スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

宗教者とボランティア

2011-03-19 20:01:26 | 高森光季>その他
 別記事で真言坊主様より仏教者とボランティアに関してのレスがありましたので、それに触発されてちょっと一私見を書いてみたいと思います。もう少し後でと思ったのですけど、どうも書いておきたいという欲求が生じてしまったので、いささか乱暴なところ、混乱したところもあるかもしれませんが、書いてみます。

 まずは外野からの愚見。

 《僧侶のなかにもすぐ手助けだ救済だというようにボランティアを促進する方がおられます。そのような活動によって仏教の公益性を世間にもアピールしたいという狙いがあるのですが、ただしそればかりに終始するのではなく、僧侶として「祈る」「拝む」ことも忘れないで頂きたい。》

 これは正論ではないかと思います。ただし、祈るということがどういうことなのか知っていて、その力を確信している宗教ならば、ではないでしょうか。
 祈りには二つの解釈があると思います。一つは、高位の霊的存在(仏菩薩や神や天使や神霊や祖霊)へ訴え、その働きを懇請するということ。もう一つは、祈りとして強められた「思念」自体にパワーがあるからそれが役立つということ。どちらも正しいのではないかと思います。
 ごく一般的な仏教解釈だと、「仏様(内容不明)に祈り、慈悲を懇請する」のは仏教徒のごく当たり前な営みだということになるでしょうけれども、これは「高位の霊的存在」が実在するという確信なくては成立しないはずです。
 密教は(たぶん)様々な高位の霊的存在を認めていて、そういう方々との交渉を重視する立場でしょうから、「祈る」「拝む」は最重要のことになるように思います。
 禅はどうでしょうか。このあたり曖昧ですが、あまり「高位の霊的存在の実在」を言わない、へたをすると(という言い方は失礼ですが)、「神も仏も私も実在しない」みたいなことになって、そうなると「祈り(祈祷)なぞは無意味」ということになりかねはしないか(曹洞宗などは歴史的に葬送儀礼=祈祷によって勢力を伸ばしたはずですけど、近代の曹洞宗宗学は……)。
 浄土教はどうか。どうもいろいろな教学があってわかりにくいのですけど、阿弥陀如来への懇請とか「往相回向」といった教学はあるようですが、親鸞なんかだと「末法の衆生は功徳なんか積めないからひたすら弥陀の慈悲にすがるよりない」みたいな感じ(曖昧で失礼)で、人のために祈るよりも、人に念仏を勧めるのが救済、みたいになっているような……
 さらに、「近代仏教学」はどうか。前から批判をしているように、そこでは仏菩薩の実在を言い立てない。そうなると、祈ることはできなくなるのではないか。
 もう一つの「祈りの思念としてのパワー」論は、仏教にあるのかどうか、ちょっとよくわかりません。
 (ちなみに、「功徳を回向する」というのが、小生は不勉強でよくわかりません。単純に考えると「自分の善行の報いを他人にあげる」ということになるのかと思いますけれども、そんなことは可能なのでしょうか。功徳を積んだ人は法力があるからその念は有効に働くというのだと、「思念パワー論」に近くなるのかななどとも思えますが。そういえば、ダスカロスの本には「人のカルマを自分が部分的に引き受けて病気になる」ということが出てきますが――それはダスカロスのような功徳を積んだ人だけができるのか、誰でもできるのか、よくわかりません――、回向と代受苦とはちょっと違うような感じがします。ご教示いただけると幸いです。)

 「高位の霊的存在」も「思念のパワー」も認めない唯物論的世界観では、祈りなぞは、個人の心身統一などの効用を除けば、無意味だということになるでしょう。そして、あけすけに言うと、唯物論的世界観にすり寄った仏教は、当人の精神的癒し以外に、祈りの意味を見いだせなくなっているのではないでしょうか。それだから、「祈祷などは無意味」「葬儀でお金をもらうのはペテン」という世俗からの批判が出て、それに反論できない居心地の悪さからボランティアに向かう(ボランティアに向かおうとするならまだましで、知らん顔の人もいるのかも……)。

 仏教徒であれ、キリスト教徒であれ、スピリチュアリストであれ、「高位の霊的存在の実在」を確信している人は、祈るのは当然でしょうし、誰が否定しようと祈りの意義を(高位の霊的存在の実在性とともに)言い立てるのが当然でしょう。

 そして、特に祈りを日頃からしている人々が、力を集めて祈ることは、「祈りのパワー」という意味でも大切なことのようです。
 マイヤーズ通信の『人間個性を超えて』から引用します。

 《もし全体が一つの心になって魂の底から祈りのことばを唱えるなら、大勢が集まってする祈りには霊的な力がある。その祈りは永遠の霊に届くばかりでなく、世の暗闇に霊感の明るい燈火を投げかけ、それが礼拝を意に介さない心の薄暗がりに灯りを点す。なぜなら、情動的で霊の吹き込まれた想念が熱烈に信念をもって発せられると、それは空間を伝播し、無分別、無自覚な心のなかに浸透する。それはあたかもそのときの音声がエーテル中を伝播して地球の最果てまでも伝わり、それを受信すべく同調した装置によって聴取されるのと変わらない。ある目的と必要から集団で全身全霊をもって祈る人々は、時満ちて豊かな収穫をもたらす種を蒔いているのである。》

      *      *      *

 もう一つ、宗教(宗教者や宗教組織)がボランティア活動をすることに対して、かねてから疑問に思っていたことがあります。ちょっとそれを書いてみます。
 宗教が、自らを(自らの公益性や優秀性を)アピールするために、慈善活動を行なうというのは、ひょっとすると間違いではないか、と思うのです。
 むしろ、慈善活動を行なうなら、徹底的に身分を隠してやるべきではないか、と。

 これはずいぶんひどい見方だと思われるかもしれません。でも、かつて(あるいは今でも)、キリスト教の宣教は、そうやって行なわれました。たとえば、パプアニューギニアへ赴いた宣教師は、片手にボートの船外モーターを、片手に聖書を持って住民たちに接しました。モーターを欲しがった住民は利益誘導によってキリスト教に改宗し、もともとの精霊信仰を「邪教」とみなすようになりました。(これは現地調査をしていた人類学者から直接聞いたことです。)
 これは意地悪く取れば、「宣伝行為」ではないでしょうか(上記の例はもっとひどく言えば「文化的侵略行為」かもしれません)。
 もちろん、宗教の宣布者は、「自分たちの宗教は素晴らしいから、多くの人を救える、だから広めなければ」という意志だったのかもしれません。でも、それは容易に「宣伝」「侵略」になる。
 こうした批判は、私だけが唱えているのではありません。あのマザー・テレサの営みについて、「あれはキリスト教の宣伝行為だ」「宗教色を抑えるべきではないか」という批判をしている人たちもいます。その批判が不当だとか的外れだとかは私には思えないのです。

 この話は、「善行・奉仕とは」という非常に大きな問題になってしまうので、今はそこまで深入りしませんが、少なくとも言えることは、善行・奉仕は、それ自体を第一義とすべきで、それによって得られるもの――社会的評価、宣伝効果はもちろん、自己の喜びや自己成長や救済を得ようとする意図すら――はできるだけ注意深く排除・抑制すべきではないかと思うのです(たぶんとても難しいことだと思いますが)。ましてや、社会的評価や宣伝効果のために善行・奉仕をするなどというのは、本末転倒ではないかと。
 それに、宗教に対してかなり拒否感を持っている現代人たちは、宗教が錦の御旗を立てて慈善をやっても、警戒するだけでしょう。葬儀の場で同情的にすり寄ってきた人が宗教組織人で、その後、ひどいことになった、というような話はよく流布されています(どの程度真実か、どのくらい多いのかは保留するにしても)。
 宗教名や教義を一切言わず、聞かれても答えず、善行や奉仕を受けた人がよくよく調べたらそうだったとわかる、というのが、一番理想的ではないかなと思うのです。いや、あるいはずっとわからない方がいいのかもしれません。
 前にも書きましたが、イエスさんの言葉に、こんなのがあります。
 「人に見せびらかして施しをするな。見せびらかして称賛されたら、そこで報いを受けてしまい、神からの報いはない。施しをする時には右の手がしていることを左の手が知らないようにしろ。人に見せびらかして祈るな。祭司連中のようにこれみよがしに祈ると、そこで報いを受けてしまう。祈る時には奥の部屋に入り、戸を閉めてから祈れ。」(マタイ6:1-6)
 「宴会をやりたいのなら、友人や兄弟や親族や金持ちの隣人を呼ぶな。彼らはお返しの招待をするだろうからだ。宴会をやるのなら、貧しい者、足の不自由な者、盲人たちを招きなさい。そうすれば、彼らはお返しができないから、あなたは幸いだ。」(ルカ14:12-14)
 「召使いが命じられたことを行なったからといって、主人は彼に感謝するだろうか。お前たちも、命じられたことすべてを行なった時は、『わたしたちは取るに足りない召使いです。自分の義務を行なったまでです』と言いなさい。」(ルカ17:9-10)
 ――奉仕の活動をしているからと言って、神から何かご褒美をもらえるなどとは考えるな、そこで報われたらそれで「チャラ」だぞ、と。ましてや信仰して現世利益を得ようなどというのは、お話にならない。信仰は現世のためにあるのではない。――

 もちろん、上記は過激な意見です。なかなかそういうわけには行かない。あんまりきりきり考えると、何もできなくなってしまう。ただ、宗教の慈善活動には、こういう危険性があるということは考えておくべきではないかと思うのです。

      *      *      *

 こういう反論もあるでしょう。宗教の説いている叡智は人を救うのだから、それを知らしめようとするのは、愛・慈悲の行為だ、と。
 確かにどんな宗教も、そうやって宣教をしてきました。前に話題になりましたが、仏教の慈悲も、「仏教の叡智を教えることが救いであり慈悲だ」と捉えてきたように思われます。キリスト教はもっと傲岸不遜で、「キリストを知らないと救われないから教えてあげないと」ということで、まあ、白人の自民族優位主義、世界制覇主義とも重なって、相当あつかましいことをしてきたし、時には帝国主義の片棒も担いだ。これも前にちらりと書いたことですが、「キリスト教は愛と奉仕の宗教だ」というのは近代になって声高に言われた宣伝で、歴史的な実態としてどれだけそうだったのかはかなり疑問ではないかと私は個人的に思っているのです。まあ、このあたりはもっときちんと勉強してみないといけませんが。
 確かに、叡智(知識や情報も含まれるでしょう)や超越とのつながり方を教えることは、かつては「愛・慈悲」の行為だったのかもしれません。パプア・ニューギニアの原住民を「劣った土人」と見て、よりよい生活方法や「神とのつながり方」を教えた宣教師は、自分は愛を実践しているのであって、文化侵略などをしているのではない、と思っていたでしょう。
 そのあたりは、近代以前と以後では、捉え方が異なるのかもしれません。まあ、われわれの目で見てそれを「文化侵略」「支配・収奪」と一面的に非難するのは不当であって、「よきもの」を与えることが愛・慈悲であったと言えるのかもしれません。
 近代になると、「教育」という概念が誕生しました。知識や情報を教えるのは、教育の役割であって、宗教の役割ではない。そしてそれは愛や慈悲とは関係ない(社会による社会構成員に対する「愛」なのかもしれませんが、そういう言い方はせず功利的な表現が用いられます)。変な言い方に思われるかもしれませんが、教育が宗教から独立したということは、非常に大きいことです。いいことかどうかはわかりません。今の教育は唯物論を教えているわけで、皮肉な言い方をすれば現代は現代なりの宗教教育がなされているのかもしれません。ただ、特定組織に依存していないとか自由があるとか、いい面は多いと思います。(伝統的な文化、「公共財」として宗教を概論的・中立的に教えることはあってもいいのではないか、むしろ必要なことではないかと思いますが。)
 そういうことに慣れてしまった現代人は、「教え」は愛や慈悲ではない、と受けとめます。そして、「これが真理ですよ」と言ってくる人間には、うさんくささと押しつけがましさを感じます。「知りたければ自分で学ぶよ」というわけで、「宗教は信じる人が信じるのは勝手だが、押しつけるな」「押しかけてきて説教するのはうざい」というのが多くの人たちの意見のようです。
 正直なところ、私もそういう現代人ですから、押しかけて説教されたくないし、自分もしたくない(笑い)。高級霊が「知った人は広めなさい」と言っていても、「そう言われてもなかなか難しいよね」と尻込みするところがある。これは私が実力や意気地がないせいもあるけれども、現代の状況という難しい問題もあるのではないか、と(笑い)。(もちろん霊も「押しつけてはいけませんよ」と言っています。)

 これは宗教にとってはなかなか困難な状況ですけれども、しかたがない。
 そして、「押しつけ」や「利益誘導でやっているな」と思われないようにしなければならない。
 その中で愛や慈悲を実践するなら、徹底して自己利益にならないように配慮する。いっそ名乗らないでやるのがいい。何教徒だからこういうことをしていますなどというのは誤解のもと。特定の神名なども出さない。ただ叡智や利益や助力だけを差し出す。
 まあ、だから私もできれば「スピリチュアリズムでは」みたいなことはあまり言いたくないわけです。ただ、「自分勝手な妄想を言っているわけではないですよ。一定の手続きと検討を経た上で、信憑性があると思われる、高級な超越的知性からの情報としてこういう考え方がありますよ」というのをいちいち説明するわけにはいかないので、どうしても「スピリチュアリズムでは」と言ってしまう。(まあ、どっちにしても同じかもしれませんが。)
 「いや、そんな及び腰はいやだ、これこそ真理だ、これこそ叡智だと私は声を大にして、人のところに押しかけていってでも、言いたい」という人もいるかもしれませんが、まあ、それはそれで。ただ、それはちょっと愛や慈悲の行為とずれてしまわざるを得ないよ、というところでしょうか。

      *      *      *

 最後にひとつ、ボランティア、奉仕活動の難しさについても、触れておきたいと思います。
 震災の件で、今もいろいろなところで言われているようですけれども、ボランティア活動というのは、生半可ではできるものではない、技術や力を持っていて、マナーなどを熟知していなければ、むしろ相手にとっては害になることが多い、ということです。ちょっとした同情心など迷惑千万。それよりは専門家に頼んで、経済的にそれを支援する方にまわれ、と。
 「仏教カウンセリング」といったものも最近試みられているようです。詳しいことはわかりませんので何とも言えませんけれども、心理カウンセリングをちょっとかじった身から言うと、カウンセリングというのは相当修練が必要なもので、へたにやると共倒れになることもあります。また、そのためにはきちんとした理論的枠組み(仮説であるにしても)が必要なので、単に仏教の叡智だけでは不十分の可能性も大きいように思われます。否定するつもりはありませんが。
 まあ、外野からあまり余計なことを言うのは不遜ですからやめますけれども、一つ希望を言わせてもらば、仏教寺院は静かで広い施設を持っているところが多いので、それを社会のために活用していただけないだろうか、と。京都大学のカール・ベッカーさんは、「人生の最後を病院でチューブにつながれて迎えるのはできるだけやめよう。といっても自宅は手狭なところが多い。だったら、お寺で、静かな庭を見ながら死を迎えるようにしてはどうか」という提案をしていました。まあ、最終末期の世話は大変でしょうから、そう簡単にはいかないでしょうけれども。
 私の知り合いの臨済宗寺院住職さんは、便利な立地を活用して、様々な文化活動にスペースを提供してくれていました。私たちも一時利用させてもらい、実にありがたいことでした。
 そういうところからでも社会奉仕は可能だと思います。
 もう一言、余計なことを言えば、仏教の方々は、葬儀の問題――死と霊魂の問題――をほんとにきちんと捉え直さないと、存続の危機になりかねないのではないでしょうか。この問題はまたこの問題で大きなことなので、また機会があったら書いてみたいと思います。

 ……と書いてきましたが、偉そうに聞こえたら、各位にお詫びいたします。「ろくに社会の役に立っていないくせに」と言われるかもしれませんが(笑い)、まあ、こんな考え方もありかな、と。

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7 コメント

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同感です (真言僧侶)
2011-03-19 21:58:49
中越大震災で被災した寺院の副副住職です。同時に被災地域の自治体職員です。
祈りや祈祷は、各自の「心の慰め」でしかないと思います。「集団の名前を隠して」というところは?と思いますが、僧侶であろうとなんだろうと、まず行動が大切です。ボランティアさんの力を必要とする自治体も多いと思います(今回の災害は自治体職員の多くがなくなってしまった市町村も多いのですから…。)
個人の勝手なボランティアは自治体に相当の負担がかかり、本来の活動に支障をきたしてしまいます。
今は、地域の社会福祉協議会がボランティアセンターを立ち上げます。そこでの統率されたボランティアは、被災地域にとって大きな力になります。
また、全国から集まる義援金は、今後の被災者の生活に大きな力となります。
僧侶も近隣の自治体協議して、最大限に活動することが大切だと思います。
宗教的なエゴイズムはこの際捨てて、「人のために何をするか」を考えることが大切だと思います。
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Unknown (今来学人)
2011-03-20 12:11:21
真言僧侶さまという方が投稿されているので、似たような名前を避けるため「今来学人」と改名しました。ご了承願います。

「功徳を廻向する」というのは、仰る通り、自分の善行の報いを他人にあげるという意味です。私の恩師は仏さんを拝むことで自然と功徳が積み重ねられるといいます。しかしその場合、心が籠もっていようといまいと結果(功徳)は一緒だといいます。そのあたり「思念パワー」といって良いのかどうかは微妙です。個人的には、どういう態度であれ拝んだ結果が一緒になってしまうというのは何か納得がいかず、もしこれが事実とするならば、僧侶に質なんて必要ないのかなと思ってしまいます。

 代受苦との違いについてですが、うーん。。ちゃんと調べたことないのですが、廻向は積み上げた功徳(厳密には福徳と智慧の二資糧かも)が前提になってますよね。代受苦はその功徳が前提になっているか否かがポイントかもしれませんね。代受苦は大悲をもって衆生の苦しみを抜かんと願う、というのが基本的な概念ですが、四無量心の「悲」=「抜苦」とも重なるようにも思います。四無量心との係りで言うならば、どうなんでしょうか。前提になっているか否か、それとも同時(?)。。(笑

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Unknown (今来学人)
2011-03-20 12:22:12
真言僧侶さまへ

「人のために何をするか」を考えることは
大切です。しかし祈祷や祈りを「心の慰め」
と言ってしまうとそのニュアンスのレベルは
さておき大師が唐にまで渡って我々に伝えた
密教、大師から授かった「法」を何か二義的な
扱いにしているようにも見て取れます。

私は祈祷や祈りも「人のために何をするのか」
の範疇に含まれると考えるものです。
そろそろbelief中心的な宗教観を拭い去り
ませんか。我々は近代以前、practice中心的な
スタイルがベースだったはずです。。。(泣
(beliefとpracticeの視点は磯前順一氏の著書を参考にしてます)
返信する
Unknown (高森光季)
2011-03-21 01:29:21
真言僧侶様へ

>祈りや祈祷は、各自の「心の慰め」でしかないと思います。

ええと……ということは、諸仏、諸菩薩、諸天が実在する(人の心の中にではなく、確かな実在としていらっしゃる)とは思っていらっしゃらないというふうに理解してよろしいのでしょうか。
お葬式などでの読経も、各自の「心の慰め」というふうに捉えておられるということでしょうか。
ちなみに私たちスピリチュアリストは、非常に高い霊的存在がいらっしゃって、私たちが心を込めて祈れば、その思いはそういう方々に届く(ただし願うことが実現するとは限りませんが)と考えています。(詳しくはTSLホームページ「祈りについて」http://www.k5.dion.ne.jp/~spiritlb/2-13..htmlをご参照ください。)


今来学人様へ

ご教示ありがとうございます。ご改名、どうもご苦労様です。
でも、功徳と回向、どうもすっきりわかりません(笑い)。失礼ながら、貯金してそれをばらまく、みたいで、「?」です。何がどこに積まれて、どういう方法で撒かれるのか……
そういう言葉があるのは知っていましたが、あまり真剣に考えたことがなかったです。
われわれの立場から読み換えると、道徳的な行為に励み、叡智を身につけていけば、魂は成長し、霊界からの助力も多くなる。それを(特に霊的能力を)人への奉仕に使いなさい、ということなのかな、と思いますけど、ちょっと違うようにも思えます。ううむ……
どういう態度であれ拝んだら一緒、というのだと、チベット仏教のマニ車を回すとかお経を書いた旗を風に吹かせるといったものもOKということになっていくのでしょうか(あれもよくわからないのです。コトダマ信仰?)。
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貯金してばらまく (今来学人)
2011-03-21 13:10:51
功徳と廻向の議論、もっと私も勉強せねばなりません。仏教学においてはこの手の議論はおそらく多くなされているはずです。

ご存知のとおり、密教においては仏との入我我入を目指します。一座の行法においてです。その行法の流れは基本的に、①まず仏に対する懺
悔、②仏を勧請するための壇の構築、結界(印と真言、観想による)、③仏を勧請し、仏と行者との入我我入(身・口・意の観点から)、④仏に帰って頂く、というものです。

私の印象からしてこの行法中に功徳の獲得と廻向は同時になされているように感じます。功徳を積むのは③、廻向は③と④の間かと。稼いだお金をすぐばら撒く、結局、貯金はしていないような気も(笑。密教の修法において魂は成長しているかどうか分かりません。ただし「道徳的な行為に励み、叡智を身につけていく」という考え方は仏教に連なるところです。残念なことに密教においてはそういうこと滅多に言わないのですが、それが前提とされねば入我我入なんて不可能かと思います。逆に言えば、それが前提とされているからこそ貯金することなくばら撒けるのかもしれませんね。大師は密教の境地は「十地も越える」と言いますが、果たして私自身、そんな境地で修法できているかどうか。。。。(汗。あくまで邪推ですが、先徳の解釈に遡り、検証せねばなりません。

マニ車のことは知りませんが、どちらかといえば俗信徒の易行というイメージがあります。しかし例えば大般若転読法会におけるお経をバラバラと一気にめくる作法は、それによってお経を読誦している意味合いもあると思います。そのことが結局、功徳を享受しているということにもなるのかもしれませんね。僧侶Aがその作法をしながら「あ~終わったら○○して、○○しよう」と考えているとし、一方で僧侶Bはまじめ自他の菩提を祈りながら作法をしている。稼いだお金(=功徳)が一緒ならば、ばらまき具合も一緒ということになるのでしょうか。私の師の解釈に従うならば。しかし、ちっとは私腹を肥やしたいという気持ちもあります(笑。
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Unknown (高森光季)
2011-03-21 20:14:37
今来学人様へ

ご教示ありがとうございました。
……下根のせいか、まだわかりません(笑い)m(_ _)m
もう少し勉強してみます。
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Unknown (今来学人)
2011-03-22 12:53:07
なんかうまく説明できずすんません。
言い過ぎたか、、とちと反省してます。
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