢いでPCを打っていたが、収拾がつかなくなるので、別の機会に続く(?)

三国時代末期の人物について述べたかったのだが、やはり熱い想いが沸いてしまった・・・。
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桜咲く

2008-03-23 11:56:38 | Weblog
 今日、何本かの桜が咲いていた
春には桜、夏は青々とした木々、秋は紅葉、冬は落ち葉に枯れ木、この国で良かったと思うのは、季節を感じることのできる環境。
 花粉も全開くしゃみが何回連続で出るか数えてみた。今日は7回。まずまずの成績。カゼも治ってきたので花粉症の処方をしてもらおうと思う。
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甲子園

2008-03-22 09:59:56 | Weblog
 今日から開会した選抜高校野球。80回の記念大会だそうだ。気付くとつい熱中してしまう。仕事より気になってしまう・・・。
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送別会

2008-03-21 23:57:42 | Weblog
 今の仕事に就いて5年6ヶ月が過ぎようとしている。早いような遅いような、時間が経過した。年度末に退かれる方のために送別会が催され、幹事でない分、気が楽だった。定年や任期切れの退職は皆に心の準備ができているが、前職場のように自己都合による退職が多いと、心の準備ができておらず、事実を受け入れるのに暫く時間がかかる。
 安酒の悪酔いか、頭がガンガンする・・・。普段から飲まないの知っているのに注ぐな!と言いたいが、言えない。
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浮世絵

2008-03-20 00:53:23 | Weblog
 切手のデザインとして頻繁に採用された浮世絵。菱川師宣が浮世絵の開祖と呼ばれ、江戸時代の庶民にとって大きな楽しみの一つであった。初期は江戸の師宣、上方の祐信(西川祐信)から始まり、北斎や広重で全盛を迎え、やがて日露戦争頃にその役割を写真に譲った。
 数多くの浮世絵師が世に出たが、後世、絵画にまで影響を与えた偉大な絵師がいる。人物像や風景画、特に風景画は江戸後期、旅行ブームと相まって北斎、広重は爆発的な人気を博した。浮世絵の歴史には六代絵師と称される人物がいる。
 まず三大美人画絵師。
①鈴木春信(1725~1770)は祐信に学び、錦絵(多色摺り版画)創始者として知られている。清純で可憐な美人画。

②鳥居清長(1752~1815)は春信の清純可憐に対し、東洋のヴィーナスと呼ばれた八頭身の美人像を創り、色彩感覚に優れた。

③喜多川歌麿(1753~1806)。その名声は生前から中国まで及んだ。女性の姿態、衣装表現のみならず、その心理をも描き、後世に与えた影響は大きい。歌麿を超える美人画絵師は遂に現れなかった。

 そして、北斎と広重
④葛飾北斎(1760~1849)は、「富嶽三十六景」に代表される風景画、花鳥画で次々と傑作を発表し、その作風は当時から超一級と評価されていた。

⑤歌川広重(1797~1858)は、安藤広重としても知られているが、本姓が安藤氏。「東海道五十三次」は説明不要の大傑作。北斎と広重の影響は、ヨーロッパの印象派にも影響を与えたという。北斎、広重の作品を見ると、その構図、色使いと駄作が無い。個人的には広重の方が好みのようである。

⑥東洲斎写楽(?~?)は、活躍時期が1794年~1795年の僅か9ヶ月。かつ、その間に144点の作品を発表している。正体が謎の絵師である。蔦屋十三郎が版元となって世に送り出した。蔦屋は経営感覚に優れ、歌麿を見出して世に送ったのもこの人物で、一説では、写楽の正体、とも言われている。写楽は20世紀に入り、海外で次第に評価が高まり、今日では浮世絵を語る上で欠かせない絵師である。

 これら絵師の画像をアップしたいところだが、とりあえず、文章のみ。
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郵便切手Ⅱ

2008-03-19 23:09:31 | Weblog
 以前にも書いたが、「月に雁」(安藤(歌川)広重)、「見返り美人」(菱川師宣)は人気が高く、現在でも高値で取引されている。切手趣味週間として、毎年4月下旬ごろに発行されるシリーズで、これ以外に「市川蝦蔵」(東洲斎写楽)、「ビロードを吹く女」(喜多川歌麿)らの浮世絵の名作が題材として用いられている。
 また、毎年11月頃は、国際文通週間シリーズが発行され、上記の切手趣味週間のように、人物像中心ではなく、風景画が多い。こちらは葛飾北斎、安藤(歌川)広重が殆ど。北斎の「神奈川沖浪裏」、「富嶽三十六景」、広重は「東海道五十三次」。
 切手のデザインに浮世絵がとてもマッチしており、芸術的絵画の数々を小さな枠に納めたセンスの良さを感じる。

 今回アップした画像は、「東海道五十三次」。
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チベット

2008-03-18 00:23:16 | Weblog
 北京オリンピックが近付き、また、全人代の大会もあり、タイミング的には4月頃までに今回の行動が起こるのは、機会を窺っていたのでは?との見方もあるようだ。チベット問題は、歴史的に遡らなければならない。過日の中華思想のように、宗主国として君臨しているのか、自国の領土として捉えているのか、「自治区」と名付けられたこの地域に限らず、多数の民族が共存している。軍隊による鎮圧の繰り返しは、国際世論に悪影響しか与えない。反対に、民主化を認めれば、中国政府そのものが危機に陥る。中国にとってはどんな手を選んでも、その後の処理が困難である。秘境の地で暴動が起きたのは現実だが、死傷者の数や規模、意図など、中国とチベットで相当な隔たりがある。
 昔、「セブンイヤーズ イン チベット」公開時も揉めた。ビョークでも揉めた。今回はどうなるのだろうか?
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智者猫?

2008-03-17 00:01:32 | Weblog
 私が借りている駐車場には茶トラと三毛が1匹ずつ住みついている。私の置き場は日中、日向になるため、朝、彼らが日向ぼっこをしている。しかし、車が近付くと、「ちっ、めんどくせーな。」と舌打ちしてそうな顔付きでのそのそ移動していく。彼らはその駐車場の車のボンネットに容赦無く乗り、足跡を必ず残していく。洗車した翌日は悲しくなる。
 彼らは仲間意識があるようで、決してケンカにはならない。しかし、先日、茶トラが昼寝している三毛を強引に起こし、怒った三毛が茶トラに猫パンチをお見舞いしていた。茶トラはすぐ忘れて自分の毛繕いを始めていた。
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猫の集会

2008-03-16 21:51:43 | Weblog
 YAHOO!にあったトピックから拾ってみた↓

 外暮しの猫は、基本的に排他的で、自分ひとりの生活を守っているが、数が増えると、そんなことを言っていられなくなる。
 単独生活を基本とする野生猫は、通常、成猫ならオスでもメスでも、自分だけの「縄張り」をもって生きている。「縄張り」の範囲は、ネズミなどの獲物が多ければ、狭くても十分で、獲物の密度が低ければ、広い縄張りが必要になる。
 野生猫が他の猫と暮らすのは、基本的に母猫と子猫の関係だけのようだ。子猫が育ち、自分で狩りができるようになると、子猫は、母猫の縄張りから出ていき、どこか別の場所に自分の縄張りを築いていく。
 メスの子猫なら、母猫の近くに自分の縄張りを築いて暮らすこともあるが、オスの子猫の場合、どこか遠くへ旅立っていく。これは、近親交配を避ける猫たちの知恵と言える。
 しかし、人の生活圏に暮らす野猫では、かなり様子が違ってくる。漁村など、人から与えられる食べものが豊富な場所に、多くの野猫が群れ暮らしていることは、よく見られる。これは、他の猫と争わなくても食べものが手に入るのなら、お互いの縄張りが重複しても、平和共存できる。
 しかし、そのような野猫の群れをよく観察すると、いくつかのグループに分かれて暮らしている。
 グループの基本単位は、母猫と娘猫を核とする母系集団。
それぞれの母系集団では、発情や出産の周期を一致させて、グループごとに共同育児をしていることもある。
 このような、縄張りを重複させて暮らす野猫たちが互いの存在を認め合う場が、よく「猫の集会」といわれるものではないか、と考えられている。
 集団生活を基本とする人の社会で生きていこうとすると、本来は単独生活者の猫も、やむをえず、群れに近い状態で生きざるを得なくなる。
「一緒に暮らしたくないけれど、食べものの豊富な場所を離れたくない。どうすればいいのか」。
 そこで、同じ地域のなかで、縄張りを重複させている猫同士が、縄張りを共有する公園や空き地、空き家などに集まって、ケンカせずに生きることを確認し合おうというわけである。
 集会は穏やかな雰囲気ですすめられ、日常的な顔見世興行のようなもの。お互いの顔を確認しあい、交流の安定化をはかっている。
 ここで顔を合わせた猫同士は、狩り場(ゴミ捨て場、集会所など)内でたまたま顔を合わせることがあっても、ケンカになることはない。
 集会は夜中だけでなく、日中日向ぼっこをしながら開かれることもあるようだ。

 この「猫の集会」に子猫が母猫に連れられて参加し、みんなに認められると、「市民権」を得たことになる。
 
 猫の社会も大変だね。うちの近所の猫達は、夜な夜な「フギャー」と叫びながら猛然と他の猫を追いかけ、ダッシュしている。たいてい何か、物が落ちる音がしてうるさい。
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