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真理・構成的知・叡智 (高森)

2010-07-23 00:21:41 | 高森光季>スピリチュアリズム霊学
 ずいぶんなタイトルで、さぞや小難しい哲学論議かと思われるかもしれないが、幸か不幸か、小生は「哲学学者」ではないから、それほど複雑なことにはならないと思う。というか、単なる与太話に過ぎないものになると思う。

 「真理の探究」――素晴らしい言葉であるし、学問であれ宗教であれ、それは大いなる価値とされている。しかし、いったい「真理」とは何ぞや。
 まあ、哲学や論理学などの学問では、いろいろな議論がある。難しいし、頭がごんくらかるし、しかもすっきり結論が出ない。ちょっとそれはほっておく。
 一つには、真理とは「事実と合っている」という考え方がある(いわゆる「基礎付け主義」の立場)。まあ確かに事実と合わないものを真理とは呼ばないだろう。
 水は一〇〇度で沸騰し、〇度で氷結する(条件付きね)。光は重力で曲がる。これは事実と合っている命題である。一般的な「科学的真理」とはこういうものの集合体のようである。
 しかし、数学的真理というものは、どうもそういうものではないらしい。数学は元になる取り決めを決める。公理である。その公理にあったものは真理となるが、これはしばしば「事実とは関係ない」。虚数なんかはどこにも「対応する事実」がない。高度な数学問題の解になると、世界で数人しか真偽が判断できないというものもあるらしい(どうやって判断できるのか門外漢にはさっぱりわからないが)。
 要するに、「事実と合っている」がゆえの真理と、「ある体系の中で整合性を持つ」真理とがあるわけだ。

 だけど、こういうものを真理というのだろうか。「真理の探究」というのは、こういう命題を探し出すことだろうか。「真理を知った人」というのは、水の沸点と凝固点を知った人とか、フェルマーの何たらを知った人のことなのだろうか。
 どうも違うよね。
 もちろん、「真理」という言葉をどう定義するかが問題なので、それなしに真理とは何かを論じることはできない。しかし、哲学なぞを瞥見すると、これ、どうもみんなばらばらで、定義不能らしい。それじゃあ論じられない。「真理論」は不可能。

 それだと終わってしまうから、先に進むために、ぬけぬけとずさんな言い方をする。
 要するに、どうも世の中には、ものすごくたくさんの「部分的な真理」がある。物質を分析してそこから導かれる真理、数学などの公理に基礎づけられた真理。さらには、ある学問の中で、多数者の経験から真実と支持されるもの(経済学のインフレの原因論とか、心理学の無意識論とか。まあかなりあやしいものもあるが)。

 部分的な真理は重要だし、価値がある。それがなければ車も走らないし飛行機も飛ばない。経済政策も心理療法もできない(できていない!という人もいるが)。
 部分での、限定された範囲での「真理」は存在する。これは「まあ、そりゃそうだろ」と思う人が多いのではないか。いや、部分的な真理なぞはない、真理というのは普遍的、すべてを包括しうるものであるはずだ、という人もいるのかもしれないが、それをやるとまた「定義問題」になるからほっておく。

 ところが、部分的真理は、それぞればらばらで無関係であったり、時には衝突することもある。電磁場の理論と重力場の理論は別個に存在し、今のところ統一できない。光速を超えるものはないとする命題と素粒子論の相補性の原理は、矛盾する。
 科学的真理もまた部分的真理である。だから、それとは無関係な真理、それと衝突する真理もある。だから唯物論は真理ではないし、態度としても間違いである。物質的真理は部分的な真理でしかなく、すべてを包括しうるものではない(包括しうると証明できない)。

      *      *      *

 で、それぞれ関係なかったり、矛盾するような真理が、たくさんある。われわれはどうすればよいのか。
 それらをすべて包括して成立する、「絶対的な真理」を求めるのか。
 そういうものがあるのかどうかはわかっていないし、あったとしても人間の知がそれを捉えられるかはかなり疑問。バケツの中に太平洋は入らない。
 そのかわり、われわれは「構成的な知」をつむぐ。
 構成的な知とは、別々の、まったく関係なかったり矛盾したりする部分的真理=知を、そのままふんわりと包み込みながら作られる、いっぷう変わった知である。ふんわり包み込むというのは、それぞれを分解して吸収する(要するに還元する)のではなく、それぞれをそのまま成立させながら、より応用性の広い、というか守備範囲の広い、妥当な判断を作り上げるということ。
 なんかわけのわからないことを言っていると思われるかもしれないけれども、何のことはない、実はわれわれはこの「構成的な知」を使いながら生きている。人間は量子力学や深層心理学一本で生きているわけではないし、それで生きられるほど人生は甘くない。
 「頭を使え」とよく言われるけれども、それは、一箇の対象を厳密に分析したり、数式や論理式を書いたりすることではない。関係する様々な要素を見きわめ、そこからしかるべき判断を出すということである。
 たとえば飲食店経営者だったら、その日の天候、客層、社会の出来事などが、何が売れるかに関係する。暑ければ冷やしものが売れるし、雨だったら客は少ないし、午前中は高齢者が多いし、丑の日だったらウナギが売れる。どれだけ関連する要素を網羅し、それらを総合し、品切れや余り物のないメニューを作るか。それが頭を使うということであり、ここでつむがれる判断が「構成的な知」なのである。
 こうした知は、時には経験則として断片的に語られる時もあるが、多くは言語化できないし、的確に伝達することも難しい(ポランニーの言う暗黙知の一種と言えるだろう)。職人の勘とかベテランの知恵といったものはこういうものである。
 世の中には、「あいつは勉強ができるから頭がいい」という言い方も、「あいつは勉強ができるけど頭が悪い」という言い方もある。「何でも知っている馬鹿がいる」という言い方もある。
 勉強ができるというのは、記憶力の問題もあるが、要するに、部分的な知の扱いがうまいということである。物理ができる、哲学ができる、古文ができる、みな限定的な分野の法則を的確につかみ、それを操作できるということである。それができることを頭がいいとする考え方もあるが、限定された知ばかりで、総合的な判断、つまり「構成的な知」をつむぐことができないと、頭が悪いと言われることもある。その分野のことは驚異的な知識を持っているのに、日常生活・社会生活はめちゃくちゃという人もいるが、それは日常生活・社会生活に必要な「構成的知」をつむげない人である。
 ただ、こういう構成的知は、真偽判断が確定できない。部分的知は限定領域のものだから判定要素が限られており、真偽判定は可能だろうが、構成的知というのは、何を包み込んでいるかがまちまちだし、そもそも明確な言語として確定表現しにくいのだから、真偽の白黒がつけにくい。妥当性が高いか、あやしいか、といった曖昧な判定しかできないだろうし、その判定の妥当性もまた不明確である。
 そんなわけのわからないものを持ち出しても意味はないと言われるかもしれないけれども、そう言う人は、だいたい部分的真理ばかり追いかける視野狭窄タイプである。
 なぜそんなわけのわからないものをことさら言い立てるかというと、「賢者」とは、この「構成的知」に秀でた人間のことを言うからである。
 賢者は専門秀才ではない。部分的真理をたくさん把握し、それぞれをしかるべき仕方で位置づけたり関連づけたりして、より広汎な妥当性を持った絵図を描ける、ということである。
 理想的に言えば、歴史を知り、心理学を知り、物質科学を知り、哲学を知り、医学・生理学を知り、霊学を知り(笑い)、中略、さらに現実のどろどろ(いろいろな要素が複合したカオス)を知り、それらを総合した知を持てる人である。そんなのは無理、というのは当然だろう。しかし、すべてを一元的に説明できるものが真理であると主張する人がいるわけで、そういう人はそれらが一元統合できると思っているのだからもっと脳天気ということでもある。
 だから、一般教養というものを馬鹿にするものではないのであって、そんなものが何の役に立つかという人がいるが、人間が生きていく上でも、賢者を作る意味でも、構成的知は必要なのであって、それを鍛錬するには、広くいろいろな真理を知ることは重要なはずである(まあ大学の一般教養でそれが鍛錬できるかどうかは別だが)。

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 で、この賢者の優れた「構成的知」が、宗教的な文脈でよく言われる「叡智」である。(よい言葉の意味での「知恵」でもいいかもしれない。)それは、最も壮大で洗練された構成知である。
 そんな言葉は宗教の中にあるだけで、近代学問にはない、と言うかもしれない。まあ、それは当然で、明確に固定できないものだし、真偽判断できないものだから、学問の対象にはならない。ならないからと言って存在しないわけではない。
 ブッダはさとりを開いて叡智を獲得し、八正道を実践すれば輪廻の苦から逃れると言った。その後の仏教も叡智を言い立てた。前にも述べたように、この叡智は、「四諦」とか「十二因縁」といった、明確な命題ではない。人間はどうして輪廻するのか、その輪廻を逃れるにはどうするかという、厖大な内容の構成的知である。
 だから、叡智は専門学問の中にはない。特定の宗派の教学や神学の中にもない。そうした学問は限定された枠の中の知でしかないからである。他の学問分野を無視ないし排除したところで成立した知は、「小知恵」であることはあっても、叡智にはなりえない。物質科学や諸学問を否定した神学や教学は、宗教がめざす叡智とはほど遠く、さらに悪いことに、しばしば「現実と合っている」わけでもなく、「枠内での整合性」すら危うい(教学や神学はたくさんの矛盾を抱えている)のだから、どうにもならない。繰り返して言う。叡智は専門学問の中にはない。特定の宗派の教学や神学の中にもない。
 逆に言えば、叡智を求めるなら、無関係なものや対立する真理も知るべきだということになる。専門家が一般教養を身につけるのはいいことだろうし、別に真理は学問の中にだけあるわけではないから、様々な現実を体験することも必要なことだろう。よく言われることで、善しか知らずに善を行なう人間よりは悪も知って善を行なう人間の方が偉大、というのがある。偉大というのは語弊があるだろうが、叡智という点から見れば、確かにその通りかもしれない。

 しかし、叡智は明確に言表できないし、真偽判断が困難だから、叡智と凡庸・低俗な構成的知とはどうやって見分けるのか、と言われるだろう。困りましたね。まあ、どれだけ多くの真理をその中に包み込んでいるか、そしてそれらを適切に位置づけているか……。そんなことを言っても仕方がないか。
 イエスはあっけらかんと言った。「知恵はその実によって正しさが証明される」(マタイ11:19)。よい叡智はよい行ないや言葉を生み、それは人をよいものへと導く。まあ、そういってもまだ曖昧だけど。
 でも、叡智は存在する。しかも部分的真理よりも高尚なものとして。そして叡智を持つためには、多様な知や現実を総合して、構成的知を鍛えていくしかない。

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 余談。(というかどうも当初はこっちを言いたかったようなのだが、何だかわからなくなった。)
 われわれは「スピリチュアリズム霊学」ということをおずおずと掲げている(めざしている)わけだが(本当はこんな言葉はないし、同語反復で長々しいおかしな言葉だが、まあ、要するに近代スピリチュアリズムとその関連領域の知見から得られた霊的情報の総合ということで仮にこう言ってみているだけの話)、この霊学は、そもそも構成的知に近いものである。
 霊的現象や情報は、非常に量が限られており、あちこちばらばらで生まれる。真偽自体が曖昧なものもある。検証実験もなかなかできない。しかし、ばらばらで少ない記録や情報や体験をつなぎ合わせ、さらに古来の様々な宗教に関連するこれもばらばらな現象や情報をも加味していくと、ある種の体系的な知見が出来上がる。これは構成的な知の作業である。もちろん限界があるし、それぞれの見方によって見解が異なるところもあるが、それは構成的知の必然であるし、経済学や心理学と同程度の信頼性はあるのではないかと思う。
 そして、スピリチュアリズム霊学は、諸学と同じように、部分的真理にとどまる。まあ、スピリチュアリストの中には特定の霊言を絶対視し、それをすべてに超越する真理だとする信仰者もいるが、スピリチュアリズム霊学がめざしているのはそういうことではない。特定の霊言の絶対視は、生き方として、あるいは古典的宗教的言説としては成立するだろうが、公共の知や言論として、その立場はちょっと無理である。
 むしろスピリチュアリズム霊学は学として部分的真理にとどまるべきであろう。諸自然科学も諸社会科学も諸人間科学も、部分的真理であり、霊学もそれと同じ。そう自己限定するのが妥当だろう。(まあ否定的立場の人からはそんなものですらないだろうと嘲笑・爆笑されるだろうけれども。ただそういう人は経済学や心理学にはどういう態度を取るのですかね。)スピリチュアリズム霊学を絶対視し、政治学や心理学やその他の知はそれに還元されるべきだとするのは傲慢である。
 で、賢者がめざすのは、スピリチュアリズム霊学やほかの部分的真理を構成的に捉え、叡智を求めていくことである。霊信を絶対視したり超常現象に振り回されるのは、叡智とはほど遠く、賢者の道ではない。

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