行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

三国志Ⅰ

2008-03-25 23:54:55 | Weblog
 「蒼天すでに死す、黄天当に立つべし」
184年、五斗米道とともに道教の祖とする太平道の創始者・張角は数十万の信徒を率いて河北・河南で挙兵した。「黄巾の乱」である。
 歴史的背景として、前漢末以来、豪族の大土地所有が進み、農民層が困窮していた。後漢の政府は宦官が権力を掌握し、皇帝をも自在に操る勢力であった。黄巾の乱が起こる15年ほど前、「党錮の禁」と呼ばれる、宦官の専横に反対する官僚や学者ら知識人が終身禁錮などの弾圧を受けていた。宦官政府は党錮の禁を解除し、農民と知識人の呼応を阻止しようとした。一方で、軍事力を持たないため霊帝の后である何皇后の兄・何進を大将軍に据えて乱の鎮圧に取り掛かり、諸国の豪族らに呼びかけた。
 何進自身、宦官の傀儡である事を不満に思い密かに宦官の一掃を企んでいた。また、呼応した豪族にも、宦官勢力を取り除こうとする豪族もおり、その急先鋒が河北の袁紹であった。袁紹は、4代続けて三公を排出した名門の出であり、諸豪族の旗頭として申し分ない身分であった。彼ら諸豪族もいち早く都・洛陽に入り皇帝を手中に抑えたい野心もあった。
 黄巾の乱そのものは、張角が乱発生後1年足らずで亡くなったため、組織的な結束はなくなったが、各地で断続的に乱は続いていた。洛陽の安全確保を最優先していた宦官政府は各地の豪族へ檄を飛ばし、それに呼応する形で袁紹、曹操、孫堅、劉備らが都を目指した。その中には、西涼の軍閥・董卓も含まれていた。
 さて、何進は乱の平定を進めながら宦官の一掃を目論んでいたが、この企みは事前に宦官の知るところとなった。これら宦官の中で特に権力の強かった者は「十常侍」と呼ばれ権勢を振るっていた。何進の動きを知った十常侍は先手を打ち、何進を討取ってしまった。何進が殺されたのを契機に、諸豪族は洛陽へ乱入、袁紹や曹操らが中心となり、今度は宦官を一掃し始めた。十常侍は、霊帝の後を継いだ弘農王と協(後の献帝)を連れ、密かに洛陽を落ちていった。
 皇帝不在の都に残った諸豪族連合はやがてすぐに反目し合い、各地へ帰って行った。残ったのは荒れ果てた都であった。この頃、孫堅が玉璽を発見した、と演義にある。
 十常侍の落ちて行った先で皇帝らを掌握したのは、遠方から出てきた董卓であった。黄巾の乱では殆ど戦果は無く、袁紹らに遅れて洛陽を目指していたが、思わぬ戦果にその本性が現れる。元々人物像はすこぶる悪かったようだが、正史でも演義でも碌な人物評がない。皇帝を手中に弘農王を廃して殺害し、協を皇帝に据えた。また悪逆非道の限りを尽くし、人心は離れていった。宦官政府は門戸を開いて虎狼を引き入れてしまった。

 当然これに反発する勢力が現れる。袁紹ら諸豪族である。

・・・勢いでPCを打っていたが、収拾がつかなくなるので、別の機会に続く(?)

三国時代末期の人物について述べたかったのだが、やはり熱い想いが沸いてしまった・・・。