スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

助けたいという魂の衝動

2011-03-22 00:13:23 | 高森光季>その他
 大震災の現場が報道され、被害に遭わなかった私たちの心も揺れています。
 津波という大自然の猛威への恐怖、被災した人たちへの同情、波及悪影響への不安。
 そして対応の遅さへの苛立ち――行政や企業や個人への。

 苛立ちは、妥当なものとそうでないものがあります。もっと情報を的確に開示しろとか、もっと活動を効率的に統率しろ、とかいったことは、妥当な批判でしょう。でも、物資や医療の不足に関しては、いろいろと困難な状況があるのだから、仕方がないこともあるでしょう。一瞬で国家全体を戦時統制状態にしてコントロールすることはできません。もし可能だとしても、そもそも人間が一定以上の大きさの社会を完璧にコントロールすることは無理です。今の政府や東電幹部の対応は批判されるところがあると思いますが、誰かがやったら完璧になるというものでもありません。

 私たちの苛立ちの奥には、もうひとつの事情があるように思います。
 それは、多くの人が「助けたい」という心の奥からの情動を抱き、それが実現不能なことに当惑しているからではないかと思います。私もそうです。
 偽善でも何でもなく、私はできるなら助けに行きたい。多くの人もそう思っているでしょう。
 でも、できない。私は医師でも看護士でもないし、土木技術者でも電線・配管工事技術者でもないし、体力すらおぼつかない。くやしいです。
 「知るか」「助けたいなんて偽善だ」と言う人もいるでしょう。でも、その中の多くは、実は「助けたい」という情動を感じ、それをわざと(「自分がそういう人間なんだということを認めたくない」という心理的抵抗から)否定し、けなしているのではないでしょうか。
 この「助けたい、でも自分には何もできない」という葛藤が、苛立ちとなって表われている部分も多いように思います。

 「助けたい」という衝動は、魂の本質の一つです。
 われわれは皆、類魂(グループ・ソウル)の一員であり、他の一員の成長・進化に責務を負っているからです。類魂は狭く取れば数十の「仲間」ですが、拡げていけば、人類全体であり、さらに拡げれば他の生物にも及ぶかもしれません。
 だから、「助けたい」と思うことは、善人ぶることではなく、私たちの本質の一つなのだと思い、それを素直に認めればいいのだと思います。「助けたい、でもできない、そのことは苦しい」ときちんと感じ、自分や人を責めないようにするのがいいのではないかと思います。

 あの悪名高い「2ちゃんねる」の中にも、こういう記事がありました。「おまいら、どういう死に方をしたい?」というようなスレッドだったと思います(「おまいら」は「お前たち」のことですw)。その中には、「車にひかれそうになっている美少女を助けて代わりに死にたい」といった主旨の書き込みがけっこうありました。まあ、「引き籠もりオタクニート(+ロリコン)」(実際そうである人と、半分そうである人と、まったく違うのにそれを演じている人とがいるようですが)ならではの答えというか(笑い。彼らはオバハン・オッサン・老人には逆にひどく残酷です)。でも、戯画化された表現であっても、半分(以上)冗談であっても、「人のために死ぬ」ことを願っているわけです。
 人のために死ぬ、命を賭して人を助ける、というのは、甘い幼稚なヒロイズムではなく、ごく自然な魂の本質ではないでしょうか。私だって、可能ならば、必要で有効ならば、原発に突進していきたい。まじで。太平洋戦争で死んだ人たちだって、多くは「国の家族や同胞を守るため」と思って突進していったのではないでしょうか(戦争を美化するつもりではありません。ただ「彼らは洗脳されて、あるいは強制されて突進したのだ」という見方は死者への侮蔑ではないかなと思います)。

 でも、死ぬのは一瞬のこと。人を助け、支えるために何十年も苦しむというのは、ちょっと誰もが引くかもしれません。
 突然私事になりますけれども、私の母親は、養母と自分の夫を20年にわたって介護し、自分のしたいことなどほとんどできず、大して感謝されることもなく、誰かから賞賛されることもなく、自分は数ヶ月入院しただけで他界しました。私は人を助けたい・支えたいと思っても中途で挫折し罪ばかり作ってきたお粗末な人間なので、その20年の忍耐に頭が下がるばかりです。
 本当に人を助ける人は、倦まずたゆまず、力むこともなく、何十年にもわたって人(たとえ少数でも)を助ける人なのでしょう。今、周囲にもいるそういう人たちに、敬意を表します。

      *      *      *

 「助けたい」という衝動を現実化すると、そこにいろいろな問題が生じてきます。前の記事でもうだうだと書いてしまいましたが、そこに入り込んでくる、打算、自己意識などをうまく処理することは容易ではありません。きちんとした現実的配慮がなく、へたな助け方をして相手に迷惑をかけることもあります。
 だからといって、「助けたいという魂の衝動」を否定するのも、違うのではないかなと思います。「助けたい」という衝動が第一義であるのなら、まあ、多少の間違いがあっても仕方がない。人間だもの(笑い)、完璧なことはできないさ、へたなボランティアをやって迷惑がられるのも、それも人間の経験、くらいに思っているしかないでしょう。ただ、第一義がひっくり返って、売名などになってしまうと、これはやっぱりまずい。
 霊からのメッセージでは、「自己成長のために人に奉仕しなさい」というような言い方があります。「え? 自分のためにやるの?」と思われるかしれませんけど、これ、なかなか含蓄が深い表現だと思います。
 「情けは人の為ならず」というのは、もともとはどういう意味かはわかりませんが、しばしば「人によいことをしていると、いつか自分もよいことをされるよ」というような意味に使われています。これはこれで優れた世知だと思います。でも、それとは違うのですよね。
 「人のため」などと思っていると、往々にして傲慢が出る。押しつけといった間違いも起こる。「この真理をどうしても人に教えてあげなきゃ」などというのも、まあ傲慢ですよね。「子供のため」という親の思いが子供を圧迫することもある。
 「善行を積んでいれば、後にいいことがある」というのも、広く取れば我欲でしょう。「善行を積んでいればあの世の裁きが軽くなる」というのだって、敷衍すれば我欲です。
 そうではない、自己成長なんだ、と。他人に奉仕することで、我欲を抑えることを学び、共感することを学び、恋愛や家族の情とは違う愛を学び、さらにはそれぞれに違った魂の姿とその意味を学ぶ。そんなことができれば、それは現世の利益とはまったく違う、最高のご褒美ではないか、と。
 それは理想論かもしれませんけど、理想は理想としてなければいけないでしょう。

 ただ、あまりに奉仕だボランティアだと言い立てるのは、息苦しいですよね。やりたい人は素直にやればいいだけで、やらないヤツは人みたいな風潮ができるのはよくない。
 そもそもそれぞれの魂は独自の力と英知をもっているし、霊的な守護も霊的な宿命もあるのだから、人を助けるなどというのは余計なお世話、という考え方も成り立つといえば成り立ちます(この意味でも「自己成長のため」なんでしょう)。それはあまりに理に偏した考え方です。でも、助けられなかったりうまく行かなかったりした時に、こう考えて肩の力を抜くのもいいと思います。

      *      *      *

 世の中の動転も、想念界の混乱も、だいぶ収まってきたようですね。
 やれること、やりたいことを、淡々とやりましょう。
 最後に――

 どうか祈りをお願いします。
 どんな時間でもかまいません。どんな場所でもかまいません。どんな姿勢でもかまいません。
 決まった言葉もありません。仕草も儀礼も必要ありません。
 ただ、「被災されて困っている人たちに、そしてそれを助けようとしている人たちに、元気が与えられますように」というような思いを、心に念じるだけでいいです。
 そして、死後の魂を信じられる人は「亡くなった方の魂に、神様/仏様/大いなる存在(何でもいいです)の導きがありますように」というような思いを。
 具体的な内容よりも、漠然とした内容の方が効果があります。
 強く念じようとしなくてもいいです。途中で気が散ってもかまいません。長い時間である必要はありません。
 祈りは届きます。自分の利益を求めるものでない祈りは、必ず届きます。

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4 コメント

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Unknown (今来学人)
2011-03-22 12:57:16
自利即利他的な発想なのかな。。
一即一切という華厳的な思想とも係るのだろうか、と自問自答しているところです。。
返信する
今来学人さまへ (高森光季)
2011-03-22 14:35:52
自問自答のお邪魔することになるかもしれませんが。

>自利即利他的な発想なのかな。。

そうかもしれませんね。そうやって考えるとこの言葉、いい言葉ですね。昔、聞いた時は、なんかすっきりしないなと思っていたのですが、単に浅はかでした(笑い)。
ただ「利」は現世的な利(欲望の満足)ではなく、経験や叡智(真・善・美・愛を知ること)でしょうけれども。

>一即一切という華厳的な思想とも係るのだろうか、と自問自答しているところです。。

華厳は難しすぎて私などには歯が立ちませんけれども、「一即多・多即一」の考え方は、マイヤーズ通信の類魂論にもあって、意味深いものだと思います。
ただ、「一即一切」と一気にはいかないようには思います(スピリチュアリズムは段階論・階層論を教えていますので)。

マイヤーズ通信の類魂論は、「われわれの魂は類魂の一部であり、それは“本霊”において統合される」というものです。
われわれの経験(感情的経験、理性的経験)と、それによって獲得された叡智は、高次の霊界においては、類魂を構成するたくさんの魂によって共有されるようになっていく。そして類魂を統括する“本霊”は、その経験や叡智を取り込んでいくことで成長進化していく。各魂は“本霊”と別存在ではなく、その一部のような構造になっている(故・梅原伸太郎先生は「銀行の本店と支店のように考えるとわかりやすいのではないか」と言っていました)。そして、この本霊も神のみもとでは、一つの個的な存在者であり、本霊もまたより高次の世界で多の本霊と融合していく(「心霊族 psychic tribe」を構成する――銀行業界みたいなものでしょうか・笑い)。つまり「多即一」が何段階も積み重なって、最後に「神」に統合されるのであって、すぐに「一即一切」「私と神は一つ」とはならない。「私は神と一体化した」「私の中に神がある」というような言い方をスピリチュアリストはしません。そんなもん、畏れ多くて。
また、この考え方は、霊界も、ひょっとしたら神も、常に進化成長を続けるということを示唆します。神様仏様は完成された永遠不動の実体のように捉える考え方もありますが、スピリチュアリズムは、この宇宙も進化成長しているのだと捉えます。その進化成長(創造)に、われわれの魂は、ごくごく微細ながら参与しているのだ、と。
われわれは類魂の一部分であるということは、様々な認識をもたらします。「私は孤独ではない」「私の全経験・叡智は類魂のものとなる」「私の経験は無駄になることはない」「同じ類魂に属する他魂の経験・叡智もまた私を豊かにする」「私たちは霊界を豊かにすることで、神の創造に参与しているのだ」……
私の生存の第一目的は自らの霊的成長に努めるということであり、他者もまたそれぞれの責任において霊的成長に励む。その成長の成否は当人の責任であるから、われわれができることは、他者を「救う」ことではなく、他者の霊的成長を手助けすることである。その手助けは現世において自己成長を大いに促進するものとなり、また他魂の成長は霊界において共有されるからこちらの利にもなる。――
こんな感じだと思います。

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Unknown (今来学人)
2011-03-23 14:31:49
ありがとうございます。本霊の進化成長は気になるところです。そうだとれば人類はもっと精神的に進化成長しているように思えるので。スピリチュアリズムに目覚めるまではまだまだということなんでしょうか。

お時間あるときまたご教示ください!
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Unknown (高森光季)
2011-03-23 18:20:29
今来学人さま
急所を鋭く突いてきますね(笑い)。
進化の問題は大問題で、延々たるものになるので、改めて書きます。
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