海とオルゴールBLOG

イルカにあえる海辺のカフェ『 海とオルゴール』さとみママからのお便りです

感謝の手紙

2024-06-16 14:30:58 | 海とオルゴールさとみママのつぶやき

この度の、能登半島地震でご支援いただきました善意ある皆様のおかげ様で、
今日まで、少しづつ、ゆっくり、慌てずに、出来ることから歩きだしています。
あらためて、感謝の手紙をお届けします。
能登半島がすっぽりと見渡せる海とオルゴールから・・・
海音とカモミールの花が咲きほこる季節となりました。能登半島地震から、
もうすぐ半年が経つ頃を迎えています。
この度は、クラウドファンディング・義援金のお振込み・来店され手から手へと、たくさんの方々からのご支援をいただきましたこと、心から感謝の思いで言葉では言い尽くせない感謝を伝えたいです。
思い起こせば・・・半年前
令和5年12月の年の瀬に、元旦は、どうする?
コロナもそろそろ落ち着いた頃だし、天気もいい日が続くから、
店を開けよう。スタッフの娘、由香と話していました。
令和6年1月1日、今年こそ、良き一年を迎えられますようにと
海の神、山の神に祈りを捧げ、絶え間なくお客様が来店し、午後4時10分、店内に一名の男性客、偶然にも以前、当社で勤務していた男性スタッフの弟さんと、向かい合い。「あの時は、小学生だったね。
もう車の運転できるようになって、よう来てくれたね。お兄ちゃんどうしてる」って・・・その時です。
ドン!と大きな揺れが来た瞬間、カウンターの中にいる娘の由香が、「おかん!!!外に出て、早く!」玄関アプローチに三人が立ち、揺れが収まるまで、ただただ手を握りしめ、安全を確保していました。
とっさの判断で、来店者には「逃げて!この坂の上から急いで!能登島大橋まで、逃げて!」と見送り、たちまち、左右の道路から、車で高台へ避難する車の列に、

行政無線では「大地震、大地震、大津波警報」スマホのアラームが鳴り続けました。私と由香と、向かいのコテージにいた谷口船長と三人は、それぞれの車で、坂の上へ、のとじま道の駅、駐車場へ避難しました。
のとじま道の駅、駐車場へ避難をしましたが、どうしても店が心配になり、
歩いて、坂を下り、フェンスの向こうから見る海を一人見つめました。一直線上に横に線を引き真っすぐ、向かってくる津波を見ました。
しばらくして、谷口船長と二人で、コテージへ向かい、猫3匹の安否が心配になり見に行くと、ベッドの下に身を潜めていました。三匹の猫たちは、みんなが寄り添い合っていました。避難所へ行くと、満員で入れないと断られ、猫バックを3つ用意して車へ運ぼうと考えましたが、コテージは、地震の被害がないことを確認し、避難所へ行くことをやめました。真っ先に考えたことは、長期になるだろう、水と食料と命のことでした。そして、生業のこと、家族や社員のこと。
コテージの小屋へ行くと、大量にある薪、新聞にくるんだ、かぼちゃ・土の中に入れて置いた大根・人参、木くずの中にある長芋、冷凍室には肉や魚など、米も精米したものがたくさんあり、水は雪が降ると凍結し水が出なくこともあるため、ポリタンク10ばかりの水も確保してあり、なにより水に関しては、自家の井戸水で、自家発電を使い、ポンプで水をくみ上げ、停電が5日間続く中、自分たちの備蓄していた食料と水でしのぐことが出来ました。入浴も、露天風呂に水を入れて薪風呂で風呂に入ることが出来ました。
この能登半島地震の破壊力で
まず、最初に頭をよぎったことは、自分の年齢です。
今まで経験したことのない規模の大地震であることを、どの程度の破壊力か、何が壊れているのか、想像をしました。
自分の作ったお店は自分でたたもうと、すぐに顧問税理士さんに相談をしました。「もうダメです」と告げました。
地震発生直後から、届く、メッセンジャー・Gメール・ショートメール・LINE・インスタ、Facebookのコメント・・・・
「海を見たら、いつも坂下さんのこと、イルカのことを思い出しています」
「ママ、逃げて!心配です」「海とオルゴールは私たち家族の心のふるさとです。どうか、続けてください。」・・・・「大好きなイルカとおかあさん、あの日のことを忘れたことがありません。「能登」すぐにイルカとおかあさんのことを心配しました。負けないで!わたしは海とオルゴールが大好きです。」
こんなにも全国、世界の方々に支えられ、この場所とイルカたちのことを・・・
店をたたむことを考え直し、心を動かされました。

今年8月10日が来たら、海とオルゴール20年の歴史です。
なんもない、水もない、水は井戸を掘ろう。軟水で清らかな水が湧き出ました。電気もない場所からはじめたこと
それは、この場所を私が好きになったことがきっかけでした。
エメラルドグリーンの海・・いい凪
遮るもの何一つない広い海、ここに立てば、心が晴れ晴れしました。
この感動を届けよう。独り占めは出来ない大切な場所だと強く思いました。
空気、食べ物、全て、ここに来て食することは、心も身体も元気になる場所であることに気づきました。
幼いころ、私を育ててくれた祖母と見た、大自然が再現される世界に店を立てよう、不運にも、私と祖母は同じ、孫を育てる立場に。
大自然の美しい能登、この能登島で、出会った小鳥のさえずり・・波音・・イルカたち・・満天星、お月さま、ハーブとローズを育て、ここで癒しの空間を来るお客様に提供したい。自分が感じた美しい世界を届けたいと思いました。
「海とオルゴール」

・・・変わったネーミングでしょ。
海は「母」オルゴールは「大切な宝物」
心の中で愛情いっぱい、大自然の能登と共に生きた祖母をイメージし、オルゴールは、温かい家で育つ自分を重ねて店の名前を決めました。
大切にしてきたお店は、大きな母に守られたかのように、一部損壊で被害は免れました。しかし、駐車場・店の什器・家具などの被害は大きかったです。
和倉店の中に入った瞬間、ミシッミシ、キシキシと音を立て、建物がVの字に曲がって、外壁と内壁に隙間が5センチくらいあるのを見た時に、「もうダメ」と思いました。二日後、まだ使えそうな機材などを友人に助けてもらい運び出しました。
引っ越し先は二階が社宅、一階が事務所、事務所の一角へまとめました。
その一か月後・・・引っ越し先は半壊の判定が。
ここがダメ・・・引っ越し、また引っ越しを繰り返し、
毎日が、地震の被害の災害ゴミの後片付けに追われました。

地震発生直後、からの活動として、
私の実家、輪島市へ、物資・水を車に乗せ、寝る間もなく、おにぎりや料理を作り、ポリタンクに水を入れ、輪島市へ通い続けていました。
能登島から一時間で行ける距離ですが、片道6時間40分を要しました。
行き交う車両は、全国の自衛隊車両、救急車、消防車、パトカー・物資を運ぶ車両、上空からは自衛隊のヘリコプターが・・・まるで戦争の最中であるような思いでした。
道なき道を、走り続けていました。巨大な石が道を塞いでいる、道路が陥没している、片側を見れば、数十メートルも道路が崩れ、車だけがポツンと、どうやって這い上がったのか、人は無事だったかと想像した・・山肌だけになり土砂が崩れ、のどかな風景が一変して、川は濁流で土の色に・・塞き止められた川の流れ・目に映るもの全て、恐ろしい限りでした。ハンドイルをギュッと握りしめ、車が泥だらけに、とにかく走り続けました。避難所にいる叔父、叔母、いとこ、友人、輪島のことが心配で、自分は食べない・寝ない・繰り返しの日が続きました。

1月30日、「海とオイルゴール」cafeの営業を再開。暗いままにせずに店の灯りをつけると言う思いに、希望を持ち営業再開に踏み切りましたが、
未だ、観光はストップしたままです。
和倉港も壊滅的な被害を受け、七尾市から、和倉港の使用禁止の書類を受け取りました。港が修復するのは、まだまだ3年先、5年先の状況です。
だけど、私はあきらめない。このイルカウォッチング・イルカと泳ぐドルフィンスイム・釣り船の機能をストップしては・・・まずダメだと頭の中はイルカたちを思いました。
いままでイルカたちは、人とイルカとの信頼が出来上がり、イルカの側へ行く、
嬉しい・楽しいをイルカたちに伝える、船の上で、お客様の歓声が響く、それにイルカたちは応える、イルカが笑う、イルカが笑顔を見せてくれる、それは人とイルカとが一心同体となる不思議な世界、体験があるのです。
いままで信頼関係を作り続けて来たことは奇跡であり人とイルカとの深い愛があることを私は強く思います。船を出さない日が続くと、イルカたちが、この島からいなくなるのではないだろうか・・・
観光はストップした、だけどイルカ観察、イルカとふれあうことは、休みはない、自然は休まない。私も休まない。イルカたちに声を届けよう、必ず復興する日まで、その日がいつになるか想像できないけど、いまやれることはやるしかない
私と谷口船長は、毎日、予約が無くても、イルカたちとの交流は、いつか必ず観光に光が戻るまで、私たちが年老いたとしても、家族のような存在であるイルカたちを見守っていくことをお約束します。

哀しいこともありました。
還暦の60歳はコロナの感染拡大の時期で同窓会が出来ませんでした。
コロナが落ち着いたら、みんなで元気で集まろうねって約束していました。
輪島朝市の付近には、同級生の家がたくさんあります。
みんなに、まずは無事であるかを電話しました。
最後まで無事を祈りましたが、一名の同級生が焼け焦げた中から、見つかりました。
だれからも好かれる優しい人でした。焼け焦げた輪島朝市を川向こうの橋の手前から、叫びました。「まちゃ」大泣きしました。
小さい時、まさきの名前が言えなくて、まちゃって、ずっと呼んでいました。
女の子みたいで、だれとも仲良しで・・・
まちゃの自宅の付近を私、歩いていました。ふと目にしたのは、
NHK「まれ」のシーンで使われた、ケーキのオブジェが焼けてなくて・・・
輪島の朝市・・・いろは橋・・・輪島の代表的な思い出が詰まった大切な場所が跡形もなく・・・爆弾でも落とされたかのように、全てが消失された。
輪島で生まれ輪島を愛し育った私のふるさとが・・・そして優しい人々が・・・
哀悼の祈りを今も深く黙とうし続けています。
なんという悲劇だ・・・
輪島へ向かう・・輪島から能登島へ帰る・・・車の中でたくさん泣いた。

能登半島がもたらした社員の変化
昨年、イルカガイドになるために入社した社員がさよならの言葉も告げずに一月付けで退職した。私も残された社員も、自然消滅する現実が、人と人との信頼や地震がなかったら、こんな思いをしなくても・・・と、みんなが困惑していた。
去る者は追わず、今出来ることを、やろう!雇用は守ると全員に告げた。

最後に渡された声なき声・・・約束
最後に私の元に会社のノートパソコンが送られてきた。最後の保存日は、2月18日であった。ファイルの中を見ると、17頭の個体識別が記され、カッコ内は空白であった。その【】のタイトルは、イルカの名前を決める・・・で終わっていた。昨年の夏の終わりから私と二人で始めた、17頭のイルカの個体識別・・・
私との約束を届けてくれた。
目を閉じて・・・振り返った潜る特訓・・・一緒に見た海の中の美しい魚たちの営み・・・イルカを好きになれ・・・厳しいことも優しさも指導してきたことを振り返っていた。
地震で失ったこと・・・
能登を嫌いになったのかなって・・・思わんでいいことも思ったりして・・
しかたないかなって・・・

社員である孫の奏太との話し合い
俺、ばあちゃんの仕事手伝う。イルカの船長になるって張り切っていた社員の孫の奏太。
5月には「俺、能登を助けたい。解体の現場へ行く」そう言って、
いまは、休業している。
・・・みんなイルカたちが好き
なんでって。なんで・・・苦しくて辛くて守ってあげられない自分を責めていた。
なんとかしなって、和倉温泉の旅館さんに宿泊している能登半島地震のインフラ工事従事者の方においしい食事をと、お弁当を配達、寝る間もなく、
気が付いたら、五か月間で体重が18キロ減。
自分で自分と戦って、原因不明のアナフラキシーに。
お薬のんだら、余計に頭がふらふらして自分じゃなくなって・・・
気が付けば、イルカたちの側へ泳いで行き、イルカに自然治癒力をもらった。

私たちに出来ることからはじめよう
いま、私たちは、残った社員が一丸となり、能登半島の復興のために、
和倉温泉を拠点として、和倉から元気にしよう、やれることからはじめようと
いままでとは、異なる時間帯で、事業を継続することをスタートしました。
和倉温泉・屋台村で出店し現在、「なりわい」をわずかですが維持しています。

和倉店営業再開までの道のり
和倉温泉にある、I LOVE DOLPHIN 海とオルゴール和倉店、解体後、プレハブを3坪と2坪設置し、横に、シャワー室・トイレ・洗面台を置く小屋を、80歳を過ぎた大工さん・左官屋さんと一緒に手作りの小屋を作ります。
設備関係では、まだまだ時間がかかりそうですが、業者さんを探し、6月下旬までになんとか、全て完成に漕ぎつけそうです。現実は、工事関係者の方もいっぱいいっぱいの請負で、大変な現状ですが直接、自らが出向き、現状を一生懸命に伝えて、7月中には、和倉店の解体後の更衣室を再開したい気持ちを伝えていました。公費解体を待たずに自費解体をし、夏までにの「約束」が能登半島地震から、なんとか、なんとか、完成出来る運びとなりました。

私の生活について
2か月間、店の屋根裏で寝泊まりしていた私ですが、4月のはじめに仮設住宅に入ることが出来ました。

能登半島地震発生直後から、とにかく休みなく、走り続けている日々ですが、
イルカたちから元気をいただき、元気でいます。

義援金について
クラウドファンディング・当ホームページ、義援金・手から手へを通して、皆様から寄せられた義援金は、
この先、どうしても、限界となった時に、最後の手段の運転資金として、大切に、貯蓄することが出来ました。
これまで、寄せられた、温かい励ましのメッセージに、心から感謝します。
私に「がんばれ!」をくださった方々、あの時、停電が続く中、スマホの文字、心温まるメッセージには
海とオルゴール・店内から眺める遮るものない海・イルカ・・・
イルカを見る・泳ぐ・・・共に経験した人々・・・のあの日、あの時、あの瞬間の皆様の声・・・思い起こして、今もいます。
私はイルカと泳ぐお客様をアテンドする前に、大切なことを伝えることがあります。
海に入るということは勇気がいることです。広い海・・そして深い海に、
経験したことのない、海の世界に、イルカと泳ぐのが夢だった。幼いころからの・・・
そんな声を聞きます。イルカの目を見て、生まれたての声を発する友のために、
全身全霊で、イルカの側へ、エスコートして来ました。
「ほんの少しの時間、私と家族になってください」「私を頼ってください」「こわいこわいと思うことは体に負荷がかかります。私と一緒に、ほんのわずかな時間、イルカたちの生活の場へ行こう」
私について来てください。さぁー行きましょう
と声を大きくします。
一人一人の真剣なまなざしや、イルカを見た時の喜びの笑顔は私の宝物です。

自家栽培ハーブティーについて
海とオルゴールのハーブティーは、私がハーブをブレンドしお湯を注ぐことを望む方がいます。
どれだけハーブの栽培やハーブのおいしい収穫の見分け方をスタッフさんたちに伝えても、ハーブだけは、わたしのこだわりがあります。
このことについては、ハーブについても、こだわりがあるから、ハーブを知り尽くすことは、何年も年月がかかると思います。少しづつですが、海とオルゴールのスタッフさんたちは、ハーブについて、「好きになる」ことからはじめています。その姿を見て、がんばれって心の中で応援しています。
地震があっても、海辺で育つハーブたちは、今も元気においしいハーブとして、
最盛期に収穫し、秋の終わりには、ドライハーブをブレンドします。
生きている限り、ハーブのやさしさやイルカたちのやさしさを、今いるスタッフたちに伝授するまで、私は、この店を守り続けます。

能登半島地震から7月1日で半年
地震発生からもうすぐ半年、お礼を伝えたいと毎日思い続けていました。いつも側で支えてくれた方々に心から感謝します。
たくさんのお野菜や猫たちのフードも・・・お皿も・・・物資も・・・
温かい衣類も・・・お店に来て、手から手へ・・・宅急便で届く箱の中の、心温かくなる品々・・・
どれだけ、どんだけ、勇気をいただいたか。この御恩は決して忘れません。
みなさんに直接お会いしてお礼を伝えたい気持ちで胸がいっぱいです。
まだまだ行先は不透明なことがたくさん覆いかぶさりそうですが、
決して立ち止まることはせず、子や孫たちに、海とオルゴールの素晴らしさを伝授する日まで、私は、走り続けて参ります。

これまで、ご支援いただきました、全ての皆様にお礼の言葉として、長文となりましたが、ご報告します。
感謝の手紙が大変、遅くなりましたこと、お詫びします。
能登ドルフィンプロジェクトの義援金についても、ほんとうに感謝の気持ちで、胸がいっぱいです。
この能登半島地震は復興までの道のりは長丁場になることを想像しております。
決してあきらめずに、今できることをやる。プラス、イルカが、この七尾湾・そして能登島の美しい宝の島で、子孫を残し、棲みつけてくれる奇跡を守り続けて行きます。ご支援いただき、義援金をいただき、ほんとうに
心から、ありがとうございました。

 株式会社能登島マリンリゾート
代表取締役 坂下さとみ
能登ドルフィンプロジェクト
   海とオルゴール
                 2024年6月16日 父の日


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