行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

読書記7 『代表的日本人』

2007-11-30 23:16:52 | Weblog
   『代表的日本人』(内村鑑三 著)
 日本人が英語で日本の文化・思想をヨーロッパ社会に紹介した代表的な著書は、『武士道』(新渡戸稲造)、『茶の本』(岡倉天心)、そして、『代表的日本人』である。
 周知のように、内村はキリスト教を信奉し、当時の明治国家の中で、いかに彼は信仰を貫くか、苦悩は察するに余りある。内村はその冒頭に「(略)青年期に抱いていた、わが国に対する愛着はまったくさめているものの、わが国民の持つ多くの美点に、私は目を閉ざしていることはできません。日本が、今もなお『わが祈り、わが望み、わが力を惜しみなく』注ぐ、唯一の国土であることには変わりありません。わが国民の持つ長所―私どもにありがちな無批判な忠誠心や血なまぐさい愛国心とは別のもの―を世界に知らせる一助となる(以下、略)。」とある。
 彼がこの著で西洋に紹介した人物は5人。西郷隆盛(新日本の創設者)、上杉鷹山(封建領主)、二宮尊徳(農民聖者)、中江藤樹(村の先生)、日蓮上人(仏僧)である。いわゆる不敬事件のため、教職から退いた内村は、日本人の「偉人」伝を盛んに読み、キリスト教国から「異教徒」と呼ばれる日本人の中に、キリスト教徒よりも優っている人物を見出していた。最初の出版は1894年(明治27年)日清戦争勃発後で、この戦争が日本にとっての義戦であることを訴えるため、日本が正義をもって立脚している国家であることを世界に知らせなくてはならず、かつて朝鮮問題で政府を去った西郷隆盛こそ、それに相応しい人物だった。また、国民が、何にもまして普遍的な「法」に基づき、権力や人によることなく生きる必要を説いた日蓮こそ、内村の仰ぐ人物だった。西郷を巻頭に、日蓮を最後に配したのは十分な理由があったのだ。
 しかし、日清戦争が内村の期待を裏切り義戦ではなかったため、世界に向けて義戦を訴えたことを大いに恥じた。その後日露戦争が勃発するが、戦争に義戦はなく、非戦論しかない、とする立場に変わっていった。本書は初版から13年後に改定されたものである。日露戦争の結果は、ヨーロッパ諸国の注目を受け、日本への関心を著しく高めた。そのこともあり、この書は、ドイツ語(ドイツ語への訳はヘルマン・ヘッセの父が行った!)、デンマーク語、英語等に訳され西洋各国に広まっていった。
 内村はこの5人を紹介し、①キリスト教信徒に対し、優るとも劣らない日本人の存在を紹介した。②彼の理解したキリスト教的人物像が投射され、彼独自の宗教的人物像が創出されている。③ナショナリズムが見られる。④近代西洋文明と、それを安易に受容した近代日本を批判している。⑤日蓮は内村にとって多くの共通点を見出した。日本における「キリスト教の日蓮」との強い気持ちが察せられ、日蓮を取り出した事で内村自身の自己確立をはかった。
 
 後年、作家・童門冬二氏は作家になるにあたり、内村鑑三の『代表的日本人』で取り扱った5人について小説化したいと大願を立てたそうだ。西郷、上杉、二宮、中江と順次小説化していったが、「手が出ない」と感じていたのが日蓮だった。様々な方面からの激励の後執筆に至ったが、これを書き終えたことで、氏は作家活動に一応のカンマを打てた、と語っている。
 童門氏の人物に対する描写は、単なる歴史小説ではなく、それを現在にどう活用していくのか、という命題に立っているので、時間の経つことを忘れるほど熱中して読み漁った。
 『国僧日蓮』(童門冬二 著)を読み終えた後、『代表的日本人』にそのルーツがあることを知って読むに至った。
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鴎外作品との出会い

2007-11-30 00:46:58 | Weblog
 鴎外作品では、「阿部一族」や「高瀬舟」に強烈な印象を記憶しているが、私の初めての出会いは「舞姫」だった。丁度、高校2年の冬だったか、現代文の授業で扱っていて、年明けには試験という時期、冬休みの深夜に映画版が放送されていた。一度作品を読んでいるだけに内容が頭に入りやすかった。
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大村と西園寺

2007-11-29 00:06:28 | Weblog
『花神』を読み直して思ったことは、やはり歴史は面白い!という事だ。
大村が生前、足利尊氏の如き人物が九州から立ち上がる、と先見していたように、明治10年西南戦争でその予言が現実のものとなる。それは西郷隆盛だった。西郷自身に意識があるかないかに関わらず、維新で変わったはずの生活が、逆に幕政時代よりも民衆は苦しむ事になった。また、武士達の不満は消えることなく、再革命を世論は望むようになっていた。
 仮想敵に西郷を描き、その威望に対抗できるのは同時代の人物では皆無と考えた。実力では及ばないとしても、朝廷に近い人物、或は、朝廷人の威信・名声でしか対抗できそうに無いと大村は考え、その白羽の矢に立てた人物が、西園寺公望であった。そのように大村が育成しようとしていた話は興味深い事だった。
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読書記6 『安寿と厨子王』 

2007-11-28 23:54:43 | Weblog
   『安寿と厨子王』(森鴎外 著)
 ―平正氏の嫡男厨子王とその姉安寿、そして母親、女中の4人は、筑紫へ流されたという父親の消息を追って、北陸の直江津に入る。そこは、人買が出るため、旅人を泊めてはいけないという土地であったが、山岡太夫という船頭が彼ら親子を泊めたが、この男こそ人買であった。筑紫までは海路で行くべきだ、というアドバイスに従い、翌日、山岡太夫の紹介で2艘の舟で行く事となり、1艘にに安寿と厨子王、もう1艘に母親・女中とで別れて乗ったが最後、母と女中を乗せた船は佐渡へ、安寿と厨子王を乗せた船は南の若狭を目指して分かれていった。別れ際に母親は2人に向かって、守本尊と刀を大切にするよう伝える。母親に会いたい一心で、二人は泣きながら日々過ごした。若狭で山椒太夫に買われた2人だったが、安寿が水汲み、厨子王が芝刈りをさせることとし、2人がか細く見えたため、少し仕事を減らして労働させた。いつも二人で、厨子王はここを抜けて母親を追いなさい、と安寿と話していた所を山椒太夫の息子に聞かれ、太夫の前に連れられ、二人の額に烙印を押した。部屋に戻され余りの苦しさに悶え、守護仏に祈ると、額の烙印は消え、代わりに守護仏の額に傷が浮かび、二人は夢でも見ていたかのように、額には何も傷が無かった。その後から安寿は徐々に話さなくなり、何やら達観したような顔つきに代わっていった。やがて1年が過ぎ安寿15歳、厨子王13歳となると、安寿は志願して男の仕事である芝刈りへ出かけ、ある日厨子王に脱走を命じた。脱走先は都、姉は守本尊を渡した。すぐに山椒大夫の追っ手が迫ったが、厨子王は国分寺に匿われ、そのまま弟子となり、師匠と都へ上って行った。この頃安寿が入水したと聞いた。東山の清水寺に泊まった翌朝、ある老人に守本尊を貸してくれと頼まれた。この老人は関白師実であった。厨子王は自分の身上を語ると、師実は厨子王の家系の確証を得た。師実は厨子王を還俗させた。彼の父である平正氏の安否を確認するが、既に亡くなっていた。厨子王は名を正道に改め、丹後の国守に任命された。彼は最初の政として、丹後で人身売買を禁止した。
 その後、母が辿り着いたであろう佐渡へ渡り、行方を探るが容易に発見できなかった。ある日、途方に暮れながら市中を歩くと歌のような詞を呟いているぼろを着た目の不自由な女を見かけると、心が惹かれた。その女は「安寿恋しや、ほうやれほ。厨子王恋しや、ほうやれほ。鳥も生あるものなれば、疾う疾う逃げよ、逐わずとも。」と呟いていた。正道はこの詞を聞いて女の前に進んだ。女は気配を感じ、見えぬ目で前を見た。その時、両方の目に潤いが出て、目が開いた。女は「厨子王」と叫んだ。厨子王と母親は再会に抱き合った。―

安寿と厨子王の山椒大夫伝説を扱ったもので「歴史離れ」の歴史小説である。読み終った後の感動は何とも言えないものがある。

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読書記5 『花神』

2007-11-27 23:36:20 | Weblog
   『花神』(司馬遼太郎 著)
 周防の村医から官軍の総司令官となり、日本の近代兵制、つまり廃刀令や徴兵制を創設し、非業の死を遂げた大村益次郎の生涯を描いた上・中・下の3部作を紹介します。始めに断っておきますが、司馬遼太郎作品は相当数読了しているので、今後も度々取り上げます。つくづく史学を専攻しなかった意味が分からなくなります。
 さて、花神について…
時代の節目には、いわゆる異端児、革命児と呼ばれる人物が出てくる。例えば、源平合戦では義経、南北朝動乱期には楠正成、戦国時代には織田信長、幕末では坂本竜馬はじめ幾人もの偉人が登場した。人間という感情を持った生き物が、冷静な計算と判断でその行動を律すると大村益次郎のような人物となる。個人的には、彼と大久保利通は同類の型ではないか、と思っている。職人が作品を創作するように、ひたすら完成を目指していく姿を思う。時代のギリギリまで、彼は表舞台に登場してこない。緒方洪庵の適塾に学んだ。しかも、そこで塾頭を勤める天才ぶりで、この適塾からは福沢諭吉、橋本左内、長与専斎、大鳥圭介らが巣立っている。
 長州藩では彼を知っているものはほとんどおらず、桂小五郎のみがその天才を認めていた。彼は歴史が求めるまま、最初に宇和島藩伊達宗城に起用され、瞬く間にその実力を認められ、幕府が注目した。長州藩はこの頃最悪の状況で、軍事拡大、近代化急務の時、その人材として、大村益次郎が浮かび上がった。長州へ招聘されるまで紆余曲折はあったが、桂の尽力で藩制改革に乗り出し、長州軍は近代化し、幕府軍を遂に破った。
 長州、薩摩は官軍となり、幕府軍を追い詰めていくが、この間、薩摩藩との蟠りが発生した。西郷隆盛を感情で読み取らない彼にとって、西郷を木偶の坊と感じていたが、しかしこの人物の吸引力に将来の反乱を感じていた。元来無口な大村が西郷と必要以上に話をしない事は、西郷を信奉する薩摩藩士にとっては苦々しく感じでいた。江戸城無血開城の後、彰義隊を一日で、しかも最小の戦力で撃破した大村を賛嘆する西郷を無視するような態度は薩摩藩士を益々激昂させた。
 やがて戊辰戦争が終わり、日本の近代化へ着手した。廃刀令、徴兵制・・・。大村にとっては人間も機能であり、そこの感情の介する事はない。これが不平士族の反感を買った。明治2年9月、刺客に襲われ介抱の甲斐なく亡くなった。黒幕は薩摩藩海江田信義であったというが、新政府の立役者であり、いまだその基盤の脆い時期、薩摩を敵に回す事になるため、長州は手が出せなかった。その臨終の間際、四斤砲を大阪にたくさん作って置くよう遺言した。それは、西郷隆盛の反乱を予言したものであり、生前から「必ず西日本から反乱が起こる」と言っていた。それに備え、大阪の兵器廠は整備されていた。明治2年5月に旧幕府軍が降伏し、遭難する4ヶ月の間に、明治10年の西南戦争に対する準備はほぼ終わっていた。
 作者は、次のように言っている。「大革命というものは、まず、最初に思想家があらわれて非業の死を遂げる。日本では吉田松陰のようなものであろう。ついで、戦略家の時代に入る。日本では高杉晋作、西郷隆盛のような存在でこれもまた天寿を全うしない。三番目に登場するのが、技術者である。この技術というのは科学技術であってもいいし、法制技術、あるいは蔵六が後年担当したような軍事技術であってもいい」と。
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English

2007-11-26 23:50:58 | Weblog
 今年、TOEICを5回受験しました。
しかし、思うように伸びず、情けなく感じています。
良い時と悪い時の差が、100点もあることに驚きます。
原因は、“リスニング”。これをどうにかしないと、得点が安定しない・・・。
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読書記4 『杜子春』

2007-11-25 22:55:45 | Weblog
   「杜子春」(芥川龍之介 著)
―杜子春はもともと金持ちの息子だが、すっかり財産を使い果たし、唐の洛陽の西門の下で死んでしまおうか、と佇んでいると、鉄冠子という老人が現れ、一夜にして大金を渡す。それで杜子春は金持ちとなったが、3年あまりで使い果たし、再び無一文となる。そこでまた、洛陽の西門で佇んでいると、やはり鉄冠子が現れ、また大金を渡す。しかしまた3年で使い果たし、再度鉄冠子が大金の場所を教えようとすると、杜子春は「人間は薄情で、大金持ちの時は世辞も追従もするが、いったん貧乏となると、見向きもしなくなる。もう、これでは何にもならないと思う」と鉄冠子に話し、弟子にして欲しいと頼み込んだ。彼は仙人で、峨眉山に連れて行き、「何があっても決して声を出すな」と言い残して消えてしまった。取り残された杜子春に次々と災難が訪れ、地獄で責められるが、一言も発しなかった。その様子を見ていた閻魔大王は、畜生道に堕ちていた杜子春の父母を、鬼達に鉄鞭で打ち据えさせた。杜子春はそれでも一言も発そうとしなかったが、「心配をおしでない。私達はどうなっても、お前さえ幸せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何とおっしゃっても、言いたくないことは黙っておいで」と母の微かな声を耳にした。その言葉に、杜子春は涙ながらに「お母さん」と叫んだ。
 
 気が付くと、杜子春は洛陽の西門の下にぼんやり佇んでいた。
 
 鉄冠子は、「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。お前はもう仙人になりたいという望みも持っていまい。大金持ちになることは、もとより愛想が尽きたはずだ。ではお前はこれから後、何になったら好いよ思うな」と問いかけると杜子春は「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです」と答えた。―

 本当に大切なものは何か?を考えさせてくれたのと同時に、明日への希望が沸いてくる、読み終えてサッパリした感想です。 
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日本史だけ終了

2007-11-25 21:39:14 | Weblog
日本史の課題は無事終了。レポート提出すると、1月に試験を受けることになる・・・。

スクーリングも考えてるけど、実際、職場を休みづらい。大学総長や文部科学大臣の名前で依頼状が請求できるようだけど、職場にそうゆう休暇制度、無いのが苦しい。
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2007-11-23 10:21:19 | Weblog
今日は、久々に時間がとれそうなので、日本史の課題2題を完成させます。
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読書記3 『セメント樽の中の手紙』

2007-11-22 00:14:16 | Weblog
『セメント樽の中の手紙』 葉山嘉樹 著
とにかく、とても強い衝撃を受けた。 
こんな文章にはそうそう出会えるものではない。とても短いが、それだけに衝撃も強かった。
 
 ―労働運動が盛んになり始めた昭和初期、セメント工場で働く一人の労働者・松戸与三がセメント開けをしながら、コンクリートミキサーにセメントを入れていた。セメントが入った樽から木箱が出てきて・・・。そこにはある女工の書いた手紙が入っていた。その内容は自分の恋人がミキサーに巻き込まれ、セメントの群れになってしまった、という恐ろしく悲しいことが書いてあった。与三は子どもが多く、そしてまた妻が妊娠中で騒がしい自宅の中でそれを読みながら、「へべれけに酔って、何もかもぶち壊してえなあ。」とつぶやく。妻は、壊されたら子ども達はどううするんです?というような内容をつぶやく。与三は妻の大きなお腹を見ていた。―

 いわゆるプロレタリア文学である。束縛された労働者は本当に解放されるのだろうか?現実の生活との矛盾・・・。与三は別に運動家とか思想家ではく、ごく普通の労働者である。
 初めて読んだ時のショックは今でも忘れられない。 
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『人文地理学』講義 ドマンジョン

2007-11-21 00:04:05 | Weblog
 専攻科目は地理学なので、地理学のレポート構想を始めました 
地理学の入口みたいな科目で、概論です。ただ、テキストそのものが1950年頃の著書で、世界人口27億人とか言ってます。
数値は勿論、現在と異なるけど、記述内容は割と普遍的な内容で、理解できます。
今回の課題の一つは「人口凝集地域を4ヶ所挙げ、生じた原因を述べよ。」という事です。
インド・バングラデシュ地方のインド東部、中国・日本・インドネシアを含む東アジア、西ヨーロッパ諸国、この3つはテキストにある通りですが、残り1つがアメリカ東部かアフリカか、で迷ってます。テキストではアメリカですが、現在のアフリカの人口増加率が30%を超えていて、判断に苦しみます。大陸で比較すると、北米の人口密度21人/k㎡、アフリカのそれは、29人/k㎡なので、後者か?と思うのですが、合衆国1国で約3億人の人口を抱えていて確かにNY周辺の東部は人口凝集地域です。ゆえにこの選択も有りだな、と思うわけです。しかし、正確に比較できる内容ではなさそうです。アメリカとした場合、人口増加の原因が、他の地域と併せて1つの見解で統一できるので、矛盾が少なく無難にまとまりそうです。国や州での比較ではなく、「地域」を挙げるのだから、アメリカ東部で良いだろう・・・と傾いてます 
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読書記2 『車輪の下』

2007-11-19 23:56:54 | Weblog
『車輪の下』 ヘルマン・ヘッセ著
 『車輪の下』は、車輪という社会の下敷きに喘ぎ苦しむ少年ハンスの姿=ヘッセの少年時代を投影し、大人へと移る少年期の自我を描いた作品である、と感じた。
 この作品が発表された1905年は母国ドイツが新興帝国主義として台頭し出す頃で、周辺諸国に追いつけ追い越せと、飛躍していく時期であった。
―主人公ハンスは父や校長、地元の期待を大いに背負い神学校へと進学する。しかし、学校は統一化した、没個性の人間を作っていった。その学校で異端視された人間は、やがて追放されていく。ハンスの友人も追放され、学校内で唯一の親友を失う。傷付き易い少年が負った心の傷は癒やしようもなかった。物語の冒頭部分から内部の分裂を感じていたハンスは、友人が追放された後、心の傷が癒えぬまま、医者の勧めによって地元へ去っていく。「適応できぬ人間は去れ」という神学校の方針にハンスも当てはまってしまったのだ。
 地元に戻ったハンスは思春期に体験する淡い恋を経験する。彼は機械工として、精神的にも大人になれないまま再出発する。最後は結局、泥酔し川に転落して落命する・・・―

 少年から大人に変わる微妙な時期をヘッセは描いている。つまり「自我」を自覚するような時期を。車輪の下には押し潰された大人たちが、画一的な生活を強いられているのが現実だが、少年時代の心を忘れないで欲しい、そんなメッセージがあるような作品だった。 
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読書記1 『山月記』

2007-11-19 00:07:10 | Weblog
 『山月記』 中島 敦 著
 『山月記』は高校の国語の教科書に収録されていて、授業を聞かずにこっそり読んだ記憶がある。
 作品の格調の高さ、というか、作者・中島敦の漢学に対する深い造詣からか、社会人になってから「もう一度読みたい」と年々強く思っていた。
 唐代の伝奇小説「人虎伝」を題材に、身を滅ぼし心を狂わせてまで詩作に没頭した詩人の内面を描いたもの。
―主人公は隴西の李徴。秀才で官吏登用試験に合格したが、自分の才能に恃むところがあって協調性が無く、間もなく官吏を辞め、詩作の道に入るが、なかなか評価されず、生活に追われ、止む無く再就職したが、自分と同期、後輩は高官となっていた。馬鹿馬鹿しく思い、鬱屈していたがやがて発狂して虎になって森の中に消えていった。以後、人食い虎と呼ばれ恐れられる。ある日、監察御史・袁サン(人偏に参)が人食い虎の棲む森を通る。彼は、李徴が初めて就職した頃同期で、李徴とは数少ない友人だった。案の定、虎となった李徴が襲い掛かったが、袁サンと認めて森へ逃げ帰り、シクシク泣いた。袁サンはそれが李徴だ、と思い出し、お互い姿を現さずに語り合う。心まで獣になりかけている自分の境遇に泣き、友も泣いた。もう人間の姿も心も無くなり、友に襲い掛かるかもしれないからこの辺りを通らないで欲しい、と語る。最後に今の姿を友に見せたいから、暫く離れたら振り返って欲しいと頼む。袁サンはその言葉通りにすると、大きな虎が現れ咆哮し、草むらに踊り入って二度とその姿を見せなった。―
 ・・・やり切れない、切ない気持ちになる。
 詩を感じるような内容と完成度の高さに大人になって読んで良かった、そんな作品である。
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とりあえず

2007-11-18 15:35:11 | Weblog
下書き終了
ひとまず、課題の下書きは終了です。これから推敲に入るわけですが、冷静に読み返すと自信がなくなると思います。
今回、「荘園の構造」「近代幕藩体制の構造」についての2題で、「荘園」で感じたのですが、王朝貴族体制から武家政権に移して幕府を開いたのは 頼朝 ですが、武家として政権樹立した最初は 清盛 である、評価しても良いんじゃないでしょうか?支配基盤が弱かった事、貴族化していった事など敗因はありますが。
肉親への情が薄く、どうも頼朝には陰湿なイメージを感じて、家康に通ずる雰囲気を持ってるような感想です。判官贔屓との言葉がありますが、 義経 が征夷大将軍になっていたらどうでしょうか?残念ながらその分野の才能なさそうです。”方面司令官”といったところでしょうか。たまたま頼朝の弟だった、だから不幸を背負った。・・・荘園の構造とは関係ないですね 
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お家断絶!!

2007-11-18 02:39:56 | Weblog
 「幕藩体制の構造」について述べよ。
この設題、大名統制だけでなく全部述べろ、という事になるな、と思い、思いつくまま下書きを作成。
 そうしたら、やっぱり脱線
改易、減封の対象ってどのくらいの数だったんだろうか…と。『大名廃絶禄』(南條範夫 著)によると、
    約240だそうです。
改易決定後、城を枕に…何てことも無く、無血開城してますね。徳川幕府は狙った大名には色んな理由付けて改易、減封するんだから、当時の殿様達は現在よりも心休まる事がなさそう。
福島正則は、居城の広島城を修復しただけで、しかも、本多正信(正純だったか?)に報告済みだったのに因縁付けられて川中島へ流されてしまった。文書で提出してないから幕府は
「聞いてませんよ。勝手に城修理したから武家諸法度違反!」
お上には逆らえません…。『大名廃絶禄』には幾つかエピソードが載っているのでお家騒動の事も分かるのでオススメしたいですね。
あ~、下書きすら終わらなかった 
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