飯田市の中心市街地共同ビルがまた起工された。丘の上といわれる旧飯田町の市街は、かつての賑わいはなくなり、休日にこの町を訪れても人通りは少ない。町が賑やかだったのはいつごろまでだったのだろうか。わたしはこの丘の上の突端にあった高校に通った。かれこれ30年近く前のことである。その当時の飯田の町は、休日はもちろん、平日でも人通りははげしかった。郡外から進学した高校だったので、知人はもちろんいないし、中学の同級生も学校に一人いただけであった。何度も言うが、上伊那にとっては南は後ろ、背中にあたるわけだ。だから南に向かって通学するということは、別世界へ向かうことになる。そんな高校への通学は、現在のJR、当時はまだ国鉄の飯田線であった。郊外型の開発はまだされておらず、マチといえば丘の上といわれるほど、飯田の町はマチだったのである。だから、わたしの通学路は、まさしくマチの中にあったわけである。
その後飯田市座光寺から旧上郷町にかけての国道153号線沿いに、座光寺バイパスが開通したことで出店が相次ぎ、郊外型の店舗が増え始め、丘の上の人通りは少なくなっていくのである。それと同時に圧倒的なる車社会が到来して、長野県のような農村であって山坂の多いところでは、一家に何台も車がある、という状況になっていった。もちろん、バブル期へ向かっていったわけである。さらに旧鼎町の上段にあたる殿岡地籍にアップルロードといわれるバイパスが開通すると、丘の上は閑散としたマチになってしまったわけである。
丘の上を再開発して客を呼び戻そうという動きは、もうだいぶ前からあった。そして、数年前にリンゴ庁舎といわれる建物ができ、ついでその北側にもビルができ、銀座近在の雰囲気はだいぶ変わってはきた。そして今度は堀端といわれるやはり銀座通りに面した一帯が共同店舗ビルに変わるわけである。果たしてこういった再開発が適正なのか、疑問は多い。かつてのマチを知っている者にとっては、廃れてしまったマチの姿を寂しいとは思うが、数回建てのビルばかりを作って再開発していることに、方向が違っていないかと思うのはわたしだけだろうか。
かつてとはいわない、現在も「小京都飯田」といわれる。昔ほどは言われなくなったが、なぜ言われなくなったかといえば、飯田の大火によって町の主要な部分が焼けてしまい、その後の整備で小京都の趣がなくなってしまったからともいわれる。大火による損失は大きかったといえよう。しかし、大火があったからこそ、整然とした道の広い町が復興した。そうしたイメージと、小京都のイメージを共有させながらの街づくりができなかったところに、このマチの失敗があったといえる。加えて不幸なことに、バブルに向けて、郊外型が躍進していく中で、対応ができなかったということもあるのだろう。県内には再開発によってよい整備がされている例がある。松本市である。駅前から松本城にかけての町づくりは、それぞれの特徴を生かしながら整備が行なわれた。そうした事例をみるにつけ、飯田という小京都ならではの整備ができなかったのかと、残念でならない。数年前、リンゴ並木があった通りを歩行者優先に改修たりしたが、その近在にこうした共同ビルが建てられていて、ちぐはぐな印象は否めない。
その後飯田市座光寺から旧上郷町にかけての国道153号線沿いに、座光寺バイパスが開通したことで出店が相次ぎ、郊外型の店舗が増え始め、丘の上の人通りは少なくなっていくのである。それと同時に圧倒的なる車社会が到来して、長野県のような農村であって山坂の多いところでは、一家に何台も車がある、という状況になっていった。もちろん、バブル期へ向かっていったわけである。さらに旧鼎町の上段にあたる殿岡地籍にアップルロードといわれるバイパスが開通すると、丘の上は閑散としたマチになってしまったわけである。
丘の上を再開発して客を呼び戻そうという動きは、もうだいぶ前からあった。そして、数年前にリンゴ庁舎といわれる建物ができ、ついでその北側にもビルができ、銀座近在の雰囲気はだいぶ変わってはきた。そして今度は堀端といわれるやはり銀座通りに面した一帯が共同店舗ビルに変わるわけである。果たしてこういった再開発が適正なのか、疑問は多い。かつてのマチを知っている者にとっては、廃れてしまったマチの姿を寂しいとは思うが、数回建てのビルばかりを作って再開発していることに、方向が違っていないかと思うのはわたしだけだろうか。
かつてとはいわない、現在も「小京都飯田」といわれる。昔ほどは言われなくなったが、なぜ言われなくなったかといえば、飯田の大火によって町の主要な部分が焼けてしまい、その後の整備で小京都の趣がなくなってしまったからともいわれる。大火による損失は大きかったといえよう。しかし、大火があったからこそ、整然とした道の広い町が復興した。そうしたイメージと、小京都のイメージを共有させながらの街づくりができなかったところに、このマチの失敗があったといえる。加えて不幸なことに、バブルに向けて、郊外型が躍進していく中で、対応ができなかったということもあるのだろう。県内には再開発によってよい整備がされている例がある。松本市である。駅前から松本城にかけての町づくりは、それぞれの特徴を生かしながら整備が行なわれた。そうした事例をみるにつけ、飯田という小京都ならではの整備ができなかったのかと、残念でならない。数年前、リンゴ並木があった通りを歩行者優先に改修たりしたが、その近在にこうした共同ビルが建てられていて、ちぐはぐな印象は否めない。