オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

現代版ビートルズ時代の再来

2007年08月09日 | Weblog

この頃の音楽ソースは音質も良いし雑音もなく演奏も完璧である。


 しかし、何となく近寄りがたいような他人行儀な自分と違う世界にあるような違和感を持つのは私だけであろうか・・・。あまりにも完璧に高度で複雑な電子機器を駆使し、しかもスタジオで人工的に造られたものであるためであろうか・・・。音楽は音色や旋律やリズムだけではない。結局は音楽を通じて伝えるのは「心」である。あまりにも完璧に造られ過ぎたものは「心」がはねつけられてしまうような気がする。

私が好きなお気に入りの音楽は、バッハの無伴奏チェロである。

 特にヨーヨーマの無伴奏チェロが大好きである。これを聴いていると演奏している弦の響きそのものが伝わってくる感じがし、演奏者の呼吸までが感じ取れるし、当然伝えようとする「心」も伝わってくる。録音の取り直しくらいはあったかも知れないが、演奏そのものにはごまかしがきかないと思う。一人で思索に耽るときはよくこの無伴奏チェロがBGMとしてかかっている。基本的にはクラシックやジャズはライブ演奏であるが、どういう訳か気がついてみるとクラシックやジャズを好き好んで聴いている自分があるのは不思議である。

私は昔からカラヤン指揮のオーケストラの作品はあまり好きではなかった。

 何故かというと、一般的に無難にまとめており、確かに大衆受けはいいが、強烈な個性が感じられない印象があった。当時は若かったせいもあるが、荒削りでも強烈な個性を発揮するものに惹かれていたようだ。モスクワ放送交響楽団(ちょっと記憶は曖昧?)の演奏を聞きに行って巨漢のトランペット奏者が顔を真っ赤にして座ったまま足を一歩踏み出して噛みつかんばかりの怖い形相で目一杯の音量を出していたあのエネルギーに大感激していたものである。

昔ビートルズが日本で大人気になったのは・・・。

 彼らが自分たちで作詞作曲し、演奏し、歌い、コーラスをするということではなかったか。音楽としては稚拙かも知れないが、普通の若者がこのようなやり方で世界に対して自分たちの考えを表現し発信することができるという夢を与えてくれたのではないかと思う。そしてビートルズのレコードはスタジオ録音とはいえほとんどライブに近いもので、演奏ミスもハモリミスもテンポのずれも時には仲間内の雑談さえも収録されている。

ビートルズの影響を受けて、


 その後、日本では我も我もとミュージシャンがタケノコのように生まれては消えていった。ビートルズに勇気づけられた人々である。ビートルズ効果はすばらしいものであったと思う。かくいう私もその内の一人である。その影響を受けギターを弾き始め、フォークソングに熱中し、中学、高校、大学でブラスバンドにはいり、大学ではオーケストラにも挑戦した。今でも音楽大好きである。

演歌やニューミュージックやポップスなどはほとんどがスタジオ録音である。

 演奏と歌を別録りしたり、演奏も楽器毎に分割して録音し合成する手法がとられる。スケジュール調整も楽で、スタジオも小さくて済むし、修正やアレンジも自由自在である。一堂に会して演奏する録音手法を取っているのが珍しいくらいであろう(ライブ録音は別であるが・・・)。音楽には「ノリ」の要素がある。演奏している人も歌っている人もお互いの演奏や歌を聴きながら相互に影響し合って相乗効果で全体に統一した息吹みたいなものが醸し出される。これはその場の一回こっきりのものであり、あとから作為しようとしても造れるものではないと思う。偶然の産物でもある。

私は今でも音楽に関してはド素人である。

 専門家を目指したこともないし、あくまで楽しむための音楽しか経験していない。しかし、オーケストラでの音造りにも様々なバリエーションがあることを教えられた。たとえば音出しで弦楽器が先行し管楽器が続く音と、管楽器が先行し弦楽器が続く音、そして両方同時に出す音の3種類がある。これに打楽器が絡むともっと種類は増えるし、音出しの時期を微妙に変えると様々な音づくりができる。ハーモニーも同じで、機械的な周波数計算だけでの和音はしっくりこない。音程も同じで、微妙に上げたり下げたりの調整が必要である。奏者は周りの奏者と息を合わせて瞬時に判断しこれらの微調整をしながら音造りをしている。

スタジオ録音ではこの絶妙の雰囲気を造るのはむつかしいと思う。

 確かに、できあがったものは完璧である。しかし、歌手と演奏者のやりとりや、演奏者同士のやりとり、微妙なテンポの違い、微妙な音程の違い、微妙なハーモニーの違い、微妙な音のかすれや歪みなどが醸し出す偶然の芸術はふるい落とされてしまう。メトロノームのように正確なテンポに、正確な音程、正確なハーモニー、非の打ち所のないほど完全な音色では生理的に違和感を感じてしまう。もっと気楽に自由にみんなでワイワイやっている雰囲気を大切にしたいし、機械的な理詰めの音楽よりも人間の歌う人間の演奏する音楽を大切にしたい。

そう考えると、最近の日本の音楽ソースにはあまり個性が感じられない。

 パンクやハードロックやコミックソングには面白い個性を発揮しているものもあるが、音楽的な面で個性を発揮しているものは乏しいと思う。表面的には一応違っていても根っこは同じという類のものばかりに見える。下手をすると演歌やポップスはみんな同じで誰が誰だか区別もつかない一群もある。要は曲が違って歌っている人が違うだけであって、主張するところも雰囲気も手法も曲の長さまでも似通っている。あとは強引なコマーシャルによる売り込みをかけ、飽きられたら簡単に忘れ去られてしまう。

マルチメディア時代と言われるが、

 大量に造って大量に売り込むやり方はもはや古いのではないかと思う。どうしても大量生産の大衆受けする音楽ソースを目指すと金太郎飴のごとく似通ったものになってしまうし、コストを下げるために肝心の「心」が抜けた作品にならざるを得ない。高度情報化時代で簡単に録音し記録して簡単に配信できる技術は揃っているので、いっそのこと、録音スタジオから飛び出して、各地で行われているライブ演奏の生録音を扱ったらどうだろう。そうすれば自宅でコンサート会場やホールにいる気分で本当の音楽を聴くことができると思う。

日本ではテレビでもラジオでもライブ演奏を放送することは少ない。

 小劇場やクラブやライブハウスの生演奏を聴きに行くと、当然のことながら、CDやMDで聴くのとは雲泥の差である。生演奏の感動は何物にも変えられないし、観客と演奏者のコミュニケーションが醸し出す現場の雰囲気は重要である。当然演奏者の一挙手一投足、表情、しゃべりも重要である。これらをすべて映像と音楽を使って再現できるのが「マルチメディア」ではないかと私は思う。また、画一を廃して個別の要求に応えることができるのも「マルチメディア」である。現状において個人レベルで特注の音楽映像CDまたはDVDを一枚単位で造ることも可能であり、ネットワークを通じて配信することも可能なのである。現代版ビートルズ時代の到来も夢ではない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 健康診断は誰のためにやって... | トップ | 中途半端な勧善懲悪の戒め »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事