大急ぎで書いて、論旨が大破綻したので改訂版です。ちなみに前の原稿は見直しをしていませんでした。関係各位にお詫び申し上げます。
母子殺人事件の上告審が結審、弁論続行の主張退ける 山口・光市 (朝日新聞) - goo ニュース
18世紀末から19世紀の初頭にかけて活躍したフランスの文豪ヴィクトル=ユゴーは熱狂的な死刑廃止論者としても知られていた。彼の作品にも、そうした性格の濃い作品がたくさんある。しかし、仏大革命の時期、比較的簡単に死刑という刑罰が出されたことはそれほど知られていない。仮に知っていても、それは大革命の権力闘争による他者(政敵とも言う)の排除装置として機能していたとみなす向きが非常に多い。
ただ、民衆と呼ばれる人々に、死刑が課されるのはそれ相当の犯罪を犯したからであったという部分も見逃せない。
そのユゴーが書きながら、人間への洞察が多く省かれ、ほとんど偏見の名の下に作成されながら、その重要な部分(偏見と人種差別を主題として書かれたということ)に気づかせず、美しい恋愛物語の印象を与える『ノートルダム・ド・パリ』でさえも、まず殺人への罰として死刑という方法が採用されていることは、見逃せない。ちなみにこの作品を映像化したディズニーアニメの『ノートルダムの鐘』は絶対見ないで欲しい。あれはディズニーという企業が、西欧の美意識を啓蒙するために作った作品であり、そこには悪意に満ちた偏見がこめられている。これに関しての研究はドルフマンとマトゥラータが分析し、チリのアジェンテ独裁政権に発禁処分とされた『ドナルドダックを読む』(晶文社 1984)という本を薦める。
さて、死刑廃止制度だが、最初から私の見解を書くとこれを支持しない。というのも、既に1人ないしは、複数の人間が殺人によって亡くなっているのである。なおかつそのような状況にありながら、当の殺人者は生き延びるという、きわめて簡潔な状況が理不尽だと思うからだ。また、死刑廃止論者のもつ意見の希薄さは、簡単に受け入れられるものではない。彼らはよく言う、欧米では人権的な配慮から、犯罪者にも人格を認めてというようなことを言う。
しかし・・・私は、「主張を持たない意見」という言葉を用いて、それらを一蹴する。
こうした流れは、死刑廃止という風潮が欧米の主流として認めることができるから、やりましょう/やめましょうというのは、あまりにも軽薄な考え方である。他にも仏教に、キリスト教に、オウム真理教に、哲学に・・・といい続けて、何らかの根拠を元に説明を組み立てるのは、自分のどこかに逃げ道を作って、賛成する/反対するを論じているだけに過ぎないのである。その点、私の考えはきわめて単純で、人一人が死に、それに手を下した人間を許せないということである。そしてまた同じだけの苦しみを犯罪者にと願うのである。
これではまるで、古代のハムラビ法典と同じではないかという意見があるだろう。しかし、そうした刑罰が行われた古代を、簡単に死刑という刑罰を行った大革命時のフランスを「野蛮」だといえる権力は、どこから出てくるのかという問いかけもある。
いい加減、他人から与えられた人権論を振りかざすのは止めにしよう。本当に議論すべき土台はそこから始まるのだと思う。
母子殺人事件の上告審が結審、弁論続行の主張退ける 山口・光市 (朝日新聞) - goo ニュース
18世紀末から19世紀の初頭にかけて活躍したフランスの文豪ヴィクトル=ユゴーは熱狂的な死刑廃止論者としても知られていた。彼の作品にも、そうした性格の濃い作品がたくさんある。しかし、仏大革命の時期、比較的簡単に死刑という刑罰が出されたことはそれほど知られていない。仮に知っていても、それは大革命の権力闘争による他者(政敵とも言う)の排除装置として機能していたとみなす向きが非常に多い。
ただ、民衆と呼ばれる人々に、死刑が課されるのはそれ相当の犯罪を犯したからであったという部分も見逃せない。
そのユゴーが書きながら、人間への洞察が多く省かれ、ほとんど偏見の名の下に作成されながら、その重要な部分(偏見と人種差別を主題として書かれたということ)に気づかせず、美しい恋愛物語の印象を与える『ノートルダム・ド・パリ』でさえも、まず殺人への罰として死刑という方法が採用されていることは、見逃せない。ちなみにこの作品を映像化したディズニーアニメの『ノートルダムの鐘』は絶対見ないで欲しい。あれはディズニーという企業が、西欧の美意識を啓蒙するために作った作品であり、そこには悪意に満ちた偏見がこめられている。これに関しての研究はドルフマンとマトゥラータが分析し、チリのアジェンテ独裁政権に発禁処分とされた『ドナルドダックを読む』(晶文社 1984)という本を薦める。
さて、死刑廃止制度だが、最初から私の見解を書くとこれを支持しない。というのも、既に1人ないしは、複数の人間が殺人によって亡くなっているのである。なおかつそのような状況にありながら、当の殺人者は生き延びるという、きわめて簡潔な状況が理不尽だと思うからだ。また、死刑廃止論者のもつ意見の希薄さは、簡単に受け入れられるものではない。彼らはよく言う、欧米では人権的な配慮から、犯罪者にも人格を認めてというようなことを言う。
しかし・・・私は、「主張を持たない意見」という言葉を用いて、それらを一蹴する。
こうした流れは、死刑廃止という風潮が欧米の主流として認めることができるから、やりましょう/やめましょうというのは、あまりにも軽薄な考え方である。他にも仏教に、キリスト教に、オウム真理教に、哲学に・・・といい続けて、何らかの根拠を元に説明を組み立てるのは、自分のどこかに逃げ道を作って、賛成する/反対するを論じているだけに過ぎないのである。その点、私の考えはきわめて単純で、人一人が死に、それに手を下した人間を許せないということである。そしてまた同じだけの苦しみを犯罪者にと願うのである。
これではまるで、古代のハムラビ法典と同じではないかという意見があるだろう。しかし、そうした刑罰が行われた古代を、簡単に死刑という刑罰を行った大革命時のフランスを「野蛮」だといえる権力は、どこから出てくるのかという問いかけもある。
いい加減、他人から与えられた人権論を振りかざすのは止めにしよう。本当に議論すべき土台はそこから始まるのだと思う。