オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

多様性

2007年06月12日 | Weblog

自然界においてしたたかに生き残るための法則は「多様性」である。

 「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」という極めて単純明快な法則が「多様性」である。ということは、ひとつのものにまとめてしまうことは自然界の法則に反していることになる。この「ひとつのもの」がダメになって滅びるハメになったとき、次の担い手がなくなり全体が破滅してしまうことになる。人間は効率化・合理化と称して全体を統一し均質のものにする方向を目指すことが文明だと信じ込み、世界規模・地球規模でひとつのものにまとめていこうとしているが、果たして正しい道なのだろうか。

人間界においても「多様性」を失ってはならないと思う

 「コンピュータ・ネットワーク」が世界規模で発展し「世界はひとつ」とも言えるような環境がすぐにでも実現しそうな気配である。しかし、「コンピュータ・ネットワーク」はあくまでも「道具」に過ぎない。相互の意志疎通を促進することはできても、人間そのものの多様性を崩すものであってはならないし、人間そのものは独自の文化を守って他に向かって相互理解を深める努力をすべきである。独自の文化(=個性)を発揮させるための有効な手段が「コンピュータ・ネットワーク」であろうと思う。

日本において「標準語」なる言葉が存在しているが、

 「標準語」では表現しきれない文化がある。民謡を標準語で唄ったのでは興ざめであるし、方言の独特な雰囲気は標準語では表せない。私の故郷は九州であるが、帰省した時に聞く方言の響きには心の底から安心・安定・安堵できるし、「アラァ~○○ちゃん、どげんしたんねぇ、久しぶりゃねぇ、元気じゃったけぇ?」と間の伸びたような人懐っこい笑顔で言われると肩の力がスーッと抜けてとろけてしまいたいような心地よい気分になる。こんな文化は大切にしたいものである。

「標準語」は何で必要なんだろう。

 方言同士では通じないからであろう。10の方言があってそれぞれが通じないのであれば、ひとつの方言に対して9人の通訳が必要になる。全体で90人の通訳が必要になる。ここに「標準語」を設定し、「標準語」を介して意志疎通を図れば通訳は10人で済んでしまう。しかし、方言には昔からの文化があるが、新しく作り出された標準語には文化がない。方言から標準語に翻訳されるとき独特の文化が消えてしまい味気ない淡々と事実を伝えるだけの表現になってしまう。国際語のエスペラント語もあるが、あまり普及しないのはこの辺のところに理由があるのではないかと思う。

流暢な標準語で軽薄な文化を伝達するよりも、

 たどたどしい方言で独自の文化を伝達した方がよっぽどましであり、伝えるべきは効率的な理解ではなく文化そのものである。そのためには築き上げられた文化そのものが絶えることなく存在し、将来に向かって営々と伝達されて行くことであり、独特の文化そのものを枯らしてはならない。そう言う意味ではコンピュータ・ネットワークの普及は下手をするとメジャーがマイナーを席巻してしまうおそれがあるが、これはメジャーの陰謀であり断固阻止しなければならないと思う。メジャーもマイナーも対等なところから出発しなければならないと思う。

英語を国際語にするには異議がある。

 世界が英語文化で統一されてしまう嫌いがある。単なる意志疎通のための言葉であれば英語を国際語とするのを否定はしないが、他の言語を否定し駆逐することは許されないと思う。効率が悪くてもこれを可能にするのが本当の文明である。各国の言葉が文明の利器で自動翻訳されて相互の意志疎通と文化交流が図れることは夢ではないし、手に届くところまで来ている。ここで効率化・合理化を持ち出して各国の独自の文化を台無しにすることは許されないし、冒頭に述べたとおり、多様性は自然界の進むべき方向であり、単純明快でなく複雑怪奇な方向へ進むことを躊躇してはならない。

人間が使う言語を「自然言語」といい、コンピュータの使う言語を「人工言語」という。

 自然言語のひとつを国際語にするのでなく、人工言語を媒介すれば翻訳を効率的に実現できそうである。各国の言語を一旦人工言語に変換して、人工言語から各国の言語に翻訳する。考え方は「国際語」と同じようなものだが、人工言語は人間が使うものではない。コンピュータの中の仮想言語であり、あくまで翻訳を効率的に行うための技術に過ぎない。そのため、各国の言語はあくまで対等の関係を保つことができる。翻訳に適した人工言語の開発が着々と進められているそうである。近い将来コンピュータを使った多国籍の言語の同時通訳が可能になったり、各国の言語をそのまま使って世界中の人と意志疎通が可能になることになるだろう。多様性はそのままである。

日本人は単純明快が好きであり、みんなと同じが好きである。

 そして自分の意志を明確にすることを嫌う。自分の意志は他人にあり、周囲にあり、環境にあり、先祖代々にあり、自然界の中にある。「我思う故に我有」でなく「他人思う故に我有」ではないかと思う。自分の意志の所以を質すと自分で説明できなく曖昧模糊とした空間に発散してしまう。反対にみんな同じでなく複雑怪奇で理解できない人に対してはその存在を認めないで排除しようとする傾向が強い。そして訳の解らない「お題目」をみんなで唱えることが大好きである。「標準語」なるものが日本にしっかりと定着しているのもこの日本人の特性からくるものであろうが、これからの世の中は多様性に向かって発展しなければ生き残れないし、多様性を大切にしなければならない。方言も大いに復活させなければならない。

「みんな同じ」の信奉者は何に対して自分を合わせようとしているのか考えて欲しい。

 結局は、多数側につくことに熱心になり、声の大きい方に従い、強いものに対して服従することを選択していることになる。昨今の流動的な社会情勢においては、今まで多数側で発言力があり強者であった者が手のひらを返したように少数派で孤立し発言力を失い最弱者に追い込まれるハメになるのも珍しくない。反対に今まで少数派で発言力がなく弱者であった者が多数派で発言力がある強者側になる。その流れを生み出すのは一体なんだろう。「下剋上」とは下位の者が上位の者を実力で圧倒することであるが、観察する限りにおいては普遍的な真実と理論に基づいて実力で下剋上を生み出しているとは思えないし、単なる感情的な高ぶりと訳の解らない雰囲気に基づいて生み出されているようでもある。

昔、「風見鶏」と言われた首相がいたが、

 全ての日本人が風見鶏になっているのではないかと不安になってくる。自然に吹く風に流されるのであればまだ救われるが、仕組まれた風に流されるのは危険でこそある。また、日本全体が吹く風に無思慮に流される状況にあることは、いつでも簡単に仕組まれる危険と同居していることでもある。「風見鶏」は即刻止めにして、各人が自分の実力を信じ、自分で判断し、自分で行動し、影響力を行使する心構えが必要である。一人一人は多様性を担っているし、また多様性を担わなければならない。「みんな同じ」になってしまって多様性をなくしてしまっては日本はいずれ滅びるしかなくなってしまう。統一は力を生むが、常時統一であることは単なる暴走であり正常な力を生むことはない。多様性を持つ者同士が統一したとき本来の最大の力を生むのである。

♪ぞうさんぞうさんお鼻が長いのね、そうよ母さんも長いのよ♪

 という童謡があるが、象の鼻が長いのは自然の多様性のひとつである。鼻の長い動物もあっていい。そしてこの鼻の長いことを劣等感を感ずることなく誇らしげに「そうよ母さんも長いのよ」と自慢する子象はすこぶるおおらかで自然であり何も違和感がない。反対に周囲でコソコソと鼻の長いことをせせら笑っているほうが異常であり、みんなと違うと周囲から責められれば子象は傷つくし、自慢の鼻も劣等感の固まりになって隅の方で小さくなっていなければならなくなる。「みんなと違う」だけで子象を虐めないように、子象の自尊心を傷つけないように日本人全員にお願いしたいものである。


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