行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

昭和の日

2008-04-29 22:30:01 | Weblog
 名称は何にせよ、祝日で休めるのは有難い。今年のGWは、土日に祝日が当たっているため、全く有難さを感じない。休み過ぎも良くないが、休まないのも良い仕事ができない。「気が向いたら働こう」というフレーズをネットかどこかで見た。無責任な言い方だが、憧れる世界ではある。
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ウルトラ検定

2008-04-28 22:07:00 | Weblog
 今日、偶然にもサイトを発見した。
 子供の頃より親しみ続けたシリーズの検定という事で、興味が沸いたが、残念ながら全シリーズを見た訳ではないし、今更見る気も起きない。と言っても、断固見ないと決めていたのは1シリーズだけだが(←殆ど見てるじゃないか!)。
 実際、受けるかどうかはまだ決めていないが、少し様子を見てみたいと思っている。
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ガソリン税

2008-04-27 10:13:03 | Weblog
 また値上がりするのだろう。スタンドが混んでいるのを頻繁に目にする。ガソリン自体は何年先まで持つのだろうか?道路の財源なんてホントに必要なのだろうか?
 工事が必要と思えない道路を相も変わらず掘り返している・・・。
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松永弾正(悪人列伝より)

2008-04-26 23:47:00 | Weblog
 読書記としてまとめるには登場人物が多過ぎるため、個人名でまとまてみた。
 古代、中世、近世と続く日本史上「悪人」と称された人物を、作家・海音寺潮五郎が再検討し、最終的な判断を読者に投げかける作品である。蘇我入鹿、平将門、梶原景時、北条政子、北条高時、高師直、宇喜田直家、井上馨・・・総勢24人を取り扱っている。悪人として日本史に名を残しているが、彼らは本当に悪人だったのだろうか、という疑問を呈している。残された資料に検討を加え、できる限り客観的に紹介している。
 紹介されている人物の中には、北条高時のように鎌倉幕府最後の執権であったために、悪人とされてしまった人物もいる。彼でなくとも鎌倉幕府は滅亡していただろうし、闘犬に熱中して執政をしていなかったわけでもない。もうどうしようもなく、幕府の土台が腐っていたのだ。鎌倉幕府が滅亡した時、彼に殉じて800余人の人々がいた。高時が救いようの無い人物なら、これほど殉死者もでなかったろう。
 それから、陶晴賢。彼は大内氏の支族で、主家を支えていた智勇兼備の武将であったが、主君大内義隆が暗愚な上、政治を行わず遊興に耽っていた。しかも側近政治を行い始め、西の京都と呼ばれた山口の斜陽を招いていた。重臣同士の争いが昂じて陶派と相良派となってしまったが、彼が元々大内当主であったなら、大内氏の名はもう少し保てたかもしれない。しかし、彼は最終的に主を自殺へ追い込んだ。その後、彼自身が当主となる事はなったが、主殺しの負い目は消える事は無かった。その内、厳島の戦で、毛利元就に敗れ自刃。元就の方が1枚も2枚も上手、と言ってしまえばそれまでだが、敗れた者に対する評価は著しく悪い。彼は傾きかけた大内家を守り抜こうとして敗れた武将であって、悪人ではないような印象が残った。

 しかし、同じ戦国武将でも、松永久秀は群を抜いた悪人である。将軍殺し、主殺し、大仏焼払いをやり抜いた。大仏焼払いについては、敵が寺に陣取り、敗走の間際に火を掛けたわけで、戦陣を寺に敷く方が悪いのだが、彼の攻撃が無ければ大仏は焼失しなかった、と言われたために彼の責とされた。毒殺、暗殺、謀反、まさに極悪非道の限りを尽くした。
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日本の最高刑

2008-04-25 23:58:20 | Weblog
 光市の母子殺害事件の広島高裁の判決は、死刑判決であった。死刑制度の存否云々ではなく、この国の法制下の最高刑をもって償うのが妥当との判断だと思う。これまでのマスコミの報道のあり方に、またもや課題が残ったが、国民が裁判員として判決を下す場合、法律の妥当性は確保できるのだろうか。客観的な報道に終始して欲しい。
 それから、「少年法」の存在。これはそもそも、終戦直後の浮浪児を出さない為に制定された法律で、今日の社会状況にそぐわない、時代錯誤の代物だと思う。少年法の役割はすでに終わっている。18歳未満は、将来を見据え矯正を期待しているようだが、殺人を犯して良いか悪いか、の判断は幼稚園児にだって分かる事だ。再犯率は4割を超えているという。
 結局、量刑の重さが犯罪抑制のバランスを保つのなら、死刑の存在は止むを得ないのかもしれない。今回の判決は当然といえば当然だが。
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読書記34『堕落論』

2008-04-24 10:59:25 | Weblog
   『堕落論』(坂口安吾 著)

 戦争が終わって半年のうちに世相は変わった。人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり、変わったのは世相の上皮だけのことだ。
 昔、赤穂浪士四十七士の助命を排して処刑を断行した理由の一つは、彼らが生きながらえて生き恥をさらし、せっかくの名を汚す者が現れてはいけないという老婆心であったそうな。美しいものを美しいままで終わらせたいというのが一般的な心情のようだ。武士は仇討のために草の根分けても足跡を追いまくらねばならないというが、真に復讐の情熱をもって仇敵の足跡を追った忠臣孝子があったであろうか。彼らの知っていたのは仇討の法則と法則に規定された名誉だけで、元来日本人は最も憎悪心の少ない、また永続しない国民である。昨日の敵と肝胆相照らすのは日常茶飯事であり、たちまち二君に仕えたがるし、昨日の敵にも仕えたがる。生きて捕虜の恥を受けるべからず、というが、こういう規定がないと日本人を戦闘に駆り立てるのは不可能なのである。我々は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約と逆なものである。
 この戦争をやった者は誰であるか、東条であり、軍部であるか。そうでもあるが、しかしまた、日本を貫く巨大な生物、歴史の抜差しならぬ意志であったに相違ない。日本人は歴史の前ではただ運命に従順な子供であったに過ぎない。政治家に独創はなくとも、政治は歴史の姿において独創をもち、意欲をもち、やむべからざる歩調をもって大海のごとくに歩いていく。
 私は天皇制についても、極めて日本的な(したがって独創的な)政治的作品を見る。天皇制は天皇によって生み出されたものではない。天皇は概して自ら何もせず、常に政治的理由によってその存立を認められてきた。その存立の政治的理由はいわば政治家たちの嗅覚によるもので、彼らは日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた。
 歴史は常に人間を嗅ぎだしている。少なくとも日本の政治家たち(貴族や武士)は自己の永遠の隆盛を約束する手段として、絶対君主の必要を嗅ぎだしていた。平安時代の藤原氏は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、自分が天皇の下位であるのを疑りもしなかったし、迷惑にも思っていなかった。天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、また自ら威厳を感じる手段でもあったのである。要するに、天皇制というものも武士道と同種のものである。天皇制自体は心理ではなく、自然でもないが、そこに至る歴史的な発見や洞察において軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、ただ表面的な真理や自然法則だけでは割り切れない。

 私は疎開の勧めを断って東京に留まった。死ぬかもしれないと思ったが、より多く生きていこうという確信があったに違いない。米国人たちは終戦直後の日本人は虚脱して放心していると言ったが、爆撃直後の罹災者たちの行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直な運命の子供であった。
 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心ではあったが、充満していた。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
 だが、堕落ということの驚くべき平凡さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間たちの美しさも、泡沫のような虚しい幻影に過ぎないという気持ちがする。
 歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ。生きるということは実に唯一の不思議である。六十、七十の将軍たちが切腹もせず轡を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道がありうるだろうか。
 政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうはいかない。遠くギリシャに発見された人性が、今日、どれほどの変化を示しているだろうか。
 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向かうにしても、人間自体どうなしうるものでもない。戦争は終わった。しかし、人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。それを防ぐことはできないし防ぐことによって人を救うことはできない。戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。
 だが、人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間は可憐であり、脆弱であり、それゆえ愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎ出さずにはいられなくなるであろう。
 だが、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人のごとくに日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかないものである。


 終戦直後の作者の随筆に、多くの人々が反響した。戦後半世紀以上経ても尚、我々に反響するものであり、その都度、我々の心に衝撃を与える。「生きよ堕ちよ」、この言葉に強烈な印象を受けた。
 織田作之助、太宰治とともに「無頼派」と呼ばれた作者の作品は、読み続けられるであろう。
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坂田師匠

2008-04-22 20:47:58 | Weblog
 坂田(地神)利夫師匠は、「アホの坂田」と呼ばれているが、経歴は以下のようである。↓

1941(昭16)年 大阪生れ。
1960(昭35)年 私立灘高卒。折しも60年安保の嵐が吹き荒れ、この闘争に高校時代から関わる。安保闘争に専念するため浪人。このときの挫折感が、後の地神の、「暴力では何も解決しない」という思想につながる。
1961(昭36)年 京大理学部数学科入学。活動的だった高校・浪人時代とは変わり、大学時代は勉学一筋に過ごす。
1965(昭40)年 京大理学部数学科卒(首席)、阪大大学院経済学研究科経済政策専攻博士前期入学。数学→経済学という転向は、地神が高校時代から考えていた道筋であった。院進学後は、マルクス主義的経済政策に没入。
1967(昭42)年 前期修了、後期進学。この年、大阪市大大学院の前田邦弘(前田五郎)と漫才コンビ、コメディNo.1を結成。
1970(昭45)年 第5回上方漫才大賞(ラジオ大阪)新人賞受賞
1971(昭46)年 昭和45年度第1回NHK上方漫才コンテスト最優秀話術賞受賞
この2度の栄冠が、地神にお笑いの道への専心を決意させる事になる。
1972(昭47)年 阪大大学院後期退学。第1回上方お笑い大賞(読売テレビ)金賞受賞
1979(昭54)年 第14回 上方漫才大賞(ラジオ大阪)大賞受賞
秀才であるが故、その芸風を悩んだが、人を笑わせることこそ真の革命であると決意し、あくまでも「アホ」であり続ける姿勢を貫く。

・・・一時期、まことしやかにネット上を駆け抜けたが、所詮ネタで、此花商業出身だったと、記憶がある。
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剛田武

2008-04-21 23:49:58 | Weblog
 剛田武(ごうだ たけし)(1964年6月15日~)
 哲学者。撤退した自己主義を追求し、自らが常に正しいとの認識に基づき、周囲の存在を認識するという理論を主張。この主張に対立する立場の者に対しては、鉄拳制裁としての武力行使を辞さず、その結果、支配と被支配の階級を造り出した。しかし、血縁関係にある者に対しては、畏敬と尊敬の念を忘れてはならない、と主張。こうした彼の主張は「ジャイアニズム」と呼ばれる。
 彼の主張した「お前のものはオレのもの、オレのものはオレのもの」は、彼を最も的確に表現した格言であり、支配者が常に正しく、力ある者がそれに相応しい事を示している。また、「~のくせに生意気だぞ」は、被支配階級を抑圧する常套表現である。

 高校生の頃、倫理の授業中、倫理用語集にこんな追加をしていた。
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読書記33『兜率天の巡礼』

2008-04-20 12:19:20 | Weblog
 『兜率天の巡礼』(司馬遼太郎 著「ペルシャの幻術師」収録)
 昭和24年の夏、産経新聞京都支局の宗教担当記者であった司馬遼太郎は、銭湯で一人の紳士に出会い、その紳士は司馬の事を知らずに「キリスト教を初めて日本にもたらしたのは、フランシスコ・ザビエルではない。彼より更に千年前、既に古代キリスト教が日本に入ってきた。仏教の伝来よりも古かった。第二番目に渡来したザビエルが、何を以って、これほどの祝福を受けなければならないのか。その遺跡は京都の太秦にある。」と、話しかけてきた。
 当時、ザビエルの日本上陸400周年を記念して、各地で様々な催しが行われていた。司馬も関連の取材をしていた。その紳士はかつて、有名な国立大学教授であったと語り、日本古代キリスト教の遺跡について指示してくれたので、兵庫の比奈ノ浦や太秦を調査し、「すでに13世紀において世界的に絶滅したはずのネストリウスのキリスト教が、日本に遺跡を残していること自体が奇跡だ」と記事にして締めくくった。その記事は多くの反響を呼び、海外にも転載された。
 ネストリウス派と呼ばれたキリスト教は、西暦431年エフェソス公会議において“異端”とされ、ヨーロッパを追われた。その後ネストリウス派はササン朝ペルシャに渡り、シルクロードを経て中国に伝わった。7世紀前半、中国は唐の時代であり、2代目の太宗の頃に伝わった。則天武后が活躍する約50年前の事である。寺は波斯(ペルシャ)寺(後に大秦寺となる)と呼ばれ、中国では景教として流行した。その頃の日本は聖徳太子や推古天皇の治世を経て、中大兄皇子や中臣鎌足が大化の改新に取り組んでいる時代であった。

 作品のあらすじを紹介する。

 太平洋戦争中、南朝の北畠顕家について新説を立てたという理由で京都の大学を追われた閼(門構えに於)伽道竜(あかどうりゅう)は、終戦の日に妻の波那(はな)を失う。彼女は死の直前、にわかに発狂し、道竜に向けた眼差しが異邦人への恐怖と嫌悪のものであった。その意外な様子が、道竜の妻の血統とルーツを探る異常なまでの執念へ駆り立てた。
 その過程で、兵庫県赤穂郡比奈の大避神社の禰宜をしている波那の実家の本家の当主から、彼女の遠い祖先がペルシャ系ユダヤ人の移民団の子孫である事を知らされて衝撃を受ける。彼らは古代キリスト教のネストリウス派の信徒で、日本へ渡来した際に、秦氏の一族と称してダビデ(漢字で大闢(門構え辟)(だいびゃく))の礼拝堂(後の大避神社)を建てたが、それは仏教渡来以前の事だという。
 これを知った道竜は、文献を読みあさって想念を凝らすうち、幻想の空高く飛び立ち、5世紀の東ローマ帝国の都コンスタンチノープルに到り、ネストリウスとなって群集に自説を主張したり、7世紀の唐の都長安に到り、流亡の景教徒の長老となった。
 その後、道竜の幻想は、古代日本に到り、津、河内から、たけのうち峠を越えて大和に到着する。政権を支えていた聖徳太子と秦河勝とのやり取りの幻想を見ていた。聖徳太子の支援をする代わり、自分と一族の安全を図った。
 幻想から現実に戻った道竜は、洛西の廃寺(奈良時代に秦氏が建立した)の上品蓮台院の弥勒堂の壁に描かれている兜率天曼荼羅図を見つける。蝋燭の灯りでそれを眺めていた彼はそこがコンスタンチノープルにも、長安にも見えた。そして、そこに亡くなった波那を見出す。意識は既に現実を抜け、壁の中に入っていた。持っていた蝋燭は落ち、弥勒堂は炎上、焼け跡から一人の焼死体が見つかる。性別さえも分別できない焼死体は1週間を経て道竜と判明した。

 この説によれば、聖徳太子の時代にすでにキリスト教が日本に伝来していた事になる。秦氏がネストリウス派であったかは断言できないが、彼らが日本に渡来する頃、中国ではネストリウスが伝わっていた。西方の地であったり、情報網が整備されていれば早い段階で知っている。或いは、秦氏の保護下で日本に渡来した事も考えられる。いずれにせよ、聖徳太子はキリスト教の存在を知っていた事になる。
 事実かどうか、誰にも分からないからこそ、魅力を感じるものである。それを作品に読者を惹き付けるのが作者の技量の高さである。

 画像は太秦へ行った時のもの。時代劇の撮影現場見学が目的だったのだが・・・。
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司馬短編集

2008-04-20 02:05:38 | Weblog
 昨日、本棚を整理しつつ目に留まったのが「ペルシャの幻術師」と「侍はこわい」。いずれも短編集が収録され、1作が短い分、気付くと読み続けてしまう。過去に2回以上は読んでいる作品なのだが、飽きずに読んでしまう。中でも「兜率天の巡礼」は傑作である。海音寺潮五郎は「ペルシャの幻術師」を読んで司馬遼太郎を評価していたが、この作品で更にその思いを強めた。
 内容を紹介し始めると、朝になりそうなので今回はここまで。
 真実か、そうでないかは重要ではなく、事実かも知れない曖昧さが読者を惹きつける。作品のテーマが悠久な世界史であり、広い視野から書かれた作品である。日本人とは何者なのか。我々はどこへ行くのか、読み終えて、こんな事まで考えてしまう作品である。
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2008-04-20 00:30:34 | Weblog
 池波正太郎や司馬遼太郎の作品で、忍者を題材にしたものが幾つもある。
 
 服部半蔵、百地丹波、風魔小太郎らは名前が残っている。忍者、というのは果たして本物なのだろうか。現代の我々からは想像の付かない人々であったろう。忍者と言っても、それぞれに役割があり、情報収集を専門にする者、戦場での攪乱を専門にする者・・・。いずれも日の目が当たらない闇の存在である。
 
 服部半蔵、風魔小太郎は首領の名前で、代が変わってもこの名前は引継がれる。

 風魔小太郎は小田原北条家に仕え、箱根を本拠としていた。主家滅亡後江戸に散り、やがて吉原を開設し、その運営に当たったと言う。首領の小太郎は口が耳元まで裂け、犬歯が飛び出し、身長が2メートル以上の異様な容貌をしていたと言うが、誰も小太郎を見た者は居なかった。恐らくこうした噂を流布し、実態が分からないようにしていたのだろう。
 服部半蔵は徳川家に仕え、信長に切腹を強要された家康の長男・信康の介錯を行ったという。泰平の世となると、忍者はもはや不要のものとなった。給金に納得しない半蔵の部下達が反乱を起こし、鎮圧され忍者は消滅する。

 忍術は人間の心理に影響して初めて役に立つ技で、幻術もその類ではなかろうか。戦国期、個人名が残っているのは2人いる。飛び加藤と果心居士。「飛び加藤」は漫画「花の慶次」に登場するが、上杉家や武田家の記録にもある。「果心居士」は主家乗っ取り、将軍殺害、東大寺大仏を焼き払った、極悪の限りを尽くした松永久秀の居城に住んでいた。主家である三好義興の毒殺、また、三好一族の一人が厠で変死した事があった。暗殺も果心居士が行っていたのではないだろうか。果心居士は僧籍に居た事があるため、寺の記録にも残っている。

 確かなのか不確かなのか分からない存在だからこそ、惹かれるものがある。
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Love Fool

2008-04-19 20:39:43 | Weblog
 何年か前に、映画のテーマ曲等で使用された作品を集め、久々に聴き直した。鑑賞した映画なら尚更思い出やその当時の自分を思う事がある。
 「ロミオとジュリエット」で使用された「Love Fool」。スウェーデン出身のCardigansのヒット曲の一つで、テンポもリズム感も心地良く、改めて名曲であると感じた。60年代を思わせる数々の曲、アコースティックな雰囲気は王道だと思う。しかし、この「Love Fool」以降、歌詞に暗いイメージが付き、母国スウェーデンはヒットを続けるが、海外では今ひとつであった
 
 シネマミュージックと言えば、「愛と青春の旅立ち」の「Up Where We Belong」は言うまでも無い曲である。これを聴くと、青臭い中高生の頃を思い出し、何となく恥ずかしい気もする

 色々聴いていたが、「GODZILLA」(残念ながら観ていない)は、ジャミロクワイの曲だったのか、と新たな発見をした
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読書記32『権平五千石』

2008-04-18 23:50:41 | Weblog
 『権平五千石』(司馬遼太郎 著「侍はこわい」収録)
 作者が雑誌で発表した作品を収録した短編集である。
 賤ヶ岳の戦いには、七本槍の一人に平野長泰がいた。通称を権平という。加藤清正、福島正則、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元、糟屋武則で七本槍と呼ばれた。織田信長亡き後、明智光秀を討伐し、信長の嫡孫・三法師を擁する羽柴秀吉と信長の三男信孝を擁する柴田勝家の雌雄を決する戦であった。
 結果は、秀吉が勝ち、敗れた勝家はやがて北乃庄城でお市の方とともに自刃する。

 さて、この戦で活躍した七本槍は秀吉の天下の下、平野長泰を除き、みな1万石以上の大名となった。しかし、権平は五千石のままだった。その代わり、朝廷から官位をもらい、従五位下豊臣朝臣遠江守長泰となったが、権平は権平のままだった。戦場で目立たない地味な出で立ちの権平を秀吉もついつい忘れ、結局五千石のまま秀吉が死んだ。

 秀吉死後、関ヶ原の戦いとなるが、家康の上杉討伐隊として関東へ出陣しており、成行き上東軍となった。関ヶ原では特に活躍は無く、戦後やはり五千石のままだった。福島や加藤清正、嘉明ら大大名と成っていったことにも厭世的な気分となり、鬱屈した日々を江戸で旗本として送っていた。大坂の役の際、権平は駿府の家康に突然暇乞いを申し出、大坂に入城すると言い、家康を唖然とさせた。彼なりの鬱屈した気分の捌け口を求めていたのだと理解した家康は、権平をなだめすかし、江戸へ帰させた。大坂の役後も動きは無く、やはり五千石であった。

 同僚の福島、両加藤は相次いで改易された。権平はそれらを見ながら三代家光の寛永まで生き、70歳で亡くなった。その後も五千石で続くが、幕末の時に1万石を拝し、ついに大名となった。そして明治を迎えた。

 地味で目立たなかった平野長泰だったが、家名存続を永らえ、秀吉子飼いでありながら徳川の世を生き抜いた。
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尼子氏

2008-04-17 00:08:22 | Weblog
 戦国時代、山陰地方の雄であった尼子氏。毛利元就に滅ぼされたが、元就が若年の頃、尼子当主は尼子経久であった。経久は、武将としても文人としても申し分の無い人物で、尼子中興の祖と言われている。
 しかし、子の晴久、孫の義久と出来が悪く、安芸から興隆した毛利に滅ぼされてしまった。経久と元就が同時代に直接対決したならば、異なる歴史となったかもしれない。
 天下統一などで、経久の頃のシナリオを選択し、尼子氏を選択してプレイすると、経久と能力的に張り合えるのは、斉藤道三や北条早雲くらいで、抜きん出ている。
 
 山中鹿之助始め、尼子十勇士の話題もあるが、晴久、義久、勝久では戦国時代を乗り越える事はできなかったのが確実に分かる。
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久々の稽古

2008-04-16 00:14:13 | Weblog
 稽古当日、全身筋肉痛となった。特に背筋がマズイ・・・。
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