tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

人に教えること

2006年04月26日 02時05分43秒 | Weblog
中学校の頃の夢は、国語の先生になることであった。しかし、国語の成績が格段によかったわけではない、むしろ社会、特に歴史が好きだったくらいだ。
学校の図書室にあった「なるにはシリーズ」の『教師になるには』という本、よく借りては読んでいた時期があった。余談だが、私が当時好きだった子が図書委員で、その当番は土曜の午後の放課後になることが多かった。この時間を見計らって、図書室に出入りしていることは多かった。

しかし、教師という人間が私の想像を越えて、まったく異質な存在と写ったのは、高校に入ってからだ、それからは、そもそも受け入れ枠の少ない中学校や高校の教員採用試験を目指すことがなくなった。

さて大学も三回になると、将来を決めなくてはならない。大学の就職セミナーに顔を出したりもしていたが、どちらかというと、私は大学院志願であった。
そんなある日、教員採用試験の模擬試験を行うことになって、それに参加しないかと友人に言われて出てみた。現職教員の試験等の話を聞いた後、試験を受けてみた。自画自賛になってしまうが、そこそこ勉強していた友人よりもはるかにいい点数をとった。ほとんどが常識の範疇の試験だったからだ。

幸運にもその後、私は大学院に入って、研究者になりたいというありふれた夢を持つことになった。勿論研究者といっても、研究だけでお金にならないから、大学の教員ということをめざすことになる。ただ、大学教員はとてつもなく遠い道であった。仮になったとしても35歳くらいか。今の私からしても後数年はブランクともいえる時間が存在する。その間に研究だけを行って、人生においては、どれだけのことを失うのだろう。ということをよく考えた。それで、大学院は2年通っただけで終わった。勿論、教員という夢も潰えた。

ただ、会社という組織に入ると、必ず自分よりも後に入ってくる人がいて、そうした人に、作業やらなんやらの手順を教えなければならないことになる。本質的には、教え方の上手下手の問題ではなく、相手にどれだけ丁寧に教えられるかということ。実際には、これには時間がかかって、自分の仕事が出来ないなんて、いつものことだ。私の会社にも派遣さんがたくさん来て、いちいち教えなければならない。その数、実に14名近く。

今の所、あまり苦にはならないのは、かつての志望が教員だったからなのかな?