オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

「らしさ」とは

2006年11月19日 | Weblog

「男(女)らしい」「学生らしい」「父(母)親らしい」「警察官らしい」「政治家らしい」などなど、

 「・・・らしい」という言葉がよく使われる。その意味は「・・・」の特質をよくとらえているということであろう。ただ、これは第3者から見た客観的な見方であり、悪く言えば一個人がその場その場の表面的なことを見た感想に過ぎない。そのために、あまり「らしさ」を追求すると本質からはずれた格好だけの特質だけになってしまう恐れがある。本来であれば特質そのものは対象人物に十分備わっているもので、その特質から自然ににじみ出してくるのが「らしさ」である。反対に言うと特質は十分に備えているが「らしくない」人もいるはずである。「らしさ」を固定観念でとらえてはならないと思う。

「ジェンダー」と言う言葉があった(今では誤解されるため使用されていない)。

 いつものごとくたぶん米国から輸入された言葉だと思うが、社会が造り上げた性に対する偏見である。純粋動物的なオス、メスではなくて、男らしさ、女らしさを人間が社会の中で仮想的に築き上げたものである。ところが、日本人は誤解して純粋動物的なオス、メスまでを区別をなくすことと思い込んでしまった。そしてウーマン・リブなる運動のスローガンになってしまった。女が女を捨てることをジェンダーフリーと解釈してしまった。女は生まれつき女らしいし男は生来男らしい。そのことを否定するものではない。固定観念でとらえた「らしさ」を社会が強制することが問題なのである。男らしい女が居ても女らしい男が居てもいっこうに構わないし、本人の自由だし、それも個性であろう。

そんな意味から、「・・・らしくしなさい」と助言することは何か変でもある。

 本来であれば、「・・・らしく」するためには、どうしなければならないかを助言するのが筋である。「・・・らしい」というイメージは助言した人の中にあって助言された人と共有できるものではないし、共有しているのであれば助言する必要はないはずである。お手本を示して「あの人のように・・・らしくしなさい」という言い方はあるかも知れないが、それでは格好だけを真似るしか方法がなくなる。あの人がどうして・・・らしいのかは助言された人にはわからない。ことほど左様に「・・・らしさ」とは曖昧なものである。しかし日本人はこの曖昧な雰囲気が大好きで、古来からこの曖昧な空気を敏感に感じながら社会生活を送ってきている。日本人が均質だから通用する処世術であろう。しかし、その利点・欠点はしっかりと押さえておく必要がある。

周囲の雰囲気に合わせる処世術と論理的な思考力を混同してはならない。

 第2次世界大戦の反省において、悪者は首謀者と決めつける論調が多数であるが、本当にそうであろうか。根本的な原因は日本人の「周囲の雰囲気に合わせる処世術」ではなかっただろうか。日本人全体がこの処世術に縛られて熱病のような興奮状態で手がつけられない症状であったのではないかと思う。論理的な思考力も無視されて誰も押し止めることができないまでに暴走していたのである。その熱病の興奮状態が醒めてみれば、一体何だったのだろうと自分でも理解できない。周囲に踊らされていたのだが、その張本人は特定できない。なぜならば国民全員が相乗効果で発振し飽和状態であったのである。冷静になって張本人を捜す時には本当の張本人(国民全員の興奮状態)は存在しない。

この頃の世相を見ていると、この日本人の危険な状態をあちこちで見かける。

 特に、考え方が短絡的で単純で浅薄で客観的・理論的な思考を欠く感情的なものに左右される一時的な興奮状態は依然として日本人の特質として存在している。この状態は、どんなきっかけで再度第2次世界大戦と同じ轍を踏むかと心配でならない。特にこの頃は、この一時的な興奮状態が頻発しているような気がする。まだ、短期間で興奮状態が醒めているので安心だが、これが長期間になると危険である。問題は、この興奮状態に冷静に水をさせる人が出現しないことである。時が経って自然に醒めるまで待つだけのような状況である。反対に興奮状態にある時は自分に都合のいい情報だけしか聞き入れない体質であるとも言える。そして醒めた後は祭りの後の空しさを一時期感じて忘れてしまう。その馬鹿さ加減についてあえて言う人もいない。不思議なものである。

政治の世界も一緒である。

 日本国内だけで通用した政策が国際的な常識では通用しないと判明すると、手のひらを返したように政党の政策を変更する。これまで掲げてきた政策は何だったんだろうと疑問に思ってしまうし、それが間違っていると指摘する人もいなかったわけである。ある主張をする一定数の集団がいれば真偽は別として正当な意見として認めてしまう国民的風潮がある。「それほど主張するなら正しいんだろう」と存在を認め容認してしまう日本人がいる。そして、論理的な議論や論争は避けて互いに共生していこうと努力する。このような考え方は論理的な思考を欠き、曖昧な結論を生じ、責任を不明確にしてしまう。曖昧なままで白黒決着をつける努力をしないで放置している状態でもある。まさに日本の今の状態がそうであると言い切ってもいい。そのことを指摘できるのは日本人以外であり、日本人が指摘しても聞く耳を持たない。不思議なものである。

論理的な思考をするべきだと大上段に構えて訴えるつもりはない。

 何をもって論理的思考力とするかを論じればきりがないし、理想とする論理的思考など存在しない。ただ、現状から論理的思考をする努力をするのみである。少なくとも過去・現在・未来、上下左右において首尾一貫した考え方の筋を通すべきだと思う。考え方そのものは未来永劫変わらないはずであり、その考え方に基づくやり方を試行錯誤しているはずである。とにかくやってみてうまくいったから採用するでは行き当たりばったりで長続きするはずがない。流行に振り回されることも、評判にとらわれることも、成り行きに任せてしまうことも本質を見失ってしまう原因である。論理的な思考力は試行錯誤の範囲で柔軟であることを求められるが、本質的な部分においては頑固であるべきである。日本にはこの頑固さが欠けており、本質を見失った支離滅裂な優柔不断な姿しか見えない。

日本人の悪口をグダグダ述べたが、

 日本人の「周囲の雰囲気に合わせる処世術」は長所でもある。島国日本としては日本国民は運命共同体であり、外部から取り入れたものは内部に積み重ねて行くしかない。そういう意味で、外部の環境に対する適応力は抜群であろう(ただし本質の部分において節操がない)。その適応力をもってこれまで幾多もの困難を克服してきた歴史がある。運命共同体としての団結力も規律心もすばらしいものがあった。未だに日本国民にその片鱗をみることができる。欠けているのは大陸国家の精神であり、自己の存在感をアピールできる自我に目覚め世界の中の日本国としてアイデンティティーを確立し、世界に対して積極的に情報を発信することだと思う。端的に言うと他人との適正で積極的な差別化であるような気がする。「みんな同じ」思想は卒業しなければならない。グローバリゼイションが叫ばれる昨今、改めて日本国民の意識改革を望むところである。

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