行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

例年以上に

2008-03-15 10:40:34 | Weblog
 春の訪れを感じるのは、気候の変化、鳥のさえずり、新芽の芽吹きなど、人それぞれにあると思うが、私も含めた花粉症の人々は目のかゆみ、鼻水、くしゃみ・・・こうした症状で春を知る。全く風流ではないと思う
 今年は花粉の飛散量が多いと予想されたとおり、私の発症も約1月早い。鼻が詰まる→口で呼吸→喉がやられるこのループで、声が潰れ、また、夜中に鼻が詰まりすぎて2~3時間おきに目が覚める。これが5月の連休くらいまで続く
 いい加減病院に行くべきだと思っている。すでに手遅れた感もあるが、行かないよりは良いだろう。

短編作品

2008-03-14 19:54:31 | Weblog
 最近、海音寺潮五郎の作品が再出版されている。独特の切り口で史実なのか、フィクションなのか分からない部分があるが、その謎を含め、とにかく面白く読んでいる。
 海音寺は「最後の薩摩隼人」、と呼ばれた。
 作家井伏鱒二が、第二次大戦中、海軍で同船になった。上官が「貴様らをぶった斬るぞ」と言った際、海音寺は「斬れるものなら斬ってみろ」と凄んだという。背中に背負った名刀がそう言わせたのか、ともかくも上官に口答えし、上官を黙らせた人物と話していた。そういう気概を持ち、平将門、藤原純友、梶原景時、高師直、大槻伝蔵など、悪人と呼ばれた人物を再構築し、本当に悪人だったのか、問いかけている。また、権力者や時代に反骨心を持って生きた人物、前田慶次、水野勝成など、作者の視点を通じて様々な人物の再認識ができた。長編作品もあるが、これらは短編で手頃なため、ついつい熱中してしまう。

ルパンが尊敬する人物

2008-03-12 23:22:36 | Weblog
 小説の怪盗ルパンことアルセーヌ・ルパンではなく、モンキーパンチのルパン三世は、第66話「射殺命令!!」で水銀弾を作りながら、その破壊力の説明に「ボクのパパ、ヘミングウェイが・・・」使った、というくだりがある。また、TVスペシャルで『ヘミングウェイペーパーの謎』という作品もあり、モンキーパンチ氏が尊敬していたのではないか、と推察できる。
 ヘミングウェイの最期は今ひとつ謎である。

小春

2008-03-11 22:28:27 | Weblog
 稽古前に水分を摂取した事もあり、汗が多かった。それよりも稽古中、暑く感じた。多少暖かい方が動きやすいが、夏の稽古は本当に苦しい。その反対に、冬は冬で寒すぎて身体の動きが悪い。春先と秋がまともな季節なのかもしれない。

越前宰相

2008-03-10 00:24:01 | Weblog
 徳川家康の次男として、秀忠の兄でありながら豊臣家、結城家へと養子に出され、武将としての資質に恵まれながら鬱屈した人生を送ったようである。矯激な性格をしていたとも言われる。徳川家にはどうもこの手の血が多い。長男信康、次男秀康、秀康の子・忠直、また、家光にも矯激な性格があった。気が荒く、一度怒ると手を付けられない、家康の家系にはこの手の傾向がよく出た。秀忠は一部の小説では腹黒く、陰湿残忍な描かれ方がなされているがどうであろう。家康は自分の血統に狂気じみた血が流れやすいのを知っていたのかもしれない。だから次男の秀康を指名せず、他の兄よりも穏やかな性質の秀忠を指名したのだろう。その結果もあり、徳川は太平の世を築く礎を作った。

歌姫

2008-03-09 00:41:10 | Weblog
 9年ぶりの来日という事もあり、生の歌声を聴いてみたくセリーヌ・ディオンのコンサートに行ってきた。私が初めて聴いたのは、「Power of love」で、15年?ほど前の高校生の頃だった。魂を揺さぶるような歌声と音域の広さに、彼女に興味を持った。
 東京ドームでのコンサートは、やはり感動だった。上述の「Power of love」や「My heart will go on」を始め、生で聞くコンサートは鳥肌が立った。歌の巧さと、聴衆を楽しませてくれるパフォーマンス、ショーを共に楽しもうという気持ちが伝わり、とても貴重な時間を過ごせた。約2時間、コスチュームを変えながら、最後まで素晴らしい歌声で歌い切った。
 そして、更に、帰宅してメールを確認すると、何とセリーヌからのメッセージメールが届いていた!本人が直接発信しているわけではないが、大方が帰宅するであろう23:30頃に受信していた。
 ファンを大切にしようとしてくれる、こうした細やかな心遣いがとても嬉しい。

「城塞」をまとめながら・・・

2008-03-08 00:52:26 | Weblog
 「城塞」を読んでいくと、豊臣家はどうやっても滅びるしかないと思われる。秀頼という犠牲が無ければ徳川の万全な体制は築けなかっただろう。豊臣家の跡継ぎは阿呆だったのか、そうでなかったのか、評価は全くできない。
 上・中・下3巻からなり、つまみ読みをしながら確認していったが、いつの間にか本に飲み込まれ、時間があっという間に過ぎ去った。

読書記30『城塞』

2008-03-07 23:44:46 | Weblog
   『城塞』(司馬遼太郎 著)

 大坂の陣を取り扱った作品である。関ヶ原の戦いから10年以上が過ぎ、秀吉の遺児・秀頼の健やかな成長ぶりは天下人徳川家康には恐怖以外のなにものでもなかった。
 慶長11年(1612年)、秀頼は家康と会見した。秀頼は18歳、家康は71歳。これからまだまだ成長する若木と、衰える一方の老木のようである。未来ある若者、体躯の立派な秀頼に家康は「生きているうちに豊臣を滅ぼさねばならない」と決意させた。関ヶ原で60万石の一大名に没落したとは言え、太閤の遺児であり、秀吉は経済政策に重点を置いていたため、金銀等の遺産は豊富に残している。その金銀を使えば多くの兵が雇えるし、秀頼の号令如何で関ヶ原で東軍に付いた外様大名は豊臣方に付く危険が高い。加藤清正、浅野幸長、福島正則ら秀吉子飼の大名、毛利、島津、上杉ら西軍に付いたため減封された大名、東軍内でも伊達政宗などは中央で風雲が起これば東北で独立し、江戸の背後を脅かす危険な存在であった。
 家康は事あるごとに寺の寄進や再建等を秀頼に勧め、その財源削減を進めていった。確かに大坂の陣までに多大な財源が失われたが、それでも大坂城内には金銀はまだまだ残っていた。
 そして方広寺鐘銘事件。「国家安康・・・君臣豊楽」、この言葉に言い掛かりを付け大坂方を挑発し、決戦に引き出した。この辺りの強引さは司馬氏をして、徳川の陰湿さだけが目立つ動きであった。大坂方は各方面から開戦を回避すべく手を尽くしたが、徳川から提示される条件がことごとく豊臣に不利なものばかりで、到底呑む事はできない。交渉に出向き続けた片桐且元は、大坂に持ち帰る条件が不利なものばかりで、徳川との内通が疑われ、徐々に孤立していった。その他、大坂場内には家康の息のかかった将や、織田有楽斎、織田信雄改め常真ら織田信長の弟や子達が混じっており、豊臣政権下で秀吉にとって主筋にあたる人物らを軽く扱えなった。織田家はどうしたわけか、信長という天才以外、常人或いは愚人で政治力も武力もなく、ただその存在感だけに価値があった。愚人であったがために生命を永らえた、とも言える。織田常真は、信長の横死以降没落が続き、秀頼に臣従している。大坂と江戸の戦の空気が近付くにつれ、今度こそ勝つ方に付き、安逸な身分を得たい、と考え、総大将を引き受けながらその夜に京都所司代に逐電、大坂場内の戦準備の密議をことごとく江戸に売ってしまった。その後、大和国で5万石を領有し、維新まで家名を永らえた。
 難攻不落といわれた名城、大坂の陣は1614年10月に開戦。開戦前、徳川家康は「真田の誰かが大坂城に入城した」との報を受け、手にかけた襖がカタカタ揺れていたという。当初幸村の父・昌幸と思ったらしいが、昌幸は既に故人で、子の幸村と知って安心した。しかし、この安心は後に裏切られる。
 大坂方は秀頼を城主に、大野治長、治房、木村重成、真田幸村、後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登ら9万、徳川方は家康、将軍秀忠、伊達政宗、松平忠直ら19万が戦った。大坂は真田、後藤、毛利らが起死回生の策を種々献策するがことごとく退けられ、その策が容れられる事は無かった。真田幸村は真田丸という櫓を設け、全員が赤備えで立て籠もった。幾重にも堀や塀を廻らし、敵を挑発しては殲滅する作戦を取った。この挑発に前田勢が乗ってしまい、戦端が開かれ前田、松平忠直、井伊直孝らの部隊が多くの死傷者を出して撤退した。大阪城の堅城ぶりは秀吉の生前、家康はその目で説明されてきたが、実際に攻撃したところ、その話が事実であった事を思い知らされただけであった。力攻めを続ければ徳川方に大きな損害が出る。戦が長引けば、まだ基盤の緩い幕府に叛旗を翻す大名が出てくるという不安を徳川方は抱えていた。冬の陣ではこの真田丸の激戦のみで他の戦いは殆ど無く、やがて東軍による場内への大砲攻撃が篭城中の淀殿らを恐怖に陥れ、和睦に踏み切らせた。
 徳川家は、和睦の条件以上に堀を埋めてしまい裸城当然の建築物となってしまった。もはや城に立て籠もって戦う事は不可能となった。そして大坂夏の陣が始まる。
 臣従する事も、篭城もできず、豊臣方の真田幸村らが狙ったのは、家康個人の首であった。戦って勝利する事は不可能である。ならば、最期に家康の首を狙おうと、起死回生の大勝負を打った。幸村の父・真田昌幸は、大坂必勝の策は我が胸中にあり、と生前語っていながら、幸村に対し、「お前ではムリだ」と言った。その策は、昌幸の武名があれば、その献策は当然重要視され、用いられる事が確実であろう。しかし、大坂の陣より前に配流先の紀州で亡くなった。幸村はその間際も見てきている。幸村は父のような武名は無く、その名は殆ど知られていなかった。しかし、冬の陣での真田丸の攻防で、敵味方とも真田幸村の采配の妙を知った。家康は冬の陣後、幸村を引き抜こうと幸村の叔父を使者に、信濃一国を与えるという大盤振る舞いで迎えようとした。幸村は拒否した。
 大坂に組した武将達は、負ける戦いと分かっていながら徳川に挑んだ。後藤又兵衛や毛利勝永もその経歴から一国の太守となるべき人物である。しかし太平の世には向かず、最期の死に花を華々しく散らす事が彼らの目的だったのかもしれない。
 真田と後藤の連携作戦は濃霧のため絶たれ、後藤は戦死。家康討伐の最終作戦は毛利勝永隊の鉄砲兵が待ちきれずに発砲した事から瓦解した。そして、赤備えの真田隊が家康本陣を目指して突撃を敢行する。「後方で浅野が寝返った」という報は徳川方を混乱に陥れた。確かに、徳川方の浅野家の隊列が不可解な動きをしていた。そして、三方が原の戦以来、家康本陣は崩れた。旗本はわれ先へと逃げ出してしまった。家康も、もはやこれまでと覚悟し、切腹を決意させた。しかし、本陣の危機を救うべく援軍が押し寄せ、真田隊は潰走する。
 幸村の最期は、疲労と戦傷で動けなくなったところを討取られた。幸村は影武者を2人用意し、そのため徳川は更に混乱した。後藤や真田の最期は、その情景を思うと涙が出そうである。この戦に参戦できなかった島津当主・島津家久は、家臣らの報告から、「真田日本一の兵」と書簡に認めた。家康を追い詰めた幸村を江戸時代、庶民にもてはやされたが、幕府は禁ずる事は無かった。また、後年「真田十勇士」の講談が生まれ、猿飛佐助、霧隠才三、三好清海、三好伊三、由利鎌之助、根津甚八、穴山小助、筧十蔵、望月六郎、海野六郎である。
 豊臣の最期を思うと、怒りの矛先は大坂城内の淀君始め、女官達に、秀頼に向かう。秀頼は1度も戦場に姿を出すことなく死んだ。秀吉晩年の子であるが、関ヶ原に参陣したならば、福島正則ら秀吉子飼の武将らはたちまち家康へ攻撃を開始しただろう。石田三成では秀頼を出馬させられず、後見として大坂城に入城した前田利家であれば、或いは出陣させる事ができたのかもしれない。しかし、利家は関ヶ原前に亡くなっており、利家が生きているうちは、家康でも事を起こすことはできず、勝負時まで耐えに耐えた家康が1枚も2枚も上手なのだと思わざるを得ない。

読書記29『武器よさらば』

2008-03-06 22:38:56 | Weblog
   『武器よさらば』(ヘミングウェイ 著)
 全5部作41章からなる、ヘミングウェイの『日はまた昇る』に続く2番目の長編小説である。1929年に初版が出版されたが、たちまち重版が続き、政治体制や経済体制を超え、所謂近代文学の洗礼を経た国であれば、多くの人に読まれている作品である。なぜ多くの人々に読まれ、継続的に出版されているのか。それは、単におもしろいから、だけでなく、この小説は無駄な修飾がなく、テンポが速く、内容が明確で分かりやすい。さらに加えて、読後に残る何とも言えない余韻であり、この作品を受け入れる地盤が各国共通に存在しているため、と考えられる。
 
 舞台は第一次世界大戦のイタリア戦線。戦争と恋愛がこの小説の主題である。淡々と戦争の冷酷非情が描かれ、これらの描写のため、厭戦小説、反戦小説と呼ばれる。
 アメリカ人中尉ヘンリーは武器を投げ捨て、イギリス人看護婦バークレイと共に戦場から逃れる。バークレイは献身と純愛、健気さと勇気を兼ね備え、男性から見た理想の女性像であり、女性からはこのように男性に恋愛できたなら、と思わせる女性である。
 戦争に直面せざるを得ない現実と、それに晒された人間の悲しさ、虚しさを描き、他方で神を見失った現代人の不幸と悲惨、現在の不毛を警鐘し散りばめた作品と捉える事もできる。作品中、ヘンリーは戦線離脱後しばしば、自分を犯罪人の如く思い悩む様子は、戦争という社会悪から逃れても、逃れた事自体が彼自身を罰する「罪と罰」でもある。
 戦場を脱出した二人は、追跡を逃れたが、安住の地はなかった。懐妊していたキャサリンだったが、小説の最後、出産が始まる。・・・しかし、母子共にヘンリーと病院を生きて帰ることはなかった。一人ヘンリーは雨の中、ホテルへ帰って行く。
 暗く悲しい展開だが、最後までこの小説の持つ独特のテンポは変わらない。短い簡単な文章を重ねながら、読者は知らず知らずのうちに作者の芸術の巧みさに時間の経過を感じぬほど、夢中で読み耽ってしまう。ヘミングウェイの偉大さを垣間見る事のできる作品である。

戦国時代最大のイベント

2008-03-05 22:07:11 | Weblog
 以前紹介したが、『信長の野望 武将風雲録』に隠されたもう1本のシナリオ、それが本能寺の変直後のシナリオである。このシナリオを出現させるには、本能寺の変が起きなければならない。コンピューター主動ではこの通り動かないので、このイベントのためだけに織田家をユーザー大名として選んだ。他の信長シリーズでもこの変が起きる事があるが、条件が高度過ぎて起こらない可能性が強い。
 実際にやってみた・・・。史実と同様の配置、すなわち丹波に明知光秀や同秀満、播磨に羽柴、加賀に柴田、そして、山城に信長、信忠、森蘭丸が揃い、1582年以降であれば自動的に発動する。今更ながら始めて起こしたイベントで、単純にも感動してしまった
 『太閤立志伝』にもこうしたイベントが用意されていた記憶がある。ユーザーは秀吉が基本だが、敢えて光秀を選び、本能寺の変を起こし、その後羽柴、柴田に連勝し天下統一をした思い出がある。どのゲームでも信長を倒した後がキツイ

戦の歴史

2008-03-04 00:48:49 | Weblog
 『戦乱の日本史』という雑誌が時折書店に並んでいる。ついつい購入してしまう・・・。今回で6冊目。天璋院篤姫と勝海舟を取り上げ、江戸城無血開城について特集している。次回は西南戦争、その次は日露戦争と続き、全50冊の発行予定である。しかし、アレは扱わない予定である。
 作家・司馬遼太郎は、アノ戦いについて、逝去する直前まで関係資料を膨大に収集していた。しかし執筆される事なく世を去った。まだ書くべき時ではないのか、歴史の暗部として闇に葬るつもりなのか。賠償問題如何はともかく、やはり歴史から学ばねばならない事が後世の世代の義務でもあると思う。人間は愚かで過ちを必ず繰り返す生物だから・・・。

 話題が飛ぶが、環境問題も人類の行為の結果である。BSE問題も元を正せば、草食動物に肉骨粉なる肉を食べさせたから、時間の経過と共に問題が大きくなって出てきた。元々生命倫理は誰かが手を付けて良い問題ではない。それを敢行すれば、自身に大きく返って来る。何度となく繰り返しているのに全く学んでいない。我々人類が滅びる事が、この星にできる唯一の恩返しなのかもしれない。
 これは、藤宮の考えを引き合いに出したが、究極的である一方、説得力のある危険な考え方である。最近、この考え方に共感できてしまう自分が怖ろしい

世にも奇妙な・・・

2008-03-03 21:16:12 | Weblog
 TV番組のタイトルではない。
ニュースで、11人乗りの軽乗用車が事故を起こし、怪我人が出たという。
このニュースを聞いた時、「は?」と感じた。第一、軽乗用車で11人乗り、てありえないだろ!箱乗りは基本だとしても、どうやったら11人乗れるんだろうか?事故云々より、これだけの人数を乗せて公道を走らせた事自体、事故であり、事件である

鬼太郎

2008-03-02 12:05:43 | Weblog
 日曜の朝、寝起き眼で「ゲゲゲの鬼太郎」を観てしまう。1968年、71年、85年、96年そして2007年~の第5作へと続いている。初期の68年版は白黒だが、それが却って妖怪の不気味さが引き出されている。
 登場するキャラやタイトル、話のコンセプトは各シリーズほぼ同じだが、やはり見入ってしまう。
 多才なキャラが毎回賑わせているが、その中でも、何と言ってもねずみ男ほど自分に正直に生きている妖怪は居ないと思う。あれだけ平気で裏切れるのは相手を油断させる能力と、ここぞ、という時の完璧なまでの裏切るタイミングを熟知した天才だと思う。

100本超え

2008-03-01 13:45:49 | Weblog
 気が付いたらブログの記事が100本を超えていた。毎日読書記を書く事はできないが、それ以外に思った事、感じた事を適当に書き連ねたが、読み直すと我ながら恥ずかしく思う事だろう。だから、読み直さない。しかし、誤字脱字があるので、それを公開している方が恥なので、一応読み直してはいる。