つい、2週間ほど前に、京都の〇〇さんから電話をいただきました。
確か、昭和60年の5月に加賀屋に入社して、その翌年の春に、〇〇会〇事務所の方々を担当させていただきました。夫妻と事務所の方々のお世話をしました。
和倉温泉駅へ見送りに・・・その時、夏に家族で来るから・・・手をギュッと握り締め、ホームに立ち尽くすわたしと線路の向こうの電車が見えなくなるエピソードがありました。
「待つ」という力をいただいた大切なお客様でした。
13年という歳月・・・春には事務所の方々で、夏の花火には家族で・・・
数え切れない沢山の思い出があります。
平成9年夏・・・哀しい知らせが、わたしの次女宛に手紙に綴られていました。
「おばあちゃんが、死んでしまって・・・」
娘の手紙を盗み見した時に・・わたしは、その手紙を抱きしめて、
いてもたってもおられずに・・
支配人・女将に・上司に言いました。
3日間どうしても休みたい。京都へ行きたい。
わたしの支えであった人が亡くなられたことを必死になって伝えました。
その声は、社長・会長へ届きました。
私の家族3人分の切符と加賀屋京都店の食事券と宿泊代を封筒の中に入っているのを
受け取りました。
私は、自分が決めて仕事を休んで行くつもりで休暇をもらおうとしたはずだったのに、
・・・あの時のことは決して・・ずっと・・忘れない。
消印を見て、当時を振り返ります。
昔の思い出のものは、衣装ケース3個あります。手紙を探していたら、
大切なものをいっぱい見つけました
「えがお」は当時の社内誌です。涙が頬を伝っています。
あの時の言葉「でっかい木でおらな」先代の女将様の面影が・・・
葬儀の日、わたしは、当時、サンかがや(今の「あえの風」)の婚礼があり花嫁様の介添をしていました。あの時は忙しくて社内誌をじっくり読む時間がなかったのが・・いま見開きにして読み上げて、涙がこみ上げて来ました。
たくさん勉強したノートや和倉温泉の歴史が書いた冊子も出てきました。
あの時は、小さな赤ちゃんだった・・ずっと中学生まで、加賀屋・あえの風に毎年きていただいていたお孫さんが、いまは、お子様をお連れになり・・・わたしの元へきてくださる。このご縁は、
わたしの宝です。
わたしは、坂下さとみという名前ですが、加賀屋に勤務していたときの源氏名が「春菜」でした。
いまでも、春菜ちゃんっていってくれて・・
京都のお土産いただきました。
「鯉いるかなぁ~」・・・そういえば・・・当時は、浮き舞台の前がラウンジで、錦鯉がいた。
鯉の餌をあげたことを、いつの時代も思い出していたんだ・・
ふと、あの頃にタイムスリップする。
幸せになってね。いついつまでも、ここからつながってるよ。
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