オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

覗きつつ覗かれる関係

2011年10月10日 | Weblog

インターネット環境について疑問に思うことがある。

 インターネット上に自分の記事を載せた時、この記事に対してどんな人が閲覧しているのかがわからないことである。同じ様に自分がインターネットの記事を閲覧している時、相手には自分が閲覧していることが判らない。どちらも不特定多数に情報発信しているので、当然と言えば当然であるが、お互いにすれ違いのコミュニケーションをしていることになる。ほとんどの場合が全くの一方通行でコミュニケーションが成立していない事になる。そして、そのほとんどの部分が「覗き」「覗かれる」関係で終っている。本当にコミュニケーションの目的を達成しようとすれば、この情報発信に直接返信してお互いに意見を交換すればいいのだろうが、ほとんどが無名同士で相互に情報交換することもない。反対に直接の情報交換することを避けているし、直接の関係を持たないことがインターネットの利便性でもあるようだ。

情報発信した側は、得体の知れない不特定多数の人達に監視されている。

 悪い意味では「覗かれて」いる。監視されながら情報発信していることになる。ここには本来の自由はない。監視されている自覚が常識的な秩序を保つのに貢献している部分もあるだろうが、本来のコミュニケーションツールではない気がする。特定集団に対してメール発信する場合と、不特定多数に情報発信する場合は、どう考えても発信する内容は違ってくる。この中間の機能を果たすコミュニケーションツールが必要ではないかと思う。SNSの中にはこのような機能を実現したものがあるが、私としてはこれが本来の原則ではないかと思えてしょうがない。お互いに相手が見える関係のネットワークを実現する考えが基本だと思う。

インターネットサーフィンをしていると、時々相手の個人情報を覗き見している後ろめたさを感じる時がある。

 そして、個人情報を何の警戒心もなく公開している人達もいる。公開情報と個人情報は区別して取り扱う必要があるし、書き込もうとしている場は公開なのか限定なのかを明確に認識する必要があるが、ほとんどが、自分で情報発信の相手を制限することなく、不特定多数に公開する結果となっている。よくブログの炎上が話題になっているが、結局は不特定多数に情報発信していることを認識しないで、書き込みの内容の不適切から大量の抗議の反応を受けて炎上することになる。通常は不特定多数の読者は無責任でもあるし、しかも匿名の抗議である。結局は相手との直接のコミュニケーションは成立しないまま、情報交換の不具合から混乱状態に陥って発散もしくは頓挫している。これが本来のコミュニケーションかというと、ちょっと違うような気がする。

目に見えない相手に常時監視され、自分も相手に見られないように監視している関係は正常ではない。

 是非お互いがネット上で直接情報交換することを目指してもらいたいし、ネットワークツールもこれを実現できるような機能を保有してもらいたいと望むものである。当然ながら純粋の公開情報はこれまで通りで何も問題ないが、ひとつだけ注文するのは、信頼性を持たせるためには、発信元を明確にしてもらいたいことである。発信源が不明確で匿名のものは、頭から信用してはいけないと思う。本当に真実かどうかを確かめるのは自分であるが、何もかも確かめる訳には行かない。そのためにも、確かな情報と不確かな情報を区別できる手段を提供してもらいたい。だからと言って有象無象の不確かな情報を排除するものでもないし、自由な情報交換を制限するものでもない。当然、信頼筋を騙るようなネットワークを混乱させる発信元は排除しなければならないだろう。

覗き覗かれる関係を脱して、直接情報交換できる関係を目指さなければならない。

 覗き覗かれる関係は精神衛生上よろしくない。いつ覗かれるのわからなくて、その結果どんな反応が返ってくるのかも判らない状況は不安と疑心暗鬼しか生まない気がする。全く覗かれていなくても強制的に自己規制がかかってしまう。自分で自分を縛っているのと同じであり、見えない相手の恐怖に怯えて行動しなければならなくなる。また、自分も一読者として見えない相手の一人になっている後ろめたさもある。警察の取調室のマジックミラーのように、自分を見えない位置において相手を監視するのは取り調べの公正性を確保するため必要かもしれないが、それは警察の事情で、当事者にとっては卑怯な行為に他ならない。しかも、その警察さえも監視カメラで見えない相手に監視されようとしている。話はそれるが、私は街中に氾濫する監視カメラも困ったものだと思っている。誰に監視されているのか、どのように監視されているのかが見えないままなのである。しかも監視情報が何の目的でどのように利用されているのかも知らされていない。

覗き覗かれる関係の見える化を目指してもらいたい。

 結局は、覗かれる側の人権を確保する事だろうと思う。少なくとも監獄の死刑囚のような環境であってはならないし、覗かれている事を認識できて、覗かれる事を拒否できる選択権が認められて、覗く側は求められれば覗かれる側の許可が必要であろうし、覗く人の必要情報を覗かれる人に提供しなければならない。この関係ができて、覗かれる人が必要な操作をすれば、覗かれて悪いような情報が世の中に出回ることはなくなるし、覗く人も氏素性をはっきりさせて、責任を持った対応をしなければならなくなる。インターネットの発生当初は、とにかく自由な情報交換を目指したかもしれないが、そろそろ次のステップに移行する時期に来ているのではないかと思う。情報発信のやり方も自由に選択できる時代に突入するのではないかと思っている。反対に全ての膨大な情報をネットワーク上に保有することに対し、全ての情報が見えない誰かに覗かれているのではないかという一抹の不安も感じている。この辺のしっかりしたセキュリティーも早い時期に確立してもらいたいものである。


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