行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

読書記69 『病が語る日本史』

2021-03-11 17:55:18 | Weblog
読書記69 『病が語る日本史』(酒井シヅ 著)

10年ほど前に読んだ本で、コロナ禍において改めて読む機会を得た。
古来から寄生虫をはじめ、様々な病気と付き合ってきた。何世代もの間、病との付き合いを繰り返すうちに、免疫が付いたほか、共存方法を遺伝子的に確立していった。

日本において、古代の遺跡から人骨等が発掘され、亡くなった原因が分析されてきた。
戦闘や狩猟で大けがを負って亡くなった者、食あたりのような症状で亡くなった者など、その人物の最期が判明してくる。
縄文時代の人骨からはポリオと思われる痕跡が発見されたり、食人の痕跡もあった。
飢饉と疫病の繰り返しが歴史そのものであると感じた文面だった。

弥生時代、大陸との交流が確認されると病気も入ってくる。結核である。結核は慢性症状を患うと、骨に痕跡が残り判明する。
やがて大和政権が誕生するが、飢饉と疫病の流行に、その時代の為政者は責任を感じ、加持祈祷や年号の改元など、古代的な手法で改善を試みた。
政権が誕生したことによって、記録が残るようになり、700年ころから天然痘が国内に入ってきたことが分かる。藤原不比等やその子である4兄弟は天然痘で亡くなっている。
この頃、天然痘は全国的に広まっており、当時の医療では、まず加持祈祷がメインであった。当然、医療的な試みもあったが、解決には至らず、20世紀になり、ようやく人類が唯一撲滅できた病気である。

鑑真の来日は仏教的な側面だけでなく、当時の最先端医薬の普及にも貢献した。
正倉院の宝物にこれら貴重な薬品が使用された記録が残っている。

その後、平安時代の中心となった藤原氏には遺伝的にも糖尿病の者が多く、藤原道長も糖尿病に苦しみ亡くなっていった。

戦国期では武田信玄、蒲生氏郷、徳川家康などは内臓のがんにより亡くなっている。ただ、当時はがんと診断できたわけでなく、明治時代、西洋から医学知識が流入し、
過去の記録を分析した結果、内臓のがんだったことが判明した。
蒲生氏郷は信長の娘婿で、その将来を嘱望されていたが40歳で亡くなっている。記録によれば、朝鮮出兵で名護屋に滞在していた頃、既に症状が出ており、死因は大腸がんと推測される。
亡くなった当時から毒殺説があったが、当時の医師の記録からやはり、病で亡くなったことが分かる。

幕末に国内で流行したコレラは、紀元前400年頃インドで発生し、地方限定的なものであったが、ヨーロッパの進出と共に世界各国へ伝播していった。
幕府崩壊から遡る40年ほど前、1822年にコレラは国内に入ってきた。対馬から下関、大阪へ広がり収束していったが、この時のものは中国から入ってきたものである。
1820年にコレラに関する情報は一部の蘭学者に伝わっていたが、為す術もなかった。
世界的にも数度の大流行が発生したが、コッホの原因菌の発見と徹底した検疫によって、元来の限定的な流行病となった。

ヨーロッパで黒死病として恐れられたペストは、国内では明治時代に初めて海外から持ち込まれたが、この時は水際作戦が功を奏し、徐々に収束していった。

この本では新型コロナへの言及はないが、読み進めると、今日にも当てはまりそうな内容で考え込んでしまった。
日本では、ペストの恐怖の洗礼を受けていなかったためか、新型コロナウイルスに関しては、この時のような水際作戦を取らず、海外からの流入を止める様子もなかった。
人工的なウイルスなのか、新規のウイルスなのかは今後の研究対象となるが、拡大防止の手立てを施さなかったように感じた。
感染が広がる中で変異型の発生が続き、このウイルスの感染力の強さ、環境変化への対応の高さなど、人工的なウイルスが研究中に誤って外部へ漏れたのではないか、と思わせるものである。
発生源といわれる国の高官に発症例を聞かないのも、ある程度、防疫対策が事前に為されていたのでは、と勘繰ってしまう。

この他、麻疹や赤痢、眼病など、これまで日本人は多く病と付き合いながら、望まない共存をしてきた。
完全に制圧できない病を、いかに症状を和らげ重症化しないか、また、予防方法など、これからの進歩と共に新たな病との共存が予測できる。

医療技術の発展と共に高度に耐性を有する新しい病との攻防が続いていく。
コメント
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