オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

競争についての考察

2016年09月14日 | Weblog

競争する場合、不特定多数と競争することはない。

 直接競争する場合は2人、多くても7、8人、団体の場合は個々の競争は団体ごとになる。たとえ、エントリーする個人や団体が多くても、直接対決するのは結局は個人対個人で、そうでないと競争そのものが成り立たないし、競争相手を特定しない競争はすでに競争ではなくなる。見えない相手と競争することも可能だが、それは終わりのない得体のしれない無意味な競争であるかもしれない。

動物や植物などの自然界にも競争がある。

 すべての行動が競争であると言えるかもしれない。その時も同じで、競争相手を特定して、その特定の相手に自分達の運命をかけて挑戦する。その勝ち負けが生きるか死ぬかを決定する。そして、一回の挑戦だけでなく悠久の過去から未来永劫まで挑戦は続く。何故競争相手を特定するかというと、その方が効率がいいのである。そして、特定した競争相手に全力を集中して戦うことが、勝利を手にする方程式でもある。

当然ながら、競争相手も対策を打つ。

 相手にやられないための秘策を講じる。秘策はそれぞれの動植物が持っている。初めての相手ではどんな秘策を持っているのか皆目わからない。そんな相手とむやみに競争しても負けるばかりである。そんな時、ある相手を特定して勝負を挑む。そうすると、その相手の秘策に負けてしまう。しかし、再度そのあらゆる試行錯誤をしてその相手に勝負に挑み、これを何度も繰り返して、相手の秘策を乗り越えて最終的に勝負に勝つことができる。しかし、相手もまた更なる秘策を設けて、この挑戦者へのリベンジを試みる。挑戦者はまた更なるこの秘策を乗り越えて更なる新たな挑戦が始まる。この繰り返しである。

この競争相手同士はのっぴきならない関係になる。

 特定した競争相手にしか競争できなくなる。この相手に勝つしか自分の生きる道がなくなる。悠久の過去から未来永劫に続けていた挑戦を放棄するわけにはいかない。あきらめた途端、未来は絶たれる。時間は取り戻せないのである。唯一の生きる道は目の前の特定した競争相手に全力で対策して勝利を勝ち取ることである。勝利とは自己の生存を確実にすることである。特定した競争相手は永遠のライバルであり、反対にそのライバルなしには自分も生き抜くことができなくなっている。

競争相手は自分を生かすために必要不可欠である。

 しかし、それは競争相手が自然界で生き抜いてくれること、生き抜くためにしたたかにあらゆる努力を傾注していることが必要である。競争相手がこの世から消滅してしまったのでは、自分も生き抜くことが困難になってしまう。競争相手にとっても同じことが言えるだろう。敵味方同士のかけがえのない戦友なのである。そして、その関係を断ち切ることはもはやできない。そのような関係で自然界は複雑につながりあっている。その一部を安易に断ち切ると、どんな影響が出現するのか簡単に予測することはできない。自然界のもろさでもあり、たくましさでもある。

自然界は悠久の過去から未来永劫までの時の流れの中に存在する。

 ところが、人間界は刹那に生きる人達ばかりである。刹那に生きるために横暴な権力を駆使して自然界を変革する。自然がその変革を元の平常状態に戻す(対策をする)には膨大な時間を必要とする。そのことを人間は理解していないようだ。自然界の天敵は「人間」であるようだ。いつしか自然界は「人間」を唯一の競争相手の天敵として対策して、いずれは抹殺を図るかもしれない。その時、「人間」はその自然の力に対抗できるのだろうか?私にはそうは思えない。

人間同士の醜い競争もある。

 本当の競争は、相手に対する尊厳があり、競争相手の存在こそが自分の存在を確かにする証でもある。そんな競争は奨励すべきであるが、無意味な競争は文字通り無意味である。ただ目的もなく相手を破壊殲滅するだけの競争である。無意味な競争でも競争相手は特定しなければならない。そして競争相手とののっぴきならない関係だけは引きずってしまう。特定相手との関係を断ち切れないのである。執拗に特定相手を集中的に攻撃する。周囲から冷静な目で見ると、なんでそこまで固執するのか理解できないが、やはりそこに競争の原理が潜んでいる。

はっきり言って、競争相手を間違っているし、競争の動機と目的が不純である。

 勝てる相手なら誰でもよくて、気分がすっきりするために無節操に競争相手に特定されたのではたまらない。そんな挑戦者に攻撃されても対策もままならない。ただ、通り過ぎるのを待つだけである。それなのに執拗につきまとい気のすむまでいたぶり、最悪は生命さえ危うくする。もっと最悪は、集団で弱い一人を攻撃することである。これは倫理的な卑怯を通り越して自然の法則にも反している(犬畜生にも劣る)。競争することは自然の法則として仕方のないことである。競争を悪いものとは思わない。しかしながら、せめて自然界の原理に則った競争であってほしいし、そんな競争ができる人間を育てていってほしい。


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