行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

読書記30『城塞』

2008-03-07 23:44:46 | Weblog
   『城塞』(司馬遼太郎 著)

 大坂の陣を取り扱った作品である。関ヶ原の戦いから10年以上が過ぎ、秀吉の遺児・秀頼の健やかな成長ぶりは天下人徳川家康には恐怖以外のなにものでもなかった。
 慶長11年(1612年)、秀頼は家康と会見した。秀頼は18歳、家康は71歳。これからまだまだ成長する若木と、衰える一方の老木のようである。未来ある若者、体躯の立派な秀頼に家康は「生きているうちに豊臣を滅ぼさねばならない」と決意させた。関ヶ原で60万石の一大名に没落したとは言え、太閤の遺児であり、秀吉は経済政策に重点を置いていたため、金銀等の遺産は豊富に残している。その金銀を使えば多くの兵が雇えるし、秀頼の号令如何で関ヶ原で東軍に付いた外様大名は豊臣方に付く危険が高い。加藤清正、浅野幸長、福島正則ら秀吉子飼の大名、毛利、島津、上杉ら西軍に付いたため減封された大名、東軍内でも伊達政宗などは中央で風雲が起これば東北で独立し、江戸の背後を脅かす危険な存在であった。
 家康は事あるごとに寺の寄進や再建等を秀頼に勧め、その財源削減を進めていった。確かに大坂の陣までに多大な財源が失われたが、それでも大坂城内には金銀はまだまだ残っていた。
 そして方広寺鐘銘事件。「国家安康・・・君臣豊楽」、この言葉に言い掛かりを付け大坂方を挑発し、決戦に引き出した。この辺りの強引さは司馬氏をして、徳川の陰湿さだけが目立つ動きであった。大坂方は各方面から開戦を回避すべく手を尽くしたが、徳川から提示される条件がことごとく豊臣に不利なものばかりで、到底呑む事はできない。交渉に出向き続けた片桐且元は、大坂に持ち帰る条件が不利なものばかりで、徳川との内通が疑われ、徐々に孤立していった。その他、大坂場内には家康の息のかかった将や、織田有楽斎、織田信雄改め常真ら織田信長の弟や子達が混じっており、豊臣政権下で秀吉にとって主筋にあたる人物らを軽く扱えなった。織田家はどうしたわけか、信長という天才以外、常人或いは愚人で政治力も武力もなく、ただその存在感だけに価値があった。愚人であったがために生命を永らえた、とも言える。織田常真は、信長の横死以降没落が続き、秀頼に臣従している。大坂と江戸の戦の空気が近付くにつれ、今度こそ勝つ方に付き、安逸な身分を得たい、と考え、総大将を引き受けながらその夜に京都所司代に逐電、大坂場内の戦準備の密議をことごとく江戸に売ってしまった。その後、大和国で5万石を領有し、維新まで家名を永らえた。
 難攻不落といわれた名城、大坂の陣は1614年10月に開戦。開戦前、徳川家康は「真田の誰かが大坂城に入城した」との報を受け、手にかけた襖がカタカタ揺れていたという。当初幸村の父・昌幸と思ったらしいが、昌幸は既に故人で、子の幸村と知って安心した。しかし、この安心は後に裏切られる。
 大坂方は秀頼を城主に、大野治長、治房、木村重成、真田幸村、後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登ら9万、徳川方は家康、将軍秀忠、伊達政宗、松平忠直ら19万が戦った。大坂は真田、後藤、毛利らが起死回生の策を種々献策するがことごとく退けられ、その策が容れられる事は無かった。真田幸村は真田丸という櫓を設け、全員が赤備えで立て籠もった。幾重にも堀や塀を廻らし、敵を挑発しては殲滅する作戦を取った。この挑発に前田勢が乗ってしまい、戦端が開かれ前田、松平忠直、井伊直孝らの部隊が多くの死傷者を出して撤退した。大阪城の堅城ぶりは秀吉の生前、家康はその目で説明されてきたが、実際に攻撃したところ、その話が事実であった事を思い知らされただけであった。力攻めを続ければ徳川方に大きな損害が出る。戦が長引けば、まだ基盤の緩い幕府に叛旗を翻す大名が出てくるという不安を徳川方は抱えていた。冬の陣ではこの真田丸の激戦のみで他の戦いは殆ど無く、やがて東軍による場内への大砲攻撃が篭城中の淀殿らを恐怖に陥れ、和睦に踏み切らせた。
 徳川家は、和睦の条件以上に堀を埋めてしまい裸城当然の建築物となってしまった。もはや城に立て籠もって戦う事は不可能となった。そして大坂夏の陣が始まる。
 臣従する事も、篭城もできず、豊臣方の真田幸村らが狙ったのは、家康個人の首であった。戦って勝利する事は不可能である。ならば、最期に家康の首を狙おうと、起死回生の大勝負を打った。幸村の父・真田昌幸は、大坂必勝の策は我が胸中にあり、と生前語っていながら、幸村に対し、「お前ではムリだ」と言った。その策は、昌幸の武名があれば、その献策は当然重要視され、用いられる事が確実であろう。しかし、大坂の陣より前に配流先の紀州で亡くなった。幸村はその間際も見てきている。幸村は父のような武名は無く、その名は殆ど知られていなかった。しかし、冬の陣での真田丸の攻防で、敵味方とも真田幸村の采配の妙を知った。家康は冬の陣後、幸村を引き抜こうと幸村の叔父を使者に、信濃一国を与えるという大盤振る舞いで迎えようとした。幸村は拒否した。
 大坂に組した武将達は、負ける戦いと分かっていながら徳川に挑んだ。後藤又兵衛や毛利勝永もその経歴から一国の太守となるべき人物である。しかし太平の世には向かず、最期の死に花を華々しく散らす事が彼らの目的だったのかもしれない。
 真田と後藤の連携作戦は濃霧のため絶たれ、後藤は戦死。家康討伐の最終作戦は毛利勝永隊の鉄砲兵が待ちきれずに発砲した事から瓦解した。そして、赤備えの真田隊が家康本陣を目指して突撃を敢行する。「後方で浅野が寝返った」という報は徳川方を混乱に陥れた。確かに、徳川方の浅野家の隊列が不可解な動きをしていた。そして、三方が原の戦以来、家康本陣は崩れた。旗本はわれ先へと逃げ出してしまった。家康も、もはやこれまでと覚悟し、切腹を決意させた。しかし、本陣の危機を救うべく援軍が押し寄せ、真田隊は潰走する。
 幸村の最期は、疲労と戦傷で動けなくなったところを討取られた。幸村は影武者を2人用意し、そのため徳川は更に混乱した。後藤や真田の最期は、その情景を思うと涙が出そうである。この戦に参戦できなかった島津当主・島津家久は、家臣らの報告から、「真田日本一の兵」と書簡に認めた。家康を追い詰めた幸村を江戸時代、庶民にもてはやされたが、幕府は禁ずる事は無かった。また、後年「真田十勇士」の講談が生まれ、猿飛佐助、霧隠才三、三好清海、三好伊三、由利鎌之助、根津甚八、穴山小助、筧十蔵、望月六郎、海野六郎である。
 豊臣の最期を思うと、怒りの矛先は大坂城内の淀君始め、女官達に、秀頼に向かう。秀頼は1度も戦場に姿を出すことなく死んだ。秀吉晩年の子であるが、関ヶ原に参陣したならば、福島正則ら秀吉子飼の武将らはたちまち家康へ攻撃を開始しただろう。石田三成では秀頼を出馬させられず、後見として大坂城に入城した前田利家であれば、或いは出陣させる事ができたのかもしれない。しかし、利家は関ヶ原前に亡くなっており、利家が生きているうちは、家康でも事を起こすことはできず、勝負時まで耐えに耐えた家康が1枚も2枚も上手なのだと思わざるを得ない。