第27回「方代忌」 於)瑞泉寺
・一つだけ本当の恋がありまして南天の実が知っております
この口語的発想で有名な山崎方代。その「方代忌」が鎌倉の瑞泉寺で行われた。発起人の一人に「星座」の尾崎左永子氏がいたので、参加してみた。
瑞泉寺は、鎌倉宮「大塔の宮(護良親王)を祭神とする」よりも更に奥深い所にある山寺だった。やけに厚い日で、汗をかきかき坂道を登っていった。
瑞泉寺は禅宗の寺で、「まひる野」の大下一真氏がご住職をされている。
ここに関係者60人が集まって、「方代忌」が開かれた。禅宗では、本堂を「方丈」というが、その方丈の中央に60人が犇めきあっているのだから、暑い事この上ない。参加者にはペットボトル入りのお茶が配られたが、たちまち飲み干してしまった。
大下一真氏の読経、親交のあった岡部桂一郎氏の妻の挨拶、「塔」短歌会の三井修氏の話があったが、ここでは「コスモス」の小島ゆかり氏の「基調講演」を中心に書くことにする。
小島は、14首の方代の作品を採り上げて、「食べる方代」と題して講演した。それぞれを鑑賞しながら、方代の人柄を偲んだ。
まず注目したのは「いる」と「おる」の違い。「『いる』はしみじみとした情感、『おる』は心が解放された晴れやかな情感を示す。」という指摘。なるほどと思った。
次に鑑賞。特に3首採り上げる。
・はじけたる無花果の実を食べておる顔いっぱいがキリスト様だ
・奴豆腐は酒のさかなで近づいてくる戦争の音を聞いている
・寒鰤の目玉をすすり噛みくだくいずこにありやわれの恋人
小島ゆかりは、「いきなりキリスト様とは、びっくりさせられる」「奴豆腐と現在形の戦争の繋がりは不思議だ」「寒鰤の目玉をすすっているのは、いかにも方代らしい」と鑑賞した。
だがそれは少し違うと思う。聖書には「飢えたキリストが無花果の実を貰う」という場面がある。キリスト教の宗教画にも無花果は頻繁に出て来る。ここに一首の核心があると思う。
また二首目は、発表の時期から言って、「保守回帰」と言われた時代で、日米安保の拡大解釈が「ガイドライン」の名で始まった時期だ。これを意識していると思う。
それから三首目。山崎方代は、戦争で片目を失い、生涯独身を通した。「いずこ・・・」の下の句との関係で見れば、戦争で片目を失った無念さ、孤独感を表現していると思う。
どうも歌人は、歴史に疎いようだ。
二次会もあって、参加したら多くの歌人と歓談出来たのだが、自由が丘のライブがあったので、焼香をして帰った。「劇団黒テント」が、山崎方代の芝居を10月に行う。これを見に行こうと思う。
