酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

ノグチⅤ

2014-02-27 09:50:22 | もっとくだまきな話
「東京での滞在も忙しいものだね」
「はい先生。こればかりは自分でも予想だにしておりませんで・・・」
(だが、まんざら!でもない!良い気分だぁ)ノグチの本音。
血脇盛之助(ノグチの恩師)は、こう話し掛けて来ました。
都内、帝国ホテルロビー。
1915年9月7日の事です。
「明日からの日程だがね?どうするのだ?」
「はい!もちろん!」
ノグチとしても、やはり故郷は恋しいのです。そして、やはり母に会いたい。
(かぁちゃんには、どうしても会いたい・・・そして・・・もう一人会いたい人がいる・・・)
会津への旅も一般人と同じ。というわけのはまいりません。
ノグチの行くとこ行くと常にマスコミがついて回ります。
「天才野口君。故郷へ錦」
こんな見出しは、もう毎日の事となっておりました。

塩竈市立第二小学校の修学旅行は会津。鶴ヶ城を見て、飯盛山を尋ね、一泊二日の旅でした。
ノグチ記念館を訪れた話はⅠで語ったところですが、あの家は、相当後に改修されております。
ノグチが会津に帰りました際には、「朽ち果てている」のが実情でした。
「このような家で出迎えるわけにはいかない」
西隣の家を、恩賞金で買い求め、そこでノグチを迎える事といたしました。
小林の計らいです。
母シカは、ここでノグチを迎えることといたします。
駅には歓迎アーチが設けられ、花火が上がります。
出迎えられた、人々と一緒に八幡神社に参拝し、その後、縁のあったところを廻り、挨拶して回ります。
ようやく、母との対面です。
正直、母シカは、時分の息子が何をして、どんな事になっているのか、その息子のおかれている立場を理解するには至っておりません。
小林からは「英世は偉くなって帰ってくる」こうした事だけは聞かされてはおりますが、「なしてえらぐなったんだべ」と言った感じです。
ですが、息子が久しぶりに自分のところへ帰って来る。これに理屈などはいりません。
ノグチにしても同じです。母親に会う為に帰る故郷です。自分が学者であろうが、そうでなかろうが関係ないのです。

「おかちゃぁぁん」と抱きついて・・・・・。
これは無かったかという事です。ですが、気持ちの中ではあり得たのではないか。これも記録から紐解くことができます。
これから語るところですが、ノグチは、母の労をねぎらう為に、京都旅行を行います。
母にしてみれば、高級旅館の日々、おいしいものを毎日食べている訳です。「なんとありがたいことか・・」そして、最後には必ず「こんな事が出来るようになるまでに偉くなってしまって」
こう思うのです。実際、この旅行中に、「早くアメリカさけえって勉強しねぐて大丈夫なんだべか」と周囲に漏らしております。
ノグチはノグチで親しい友人達には、こうも話しております。
「そうだなぁ、年を取ったら会津で暮らすのが理想だよ。尤も、大規模な研究施設でもあれば一番良いのだけれど・・」

「ヨネさんに、お前会いたくはないか?」
会津滞在中、ノグチは秘書役の石塚を伴って向滝温泉に宿を取っております。会津藩公お抱えの温泉宿で格式も高いものです。
「本当かい?」と答えたものの、ノグチには青春時代のほろ苦い思い出も過ります。
初恋の人に会える。遠く海外で暮らしているノグチにとっては、これもまた故郷を感じることの出来る思いには違い無いのです。
「ああ、おれには、ちょっとした考えがあってなぁ。まぁ任せておけ!」
翌日人と談笑している際に石塚は、こう切り出しました。
「東京から電報で電話が欲しいとのことなのだが・・」
こうして、まずは、ノグチを一人に致します。旅館で待っているノグチに、人力車でヨネを行かせる。こうした作戦でした。
ノグチは、この計略によりヨネを会う事ができます。
この事実は公式ではありませんが、記念館の記録としては残っているものです。
石塚は、ノグチがどのような会話をヨネと交わしたか、気になるところです。
すかさず「おい!どうだった?」と聞いて来ます。
「それがなぁ・・・」浮かない顔のノグチ。
「ヨネさんの一人息子なんだがね。留学の世話を頼まれた・・・断るしかないのだが・・」
ノグチは照れながらこう話しております。
ノグチは力にはなりたかったのかと、こう推察いたします。ノグチの純な気持ちは、こうして終わりとなるところですが、会津を発つ際、駅でヨネを探しているノグチがありました。後日談としてそれから十年後。知人によりヨネの消息を尋ねようとしたノグチです。ヨネへ贈り物「ハンドバッグと時計」を渡そうとしますが、これがそのまま帰ってきます。
「ご子息の学費の面倒を見ても良い」ノグチはこうした手紙も書いておりますが、それからの返事はなかった。こう伝えられております。

「連日、新聞は『ノグチ。ノグチ』ばかりではないか!」帝大、青山の部屋。
ある一人の研究員が、朝刊をさして、こう息まいております。
「まぁまぁ、君ねぇ、何をこんなに怒っているのかね?」
「だって、先生。ノグチばかりなんですよ!ノグチが、ああした、こうした・・・って・・・」
「はぁ?『ああした?』『こうした?』だと?何をしたんだね?」
「ですから、京都では、湯豆腐食べたとか、●×寺に参拝したとか・・・なのですが・・」
「おれはなぁ・・・少し哀れに思うが、お前は分らんか?」
「はぁ?これだけ、新聞を賑わかさせているノグチのどこが『憐れ』なのでしょうか・・」
「その内、奴も気づくだろう・・・」
「気づく?ノグチが、先生・・・何に?でしょうか・・・」
それには、答えることをせず、紅葉間近のキャンパスを眺めている青山でした。

ノグチは滞在中、歓迎会やら講演会をこなしながら、日本医学会の研究にも大いに興味を持ち、あちこち視察をしておりました。
恙虫病。ワイル氏病。特にこの二つはノグチのその後に大きな影響を与えております。
恙虫は新潟医専の川村麟也の研究であり、ワイル氏病は、稲田龍吉病原体発見により再び日本の細菌学が評価されている事への興味でした。九州まで出かけます。
また帰国間際に、千葉医専の伊東が、ワイル氏病菌の純粋培養に成功したというニュースに触れ、予定を変更し千葉へ向かっております。
ノグチにとっては、自身の研究を日本でも行うことが出来ないか。こうした模索を繰り返す行動でもありました。
だから・・と言う訳でも、ないのですが。彼は滞在も終わりに近づくにつれ焦燥感が溢れてまいりました。

「バカヤロー!どいつもこいつも馬鹿にしやがって!」
「ドクター、ドクターノグチ。他のお客様もいらっしゃる事ですから、そのぅ・・・お静かに・・願えませんか」
十一月四日佐渡丸船内、バーカウンターでの事です。
ノグチは呑んだくれております。
ノグチの醜態をしかし、ただ眺めている石塚です。
「致し方がない・・」
「石塚さん、その、致し方ないって?」
「結局、この二か月、彼を招待した大学の公式な行事ってたった一回だけだったんだよ?」
「えっ?一回だけ?って・・・どういうことなのですか?」
「一回というのは『北里研究所』だけで、他からなんいもオファーがなかったのだよ・・」
「それはどうして・・?」
「gakurekiがないからなんだ・・」
「gakureki?」
「ああ、日本にしかない。変な制度の事なんだ・・」

ノグチがその後、日本へは一度も帰っておりません。これが、その動機になっていったのか・・こう推察しているのは、くだまきだけではないのです・・。

アメリカでのノグチ。
この時期のノグチが一番彼らしくない?のかもしれません。
日本を跡にする事が描かれている本は多数ありますが、日本を出た後、すぐに話はエクアドルへ飛びますのが、普通です。
南米の黄熱病研究の為です。しかし、彼が南米へ旅立つまでには、まだ時間が掛かります。
アメリカ帰国が1915年。ノグチが南米へ向かうのが、1918年8月。
この間の彼の生が「彼らしくない」とこう表現した「くだまき」なのです。
ニューヨーク、セントラルパーク近く、98番街。アパートの三階にこぎれいな新居を構えます。
メアリーは、研究所も認める正式な妻となっております。
愛犬も一匹。
メアリーは彼の持ち物を吟味して持たせ。スーツ姿にステッキと鞄を持つという出で立ち。
朝食後、出勤。新聞屋へたちより靴磨きをさせながら朝刊を読む。という習慣になっております。
「らしくない」といたしました。
ノグチもこうした生活を望んでいたに違いないのです。
こうした生活は案外長く続きます。

ノグチを尋ねて多くの日本人がやってまいります。
彼らの動機はこう「アメリカに来たのだからノグチ博士と記念撮影でも」なのです。
これには辟易しております。
ノグチも自分の仕事に没頭できないもどかしさもありました。
やってくる日本人には、全て英語で会話する事にいたします。そうすることで大概の日本人はノグチの愛想の悪さを口走りながら、帰って行くのでした。
これが、アメリカでのノグチの評判の悪さへ繋がります。

小泉丹(「たん」ではなくて、「まこと」と言います)は慶応大学医学部創設のメンバー。台湾で黄熱病の研究も行いますが、専門は動物学。
彼も、ノグチのロックフェラー研究所を尋ねます。
ノグチは最初から高飛車で応対します。やはり全て英語。
小泉はこう切り返します。
I am form Aizu Japane.
「何!会津?」
この一言でノグチは日本語に変わり、しかも郷里の言葉で話始めました。
ノグチの好き嫌いが激しいことを伺わせるエピソードの一コマです。
ノグチが大嫌いなのが、帝大や京大といった国費の留学生。
もうげちょんげちょんにやり込めます。
「帝大だぁ?日本でしか通用しない看板にぶら下がって、ろくな勉強もしない」はっきりこう話します。
逆に好きな人物とは?
外国で、苦しみもがきながら、自分の夢を追いかけている。そうした人物を見つけると、全てをさらけ出して助けております。
「ドクターノグチ。この日本人会で是非とも君に会わせたい人物がおるのだが?」
「まぁ、私に会いたがっている連中なんて山ほどいるのだが・・・で、誰だい?帝大生ならお断りだがね!」
「いや彼は、今コロンビア大学で、化学を学んでいる。単身で海を渡った変わり者さ!おーーい兼松!こっちだ。ノグチ博士はこっちにいるぞー」
兼松が顔を赤らめ、緊張した面持ちでノグチの前に現れます。
「か・・・か・ね・まつ!・・です!お会いできて・・・こ・・・・こうえーーーーいです!」
ノグチもその挨拶には流石に笑ってしまいます。
「君は。コロンビア?」
「メモリアル病院で昼間働いて、夜に大学で化学を勉強してます」
「ほーー!働きながら・・・」
なるほど、他の日本人よりはよりみすぼらしい恰好には違いありません。
この若き研究者の姿はどこかで自分と重なるところがある。ノグチはこう思ったのでしょう。
コロンビアへ電報を打ちます。
「休暇を取られたし。ニューヨークへ乞う」
そしてノグチは日本料理店へ彼を連れて、料理を振る舞ったのでした。
兼松は晩年、このノグチからの御馳走があまりにも美味しくて忘れられない。こうはなしております。
松江出身の画家「堀市郎」もそうした一人でした。
ノグチにしてみればエリート(尤も、この時点で自分自身もそうなのだが・・)意識の見え隠れするような輩とは付き合いたくはない。
こうした思いがあったのかと。こう推察しております。

ノグチ最大で最後の仕事「黄熱病の研究」まで、まだ時間がかかります。
彼は、その後すぐに、大病を二度も患います。

ノグチ41の歳。









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