Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

飯田のマチの再開発

2006-03-16 08:05:30 | ひとから学ぶ
 飯田市の中心市街地共同ビルがまた起工された。丘の上といわれる旧飯田町の市街は、かつての賑わいはなくなり、休日にこの町を訪れても人通りは少ない。町が賑やかだったのはいつごろまでだったのだろうか。わたしはこの丘の上の突端にあった高校に通った。かれこれ30年近く前のことである。その当時の飯田の町は、休日はもちろん、平日でも人通りははげしかった。郡外から進学した高校だったので、知人はもちろんいないし、中学の同級生も学校に一人いただけであった。何度も言うが、上伊那にとっては南は後ろ、背中にあたるわけだ。だから南に向かって通学するということは、別世界へ向かうことになる。そんな高校への通学は、現在のJR、当時はまだ国鉄の飯田線であった。郊外型の開発はまだされておらず、マチといえば丘の上といわれるほど、飯田の町はマチだったのである。だから、わたしの通学路は、まさしくマチの中にあったわけである。

 その後飯田市座光寺から旧上郷町にかけての国道153号線沿いに、座光寺バイパスが開通したことで出店が相次ぎ、郊外型の店舗が増え始め、丘の上の人通りは少なくなっていくのである。それと同時に圧倒的なる車社会が到来して、長野県のような農村であって山坂の多いところでは、一家に何台も車がある、という状況になっていった。もちろん、バブル期へ向かっていったわけである。さらに旧鼎町の上段にあたる殿岡地籍にアップルロードといわれるバイパスが開通すると、丘の上は閑散としたマチになってしまったわけである。

 丘の上を再開発して客を呼び戻そうという動きは、もうだいぶ前からあった。そして、数年前にリンゴ庁舎といわれる建物ができ、ついでその北側にもビルができ、銀座近在の雰囲気はだいぶ変わってはきた。そして今度は堀端といわれるやはり銀座通りに面した一帯が共同店舗ビルに変わるわけである。果たしてこういった再開発が適正なのか、疑問は多い。かつてのマチを知っている者にとっては、廃れてしまったマチの姿を寂しいとは思うが、数回建てのビルばかりを作って再開発していることに、方向が違っていないかと思うのはわたしだけだろうか。

 かつてとはいわない、現在も「小京都飯田」といわれる。昔ほどは言われなくなったが、なぜ言われなくなったかといえば、飯田の大火によって町の主要な部分が焼けてしまい、その後の整備で小京都の趣がなくなってしまったからともいわれる。大火による損失は大きかったといえよう。しかし、大火があったからこそ、整然とした道の広い町が復興した。そうしたイメージと、小京都のイメージを共有させながらの街づくりができなかったところに、このマチの失敗があったといえる。加えて不幸なことに、バブルに向けて、郊外型が躍進していく中で、対応ができなかったということもあるのだろう。県内には再開発によってよい整備がされている例がある。松本市である。駅前から松本城にかけての町づくりは、それぞれの特徴を生かしながら整備が行なわれた。そうした事例をみるにつけ、飯田という小京都ならではの整備ができなかったのかと、残念でならない。数年前、リンゴ並木があった通りを歩行者優先に改修たりしたが、その近在にこうした共同ビルが建てられていて、ちぐはぐな印象は否めない。
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また1年の一人暮らし

2006-03-15 08:14:05 | つぶやき
 一昨日は転勤の内示があった。内心喜ぶ人もいれば悲しむ人もいる。転勤とはそんなものだ。ある程度平等な転勤なら仕方ないと思うものだが、わたしの会社の転勤は平等とはいえない。まさに県庁のある長野中心主義だから、採用バランスが悪い。いや、悪かったといった方がよいのだろう。もってあと5年、といわれるほど会社の先はない。だから最近は採用もほとんどない。ほとんどが役職である。役職なんてなくせばよいのに、対面なのかあるいはお客さんの顔色伺いなのか、なかなか昔を抜け出せない。そんな環境での内示であった。内示があったといって、夕方会社内で飲み会をする輩もいた。喜んでいる人だけじゃないんだから飲みたいやつは外で飲めばよいのに、わざわざ目立つように内部でやる。まさしく、自分のことばっかり考えているやつらの集まりなのだ。

 わたしは地元の事務所で嫌われて外に出されたから、出身者がたくさんいる長野にわざわざ南の端の方からやってきている。紅一点というか、県庁から遠く離れた田舎もの一点といったところだ。2年過ぎて、そろそろここも追い出されるくらいなったから、期待していたが異動なしだった。昨年も「こんな暮らしがまた1年始まるんだ」と思ったが、また同じことの繰り返しだ。ここ15年くらいをみてみると、約半分が単身生活である。よく「単身赴任なんてうらやましいね」なんていうことを言う人がいるが、「勝手なことを言うな」と内心は思っている。それほど負担は大きい。単身赴任手当といって3万を欠けるほどの手当はあるが、光熱費と自宅までの車の燃料費でなくなり、加えて寮費がかかる。ちょっとした負担じゃないかとも思えるが、片道150キロほどの道を普通に走れば、約3時間半近くかかる。それを解消するには有料道路を走るしかない。すべて高速を走ると3500円かかる。往復7千円で、1カ月4週あったら3万円近くかかる。それを節約するために短く乗ってETC割引を利用するが、それでも1カ月1万円くらいかけている。さらなる出費を少なくするために、自ら弁当を作る。食べるものも家で採れた野菜で済ませる。そうでもしなければ自宅通勤者に等しくなれない。

 以前いた事務所には、地元でもないのにここ15年間のうちの12年間をそこで留まっている人がいる。その人でなくてはならない仕事をしているとかいうのならわかるが、留まっているうちに子どもたちがそこを出たくなくなってずっといる。そんな理由でよそ者が地元の人たちを追い出して居座っているのだからかなわない。長くいるから様子もわかる。精神的にも楽だ。同じところに長くいてもかまわないが、地元の者でもないのにそこにいられるということ、加えて仕事面でも楽をしている、そんな不平等が会社にいる間中つきまとう。運の悪いやつはずっと悪い。それも自分の役割だと思って解釈しているが、それでもそれのどこが悪いみたいな顔をされると殴りたくなる。「夏タイヤで雪道を走る」でも書いたが、月曜日の朝に長い距離を移動するという精神的負担も大きい。だいぶ前に「人生の駆け引き」で書いたが、いつ事故であの世に行くとも限らない。会社があともって5年ならもう二度と地元には戻れない。わが社の片たたきからいくと、つぶれなくてもいられるのはあと10年である。地元には同年代の同僚が何人もいる。そう考えると、地元の事務所もとてつもなく遠い。
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獣害を防ぐための生態調査

2006-03-14 08:05:51 | 自然から学ぶ
 「食害対策」で『伊那谷自然友の会報』の123号の記事について触れたが、同号では獣害についてほかにも触れている。「獣害を防ぐための生態調査の現場から」では、仕事として獣害に対する生態調査を行なっている方の意見が載っている。

 農業被害のために生態調査をしていると、「そんな調査はどうでもいいから、被害をなんとかしてくれ」などという切実な訴えにあう。しかし、現実的には生態がわかっていないから、調査しなければ何も解決できそうもない。だから調査の必要性を説く。サルに対しての有効策ができたからといって、クマも同様ではない。動物ごとそれぞれ違う。それもわかっている。そして、調査をして生態がある程度わかって策を講じたからといって万全ではない。動物だっていろいろ考える。農家だけではなく、それも被害を被る林縁部だけのものだと思わず、地域全体で理解を示さなければ防げないという。さらには、動物が好きで仕事にしたが、被害をみれば見るほどに内心は複雑だという。過疎化などの農山村問題が絡み合っている問題に、個人として寄与できることはわずかかもしれないが、なんとかせざるを得ないというのが気持ちのようだ。

 生態を調査したからといって、相手も変化する。これほどいろいろ言われながらにして、そして専門分野の先生方がとりあげながらにして、つまるところ解決の糸口すら見えていない問題。かつて山間部にも多くの人が住んでいたのに、そこはどんどん人がいなくなり、動物にとっては活動しやすくなった。加えて、山を多様に利用していたのに、山へ入る人もいなくなり、利用度も減った。人の減少は、林縁をしだいに広げることになる。けして廃村とならなくても、人が減って動物が多くなれば、作物を狙われても対応のしようがない。耕地であっても動物たちにとっては活動の空間となる。手間暇のかかる生態調査がどれほど有効なのかわからない。しかし、動物の行動を把握できない以上何もできない。どうすればよいのか。多くの被害者たちが、農業をあきらめかけている。

 いっぽうで農村環境を保全しようと、開発予定区域の生態調査が行なわれたりしている。そこにどれだけの意味があるのか、かねてから疑問だと思っている。それは、希少価値のある生物を保護しようとしているだけで、その程度の生存把握は、専門家にとってはさして難しいことではないし、すでにある程度の把握はされている。それを希少外の動植物も含めて調査する意味がどれほどあるのかまったくわからない。もっといえば、冒頭の獣害をなくすためにどうすればよいのか、そしてそのために生態調査が必要だというのなら、もっとそういうことのために経費をかけていかなくてはいけないのではないか。思うに、ささやかな獣害対策の調査がされたとしても、生態がわかったころにはまた違う問題を抱えているような気がしてならない。

 今より人口も少なかった時代に、動物とどう人間はかかわっていたのか、意外にも語られていない。いや、語られることはないから、文献などで調べるしか方法はない。もう少し多分野の人たちが、この問題を検討する必要がないのだろうか。文献に見る動物と人というような部分を知りたい。
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越村通学

2006-03-13 08:08:57 | ひとから学ぶ
 一昨日の信濃毎日新聞南信地方版に、長距離の通学は大変だから越村通学をさせてほしいという陳情に対して、村会が不採択したという記事があった。場所は天龍村向方と大河内というところで、かつては神原村といわれていた地域である。それらの地域に隣接して小さな集落もあるが、子どもはいないくらい人口減となっている。天龍村の中心部である平岡は、村の北端にある。旧南信濃村や阿南町に隣接していて、そこから南へ向かって天竜川沿いに村は展開している。南北方向には天竜川に沿ってJR飯田線が走っていて、駅もあって通学は可能だ。しかし、西南に位置する両地域は、車による通学しかありえない。もちろん村でスクールバスを出しているのだから、金銭的負担はないが、遠距離であるということ、そして村へ通じる道が狭いということが、時間がかかったりして体力的、精神負担となる。すぐ隣接したところに阿南町新野があり、そこには小学校も中学校もある。しかし、生徒の減少という状況はどこも同じで、阿南町では町にふたつある中学の統合問題がのぼっている。もちろん新野にある第二中学は、町の中心部にある中学への統合対象となる。そんなこともあって、新野の人々にとっては、隣接する町外の子どもたちが通ってくれればありがたい話である。

 妻の父は、天竜中学にいたことがあった。この神原の子どもたちはもちろん、鉄道沿いの南端の集落の子どもたちも、当時は村の中心部で寮に入っていたという。同じ村の内だというのに寮生活なのである。今では車があたりまえのように利用されるようになって、寮生活をするなどということはないが、それほど地形環境は不便な通学形態を生んでいたのである。当然のごとく、高校に進学すると飯田の町に入寮したわけである。阿南町にある阿南高校は、まさしく地域にあって、地域の子どもたちが通いやすいために設立されたわけである。有名人の少ない長野県ではあるが、数少ない有名人のひとり、峰竜太はこの高校の出身である。

 さて、村会が不採択というのもわかる。村全体でも子どもの数が少ない。その学校ですら複式学級になりかねない状態であるという。村の状況は少子化というよりも、人がいないということが最も課題となっている。人口千人代というところまできている。単に一村だけでは対応できない状況といえるだろう。しかし、そんな小さな村に人が手をさしのべてくれるわけではない。国全体の流れである以上どうにもならない。この地域の立地をみたとき、阿南町の中心部である大下条とは別にひとつの空間を作っている新野という地域。その新野と現在の売木村は、かつて旦開(あさげ)村としてひとつの行政区域であったことがある。冒頭の両地区もそうだが、新野に比較的近いのが売木村である。この売木村も人口7百人弱という小さな村である。新野を中心とすれば、売木と神原といった地域はそれほど遠距離ではない。だからといってそれらがまとまればいいじゃないか、などということは言わないが、行政区域を越えたなんらかのつながりを、将来のために考えなくては地域はますます減退していくことが確実である。県という枠もそうだが、元来枠でくくられた周縁地域がこうしたことで悩んできたことを理解して欲しいのはもちろんだが、結局人が少ないから声はとどかないし、そんなところにお金がかけられないといわれればどうにもならない。記事にある「村には住み続けたい。しかしこのままでは、引越しを考えなければならない・・・」という子どもを持つ親の言葉から、現実の話として、こうした地域に若い人が住むということは、もう不可能なのだろうか。
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黄色い線香花火

2006-03-12 00:39:45 | 自然から学ぶ
 サンシュウの花がつぼみとなって、まもなく咲きそうである。家を建てて間もないころ、妻がサンシュウの木を何本も手に入れてきた。駐車場が裏側にあることからそのアプローチのようにそれらを植えた。今は樹高3から4メートルほどになって7本並んでいる。秋に赤い実をつけると、そのまま冬の間もその実がずっと木についている。この赤い実をつけることからアキサンゴの別名をもつ。また、黄色い花から春黄金花(ハルコガネバナ)ともいわれる。享保7年(1722年)に朝鮮から薬用植物として渡来してきたものと言われ、漢方薬に使われたともいう。

 この冬は妻が教わった先生からサンシュウの小枝をもらってきた。ハウスの中で暖かくしてすでに花が咲きそうな状態でいただいた。それを花瓶に挿しておいたのだが、今でもその花は咲いている。温度が上がらなければ花もちがよいということがわかる。一緒に挿しておいた花はとっくに姿を消したのに、サンシュウだけは今でもしっかりと咲いていて、いつ枯れるともわからないほど賑やかだ。そうこうしているうちに、外にあるサンシュウも咲き始めそうで、いよいよ春である。今年は、赤い実がほとんど落ちないまま春になってしまった。たくさん実がついているので、「何か利用できないの」と妻に聞いたが使い道はないという。うわさによると果実酒にされるというが本当だろうか。ちょうどサンシュウの木の近くにラブ(犬)の小屋があるのだが、ラブはこの実が落ちても手を出さない。どうみても食べられそうではない。

 夏になると葉がたくさんつく。落葉樹だから夏は日陰に、冬は日当たりがよい。下に側溝があって冬中は落葉した葉や土がおちて埋まってしまっている。しかし、この木のおかげでラブはたいへん居心地のよい空間をもらっている。西側に木を配置したのも、夏の西日を遮りたいという意向だった。その意図はよかったが、ちょっと木の感覚が狭かったせいか、4メートルほどの樹高で止まっている。

 さて、玄関に長く咲いている花を見ていると、まさしく花火のような花である。線香花火がはじけたときのように先端に玉がついている。「黄色い線香花火」、そんな形容がぴったりである。
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家庭という道場

2006-03-11 01:01:59 | ひとから学ぶ
 真宗大谷派善勝寺報『慈窓』490号が届いた。「私の姿に気づく」という記事に「なるほど」と思わされた。その記事からの引用である。

 「夫婦げんかも都合でするのです。都合と都合がぶつかるわけです。こっちの都合が正しいと思っていても、向こうは向こうの都合があるわけです。ある先生が言われました。結婚とは絶対に自分の思い通りにならない者がいるということを知らされていくことなんであると。家庭こそが本当の道場です。だから家庭にはお内仏がいるのです。それに気づかせてもらえる。自分の都合に立っておったなと。フーフー、フーフー言っていくのが夫婦です。」

 絶対に自分の思い通りにならない者がいるということを知らされていく・・・、まさしくその通りである。どんなに仲がよい夫婦でも、まったくすれ違いがないはずがない。生を受けて以来、環境の違うふたりが同じ空間で暮らしていくのだからけんかがあってあたりまえで、わたしにいわせればない方が不思議である。とくにお互いに結婚が遅かったりすると、なかなか自分ができあがってしまっているから大変である。「社会的・文化的な性差」でも触れたが、「紀子さんと雅子さんとジェンダー」において、「紀子さんは社会に一度も出ることなく、学生のまま結婚して皇室に入りました。男女雇用機会均等法一期生として、総合職女性のシンボル的生き方をしていた雅子さんとの違いはここにあります。」と述べている。これは典型的な事例であるものの、どこにも当てはまる事例であるとわたしは思う。社会に出てまもない女性と、社会でさまざまなテクニックを覚えた経験者とでは、夫婦間での自己主張に差が出るということである。それは、男が強いとか女が強いとかいう問題ではなく、どちらでもよいが社会経験に乏しいことによって「都合でぶつかる」ということが少なくなるのである。新入社員が、そこの空間に同居する人たちによって染まっていくのと同じで、社会に、またつきあいに未熟な者にとっては年配である者の意見に従順になるのは成り行きである。もちろんお互いが未熟なら、まわりの人に意見を請うだろうし、どちらかが歳はなれた年配なら、そこに頼るということになる。必ずしもそうばかりでないともいえるが、平均的な話である。

 わたしも結婚当初にはお互いの生活意識の違いで、口論がたえなかった。手を出そうとしたこともあった。しかし、まさしくそこが道場なのである。その道場でどう解決していくかが試されるわけである。少子化問題の前に立ちはだかる「結婚しない」人たち。結婚しないということは、こうした道場に立つことはない。恋愛による結婚があたりまえの現代において、離婚が多くなったということは、結婚するときにはお互い理解していたにもかかわらず、思うように行かずに道場から逃げたということになる。それが一般的になってしまったわけで、前述の「結婚しない」人も含めて、家庭という道場で解決してゆくこと、あるいはその道場に立つことを避けているといわれても仕方ないのだ。子どもたちに問題が多発するのも、また同じ問題である。
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陣馬形山②

2006-03-10 08:13:55 | 自然から学ぶ
 陣馬形山についてもう一度。
 再び山頂から望む中央アルプスの写真である。前回は南駒ケ岳だけであったが、今回は宝剣岳にいたるアルプスの主峰を一望するものである。
 一昨日公開した登山道の図を作成したのは、今から4年前の秋、地域のPTAで陣馬形山登山を計画したときに作成したものである。実はその数年前まで毎年のように地元の山に登山をしていたものの、治山工事が行なわれていて、危険だということで何年か登山が途切れていたのである。そんななか、違う山でもいいから登山を計画してはどうかということで、身近であって、自分たちの地域が一望できる山を選んだわけである。1年生も一緒に登れるとなると、限られてくるわけで、ある程度車で近くまで行ける山となると陣馬形山が最適であったわけである。

 登山当日は、朝8時半に出発して広域基幹林道陣馬形線登山口まで30分。そこから子どもたち約20人と、大人約10人で登ったわけである。小さな子どももいるということで何度か休みながら登ったわけで、図にもある「丸尾のブナ」の木ではみんなで写真を撮ったりしたものである。約1時間半をかけてゆっくり登り、山頂で休んで(下山してから昼食だった)下山しはじめたが、少し下ったところにある陣馬形牧場には牛やサホークなどがいて、子どもたちが立ち止まってしまって予定の時間をオーバーしたことを覚えている。

 陣馬形山登山道は、昭和5年ころから南向(そのころは南向村だった)青年団によって手入れされ、宿泊小屋などの宿営設備、飲用水、井戸が整備されて運営されていたという。おもに上伊那や下伊那の児童生徒などが夏場にキャンプ場として利用した。昭和の合併で中川村に合併後は、中川村青年会により運営されたが、昭和36年の災害によって登山道が被害を受け、青年会による運営は終了したという。その後昭和46年に陣馬形牧場が開設され、車道の整備とともにキャンプ場として整備されてきた。

 とはいうものの、直線距離で4キロ程度という近いところに育ったのに、陣馬形山には、高校生のころ原付で(それも無免許だったように記憶する)登ったのが初めてだった。昭和初期には上下伊那の子どもたちがキャンプに行ったのかもしれないが、わたしの子どものころは陣馬形山にはキャンプに行かなかった。おそらく、上伊那郡にある山でありながら、上伊那郡の学校は地元中川村をのぞけば、ほとんど利用していなかったのではないだろうか。そのいっぽうで、妻は中学のキャンプでこの山に登ったといい、下伊那郡内の学校は利用していたようである。このあたりが、わたしがよく言う地域性なのだと思う。山より北側の人々は北を見ているから、背中にあるこの山をあまり認識せず、南側の人々は北にあったこの山を認識していたということである。平成の時代になっても地元以外は、下伊那の学校がキャンプに利用しているという。
 
 さて、前回夏季には放牧されているといったが、わたしは知らなかったが、最近刊行された『中川村誌』を読んでいたら、平成16年で牧場は閉鎖されたと書いてある。昭和46年に補助事業を取り入れて4千万近いお金を投入して開設されて以来、30年余の命だった。先に触れたように、子どもたちが行けば必ずといってよいほど牛やサホークに見とれて、時間を過ぎるのも忘れるほどだった。残念でならないが、畜産の低迷という現実では仕方がないことである。

 ついでにもうひと。中川村にとってはとても近しい山ではあるが、『中川村誌』を読んでいても、あまりこの山が登場しない。村の北の端にあるということで、集落から遠い現実があるが、山にかかる雲の動きをみて天気を予知していたといわれ、常に見られていた山である。加えてこの山の上で運動会をしたとか、登山マラソンも一時行なわれたということで、この村にとっては象徴的な山である。もちろんわたしにとっても近い山であった。ここに暮らす人々にとってのこの山について、もう少し知りたいというのがわたしの気持ちである。
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オリンピック誘致

2006-03-09 08:04:47 | つぶやき
 2016年オリンピックをめぐって東京と福岡で国内誘致で争っている。昨年秋に石原都知事が「治安のことを考えたら福岡なんて・・・」といって馬鹿にしていたが、首都東京のおごりのようなものだ。それよりもなによりも、常識的に考えて2016年にオリンピックが日本に来るかどうかの方が極めて怪しい。次回が北京である。その次の次のオリンピックが再びアジアの近隣にやってくるなんて、常識的にありえないんではないか。かつて誘致の末に敗れた名古屋にしても大阪にしても、敗れたからといって再度名乗りをあげるということはなかった。誘致するために手をあげただけて膨大な金を使ってしまって、なかなか住民の理解を得られない、あるいは財政的に苦しくなるなんていうことも見えている。

 ちょっと視点を変えて考えてみよう。2016年ともなると、関東大震災から100年近くなる。常々東京に大地震がきたらどうなる、なんていうことがいわれている。設備投資には金がかからないかもしれないが、自然災害に対しての対策をしなくてはならないだろう。我が家のように地震に対して敏感な家庭では、東海地震が起きると嫌だからといって、静岡方面に足を向けることをためらっている。わたしはそれほどではないが、妻などはもし息子が大学に行くのなら、静岡方面はもちろん、東京方面も「行くな」状態である。大災害にあったらどうなるかわからない、というのが現実なのだろう。そう思うと、たとえば東京にオリンピックが誘致されたとしても、準備期間、あるいはオリンピックを目前にして「大地震が起きる」なんていう情報が流れたらどうなるだろう。もっとも痛手となるのは、目前にしてそんなことが実際に起きたり、あるいは「起きる」という情報が流れたときである。場合によっては「起きるのでは」というような噂は何度も流されることになるだろうし、噂ではなく予知連が現実的に予知することもないとはいえない。そのときに、国家はどうするのか、見ものである。

 こんな心配は馬鹿げたことかもしれないが、まったくないとはいえない。加えて冒頭の事実のように、次々回のオリンピックを目指すというのは常識的ではない。世論を盛り上げることで結局誰かが得をするのだろうが、冷静な判断も必要ではないか。一極集中状態の東京が立候補するのは、このごろは話題にもあがらくなった首都移転や国の機能を分散して、一極集中状態を緩和してからのことではないだろうか。まあ、中央の権力化、そして石原都知事の言葉を聞く限り、こんな意見は塵にもならないだろう。
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陣馬形山

2006-03-08 08:05:47 | 自然から学ぶ
 「飯島町のこと」や「雪のこと、そして昭和57年」、そして「ホトケノザ開花」で公開した写真は、いずれも上伊那郡中川村の陣馬形山あるいはそこへ通じる林道から撮影した写真である。この陣馬形山は、標高1445mとそれほど伊那谷において高い山ではないが、南アルプスの前山として連なる伊那山脈のなかでは単独峰てあって、周囲に阻害する山がないということで、伊那谷の北端に位置する辰野町から、飯田市あたりの集落まで遠望ができる。やまなみともなると、北アルプスから中央アルプスの駒ケ岳から恵那山、そして南アルプスの仙丈ケ岳から赤石岳、聖岳、大沢岳、伊那山脈の南端に位置する熊伏山あたりまで眺めることができる。西側の正面には中央アルプスの南駒ケ岳が見え、そのやまなみは宝剣岳から経ヶ岳まで続く。伊那谷のなかでは、眺めのよいことに間違いはない。

 中川村大草では、戦前はもちろん戦後しばらくまで、この陣馬形山が草刈場であった。いわゆる芝刈場であって、田んぼの肥料にしたカリシキや、馬や牛の餌場として利用されていた。5、6キロの距離を毎日のように草刈に行ったわけである。現在では山林と化しているが、草刈場であったころには、木がほとんどなかったという。「陣馬形山登山道」の図を示しているが、「丸尾のブナ」の木は、かつては遠くからも確認できるほど、周りに木がなかったという。現在は遠方からその木を確認することは難しい。

 山頂までわたしの生家から直線距離で4km程度に位置するが、いざ歩いて登るとなると遠い。現在陣馬形山へ登る道となると、徒歩では中川村美里の黒牛から登る道がある。図に示した赤い線が徒歩による登山道で、広域基幹林道の起点までは車で行くのが一般的である。徒歩で麓からとなると、図にあるように中川村役場から黒牛まで車道を歩くのが条件的によい。しかし、片道7km以上となる。広域基幹林道の登山道起点まで車で行って、そこから約2.5kmを歩く、というのがお勧めである。途中で丸尾のブナの木を通る。上の林道まで出ると、東側には陣馬形牧場が広がる。夏には放牧されている。

 いっぽう車で山頂近くまで登るのも容易で、道もよい。わたしが盛んに登ったころは、中川村役場から中組を経て大嶺山の南側を回って林道中組陣馬形山線を通った。この道は現在でも中組から大嶺山南側の広域基幹林道までの間は舗装されていない。そして、広域基幹林道から分岐してからも急な部分は舗装してあるが、未舗装の部分も多い。大雨のあとはずいぶん道が荒れている。それにくらべると、美里の黒牛を経て登る道は、狭くて急坂ではあるが舗装されている。そして、広域基幹林道から林道中組陣馬形山線を連絡する林道黒牛折草峠線が、5年ほど前に開通し、この道は幅も広く快適な道である。

 さて、仙丈岳の写真は、山頂から少し下ったところにあるキャンプ場から先日撮ったものである。右側の高い嶺は北岳である。

 もう少しきれいな登山道の図を見たい方は、「Trx Factory 図録集」で画像を保存して印刷されたい。

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オカシマスル

2006-03-07 08:12:47 | 民俗学
 『伊那』934号(伊那史学会発行)が届いて、井上伸児さんの「「正座する」の方言」を興味深く読んだ。わたしは「かしこまる」を「おかしまする」というが、この言い方は駒ヶ根市伊以南の上伊那郡南部から下伊那郡全域のみで使われる言葉だという。わたしのイメージでは正座するも含まれるが、必ずしも正座することだけを「おかしまする」という使い方ではなかったように思う。姿勢を正す、まさしくカシコマルというような意味も含めてその言葉を当てていたように思う。

 県内のほかの地域の言葉を見ると、飯山市などの新潟県境では「ツクバル」、長野市近辺から佐久市にかけては「スワル」が主で、佐久の方にいくに従い「オツクベ」が混ざりだし、南佐久へ入ると「オツクベ」だけになる。この「オツクベ」は、安曇野から松本市あたりまでいわれ、塩尻あたりからは、「オツクベ」と「オツンベコ」「オツベンコ」が混ざる。さらに諏訪あたりまではそれらが少し変化した「オツクンベ」「オツクバイ」という言葉になる。木曾谷は「ツクベル」「ツクベール」、伊那谷に入ると、諏訪や塩尻あたりと同じで、そこに「オツンブ」「オツンブリ」、さらに伊那市あたりまでくると「オツム」「オシャンコスル」などとなり、駒ヶ根市の「オカシマスル」となる。

 これらは井上さんも利用している『長野県史方言編』の方言地図から読みとったものだが、『上伊那郡誌方言編』にはもう少し詳しく変化が現れている。こちらの方が調査した時期が少し古い。それによると、駒ヶ根市あたりでは「オカシマスル」より「オシャンコスル」の方が多い。そして、駒ヶ根市の南、飯島町までくると完全に「オカシマスル」に変化する。飯島町と駒ヶ根市の境にある中田切川が境界域となっていることがわかる。中川村の四徳というところは、折草峠を越えた駒ヶ根市中沢との交流が深かった。にもかかわらず、四徳でも「カシマル」あるいは「オカシマスル」が言われているのが興味深い。

 カシクマル、カシマル系の方言は、井上さんの記事にもあるが、三重県、山口県、島根県などにもあって、全国的にはほかにもある。「カシコマル」→「カシマル」→「オカシマル」→「オカシマ」という変化を示しているが、基本的にはカシコマルの変化のオカシマで、系統は同じということはおのずとわかる。県南の県境域までこの言葉があるが、向こう側、奥三河や奥美濃のことは触れられていない。ちょっとそっちの言葉も知りたい、というのがわたしの感想であった。

 ところで、正座=オカシマスルという印象ではなかったと冒頭で述べた。実は妻にこのことを確認したら、オカシマスルは正座だという。そして、「カシコマル」と「オカシマスル」は違うという。わたしのイメージでは、どちらもオカシマスルのイメージだったのだが、微妙に異なる。もっというと、『長野県史』にある地図は、「正座」する意味がどういう言葉で言われていたか、という問いであって、もう少し現実的な「使い方」はどうだったのかという面では明確ではないということである。言葉の意味だけではなく、使い方によっては、同じ言葉でもニュアンスが異なることが充分にありえる。こういう部分は、現実的に多くの人から使い方を聞き取ってみないとわからないのだろう。
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新聞記事に思う

2006-03-06 08:12:47 | ひとから学ぶ
 昨日(3/5)の信濃毎日新聞で「第二の人生 心も耕す」という見出しで下伊那郡内にある農産物直売所のことが大きく報道されていた。「第二の人生」というように、定年後の人たちが、農産物を直売しようと始めた直売所への心意気を「心も耕す」と表現した記事は、なかなかうまい見出しだし美しく見える。たった一度の新聞記事なのだから、どうとういうことはないが、その関係者の地元に生まれた妻は複雑な思いである。この記事に登場するある人物は、妻も、いやわたしも日ごろ顔を合わせることが多い人である。「生まれ育った地域のために何かをしたい」というような言葉も踊るが、果たして、新聞報道を含めて公に言葉が流れるとは、どういうことかと考えさせられる。

 この農産物直売所の近くに、やはり下伊那では(県内でも)有名な農産物加工施設がある。けっこうあちこちに知られるようになって、根羽村にある直売施設などにもたくさんの製品を置いていたり、なかなかやり手である。しかし、ここを主催する人物についてよいことを聞かない。あまり詳しく書くことはためらうが、いずれにしてもいろいろである。有名になると新聞はもちろん、ラジオなどにもちょくちょく登場したりして、その報道だけを見たり聞いたりしていると、さぞかし安全で衛生的な製品を作り、先進的なことをしているように聞こえる。

 もう一度戻って冒頭のある人物であるが、地域、とくに隣組とか常会といったかかわりの中では、ことさら問題を多発する人物で、いってみれば正当なことを言っているようで、自分勝手の理論が多く、いずれ弔ってもらう身近な地域のために何かをしたい、などという気持ちはまったくない。

 口で言うことと行動が伴わない人はたくさんいる。それでも、評価されるべき活動があったりすると、そこだけがクローズアップされて、以後のその人物像をつくりあげたりする。身近にいる人間にはその裏側が見えたりするが、評価されるべきものがある人にはかなわない。そこがいろいろなのだ。人の本質を見きわめなければならないが、だからといって、行動を起こさないことがよいというものでもない。

 やはり昨日の信濃毎日新聞の「現論」欄に養老孟司氏が書いた「ウソと確率とコスト」は、ウソを見抜くための策をとるにしても、その確率とコストを考えたらどうだろう、と投げかけている。「メディアの世界では誤報・虚報・ねつ造が大きく非難される。でもマトモと思われている報道も、どこまで本当か」という。そして「「たまたまそうであること」と「つねにそうである」ことは、日常ではあんがい区別されていない」ともいう。報道とは一時のことではあるが、つねにそうであるがごとく報じられている。だから、報道を受け取った側は、作り話だろうがなんだろうが、誤報という大々的な修正が出されない以上、記事の内容を正当と捉えてしまう。

 このごろ思うのは、新聞の記事に片寄りがあるということだ。いや、このごろではなく、わたしが歳をとったせいか、それが見えるようになった。明らかに同じ地域の事柄ばかり記事にしたり、もうちょっと違う記事をとりあげられないのか、と思うことがよくある。
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ホトケノザ開花

2006-03-05 15:22:53 | 自然から学ぶ
 昨日は、畑を起こしに妻の実家へ行った。西に山を背負った東と北側に畑が広がる。いや、広がるというよりもへばりついている畑である。段々になっているから、幅にして5メートルくらいしかない畑もある。それを起こすとなると、とてもトラクターではできない。マメトラでちょうどよい。先月起こしたときにくらべれば、ずいぶん陽気が暖かくなったから、土がほぐれている。オオイヌノフグリが盛んに咲き始めた。山を背にした北側ではまだまだオオイヌノフグリは咲いていないが、日当たりのよいところは違う。タンポポのつぼみもあれば、ヒメオドリコソウなども咲きそうである。

 シソ科で日本在来の「オドリコソウ」と明治中ごろに日本に入ってきた帰化植物の「ヒメオドリコソウ」はよく似ている。妻がオドリコソウが咲き始めたというので、見に言って写真に納めたが、まだ咲いているとはいっても数少ない。妻は日々農業をしているから、けっこう草花に詳しい。だから、オドリコソウだというので信用していたら、どうもオドリコソウとは違う。近くの土手にあったものの方がオドリコソウで、写真に納めたものはホトケノザとしか考えられない。妻に「あの花はオドリコソウじゃないでしょ」というと、「あれ、なんだったけ」という。「ホトケノザじゃないの」というと、「そうそう、間違えた」という。わたしが詳しくないと思って好き勝手のことを言っているが、どうも妻の言ってることにも嘘っぱちが多いと、最近気がついた。知らないと思って適当なことをいっている。

 オドリコソウもヒメオドリコソウもホトケノザも、どれもシソ科の植物で、春先から咲き始める。今日の様子を見る限り、ホトケノザが最も早く咲くようだ。本州から沖縄まで広範に分布するホトケノザは、花の下にある葉が茎を包み込むようになっている。これが仏の蓮華座に似ていることからこの名前がついたようだ。別名のサンガイグサ(三階草)も、花が数段につくことでついた名である。長野あたりでは気温が低いことから、咲くのは春になってからであるが、暖かい地域や日当たりのよい場所なら冬でも開花しているらしい。

 松川町では3/11と3/12に「町内一斉土手焼き日」を設定している。カメムシ・イネミズゾウムシなどの越冬害虫駆除と、果樹の剪定枝焼却を目的に設定して、消防署への届出を町で行なっているのでそれぞれが届出なくてもいいという。いよいよ本格的な農作業を前に、春先の準備となる。
 写真は、今日午前中に撮影したものである。正面の山は恵那山で、その手前に広がるのは松川町、段丘崖の森林帯の下、天竜川沿いに広がる平地が中川村田島地籍になる。全体的に霞がかっているのは、まだ1週間早いが、野焼きの煙のせいのように思う。手前の天竜川端で煙がいくつか上がっているのが見えるが、野焼きをしている。ちょうど恵那山から真っ直ぐ下に下りていったあたりの大きな煙の向こうの平らに少しばかり大きめな建物が見えて、その上が台地状に左側り飛び出ている。これが中川村片桐の牧ケ原台地である。台地の手前の森林帯の下にさきほどの大き目の建物が見えるがこのあたりから台地の向こう側まで国道153号線の牧ケ原トンネルが通じている。塩尻と名古屋を結ぶ国道153号線で、塩尻から飯田市の南側にある阿智村の間には、トンネルというものはこの一つしかない。

 松川町以外でも一斉にこうした土手焼きをしているかは知らないが、たまたま中川村でもあちこちで土手焼きをしていた。そう思ってわたしも、家の剪定枝を焼いたが、湿気っていて、なかなか燃えなかった。燃やすつもりであらかじめ広げて乾かしておけばよかったと、今になって思っている。
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まんじゅう

2006-03-04 00:33:03 | つぶやき
 先日法事に行った手土産に「亀まん」の饅頭をいただいた。たくさん入っているので、とてもうちの家族では食べられないということで、会社にお土産で持っていった。「亀まん」は明治の中ごろ、銭湯「亀の湯」で来店する客にふるまっていた饅頭が評判となって饅頭屋を開店したという。亀の湯から一字とって名づけられた「亀まん」は、高遠饅頭として知られることになった。高遠饅頭には饅頭屋がいくつかあるが、「亀まん」はそのひとつである。饅頭に亀の焼印が入っている。今までに食べたことがあるのかよく覚えていない。会社でひとついただいたので食べてみたが、「まあ、美味しい方かな、ちょっと甘いか」、それが印象だった。

 子どものころはあまり甘いものは食べなかった。せんべいは好きだったが、饅頭などの和菓子はとても好みではなかった。子どもなんてみんなそんなものと思っていた。きっとそのころ食べた饅頭は、異様に甘かったのかもしれない。あまりに甘すぎると抵抗感が生まれる。その最初のイメージがいつまでも尾を引きずって、「好まない」ということになってしまう。

 若いころもそれほど饅頭を食べた覚えはないが、「美味しい」と初めて思ったのは、飯田市内にある一二三やの饅頭を食べてからである。さすがにこの饅頭は有名で、近在はもちろん、遠方の人にも知られている。なぜその饅頭が美味しいと思ったかというと、黒糖を使った饅頭で甘さが控えめだったからかもしれない。同じ飯田市座光寺の元善光寺入口にある、吉丸屋は創業90年という。この店に座光寺饅頭というものがある。これは一二三やと違って、昔風で甘い。きっと子どものころ食べた饅頭の印象は、こういう饅頭の印象だったのかもしれない。でも今食べると、一二三やの饅頭とはまた違って、美味しさがある。阿南町の新野にも新野饅頭というものがあるが、座光寺饅頭系だという。田舎の店の饅頭は、昔風なのかもしれない。

 会社で自分が持っていった饅頭を食べた翌日に、今度は会社の女の子が高山村の温泉饅頭を持ってきてくれた。伊那谷の田舎風の饅頭よりは甘くないが、一二三やの饅頭よりは甘い。若いころあまり饅頭を食べた覚えがないといったが、温泉饅頭はあちこちのものを食べた。しかし、記憶している饅頭はない。そう思うと、伊那谷のあちこちにある饅頭は、けっこうお勧めなくらいに美味しいかもしれない。まずは有名な一二三やから食べ始める、それが通かもしれない。

 甘さのイメージの話をしたが、干し柿もそうだ。子どものころ自家の干し柿を食べたが、異様に甘かった。そのイメージがあって、市田柿といっても見向きもしなかった。ところが、妻の家の干し柿を食べてみて、それまでのイメージが変わった。あまり甘くないのだ。今では干し柿に手を出すとひとつでは終わらないほど、続けて食べてしまう。単純に歳をとっただけなのかもしれないが、それだけではないように思う。

伊那谷南部では、葬式やお盆などに必ず(最近は必ずでもないか)饅頭を天ぷらにした天ぷら饅頭が登場する。ほかの地域では見ないから、このあたり独特なのだろう。これがまたけっこう美味しい。てんぷら饅頭専用の饅頭も売られている。

 さて、饅頭は日本茶、そんなイメージなのか、会社へ持っていった日に女の子に「日本茶を出すときに饅頭を食べた方がいいよね」と言われたが、実はわたしはコーヒーで饅頭を食べることがけっこうある。コーヒーの苦味に饅頭の甘さはとても合うように思うがどうだろう。
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ひな祭り

2006-03-03 08:12:34 | ひとから学ぶ
 同僚の女性が「ひな祭りですね」という。確かにひな祭りだが、「今でもお雛さまを飾るの」と聞くと、もう何年も前から飾らないという。次女だというので、「自分のお雛さまあるの」と聞くと、長女のお雛さまがあったからだろうが、最初は買わない予定だったが結局は自分の分も買ってくれたという。

 わたしは男の兄弟だったということもあって、ひな祭りには縁がない。しかし、思い出すと、子どものころ母が「今日はひな祭りだで」といって昔のひな人形を飾っているのを見た覚えがある。実はわたしは押し絵雛を持っているが、それが母のものか、祖母のものかよくわからない。母が元気なうちに確認しておきたいとは思う。だいぶ痛んではいるが、戸棚にしまってある。

 同僚の女性が佐久の出身ということで、南佐久郡北相木村の「かなんばれ」のことを話した。この「かなんばれ」については、昨日「モノクロの彩り」のHPに公開した。そこでは昭和63年に訪れた際の写真を掲載している。ページの中でも触れているが、この行事は北相木小学校の行事として続けられてきた。そして、昭和63年に訪れた際、カメラマンたちがやらせをしたことを思い出したわけだが、公開用ページを作成しているときは、あまり意識せずに写真を並べていたが、同僚の女性に写真を見せてあげていて気がついたことがあった。

 ページの写真を見ると、4枚の写真が並んでいる。上から撮影順に並んでいる。同じことを彼女にも質問したのだが、4枚をながめていると、雰囲気の違う写真が1枚ある。おわかりのように最後の写真である。彼女は気がつくのに時間を要したが、4枚めの写真のみ背景が異なる。それは雪の量である。この1枚だけ撮影した場所が違うのだ。上の3枚は、意図のない行事のなかの自然な写真である。それに対して4枚目の写真は、集まったカメラマンがかわいい女の子4人を選択して、その子たちを少し離れた場所まで移動させて、人形の乗ったさんだわらを流すしぐさをして欲しいと頼んだものなのである。忘れていたが、行事の説明をしながらやらせの様子を思い出したのである。かわいい女の子、そして背景に雪、まさしくやらせには絶好のシチュエーションである。そういうわたしも、そのやらせにあやかって写真を撮影したわけだが、こういうことに抵抗があってカメラマンが嫌いなのだ。以前に「地蔵盆」について書いたが、この行事も主役は子どもたちである。この地蔵盆を訪れた際にも、カメラマンたちが子どもたちに賽銭をあげるからといって、背景の良い場所まで連れて行って写真を撮るということをあちこちでしていた。あやかろうとしたら、カメラマンにひどく叱られた覚えがあって後味が悪かった。同じようなことは、あちこちで経験した。コンテストで賞をもらうような写真の背景には、そんなやらせが当たり前のように存在する。

 「かなんばれ」は今日行なわれる。後味が悪かったということもあって、その後訪れていないが、今もこんなことが行なわれているのだろうか。

 ■地蔵盆
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教員よしっかりしろ

2006-03-02 08:00:11 | ひとから学ぶ
 実は「管理責任」で「この県は終わった」と述べたが、裏話に加えて、さらに奥深い悩みが存在する。このいいがかりを言ってきた○○中学の教員は、息子の通う学校の教員である。ちょうど息子が入学するときに新任でやってきた。長野県では信濃毎日新聞に教員の異動が一覧で載る。もちろん新規採用の先生もどこの学校に着任するということがわかるわけだが、その新聞を見て驚いたのである。息子が阿南少年自然の家の夏季キャンプに行った際に、仲良くなった先生が新規採用で息子の入学する学校にやってくる、それがわかったからだ。ここまで書けば想像がつくと思う。このいいがかりをつけた先生だったのである。おそらく、息子の入学する学校の生徒の中でも、この新規採用の先生のことを知っている生徒はほとんどいなかったはずである。もちろんキャンプで世話になった先生だったから、息子にとっては嬉しいことだったに違いない。

 息子は、この阿南少年自然の家のキャンプには2年連続で行った。約1週間というキャンプだが、2年連続で行けるということはあまりない。いや、行ける人は限られている。いわゆる不登校とか、いじめられているとか、なんらかの問題を抱えている子どもたちが優先されて、そのなかに普通の子どもたちが混ざるようである。なぜ息子が2年連続で行けたか、いじめられるというほどの過度なものはなかったが、少し悩んでいた時期もあって、加えて「どうしても今年も行きたい」という息子の意をくんで、母も申請書にそんなことを少し書いたことも採用の要因になったのかもしれない。

 ということで、2年ともこのいいがかりをつけた先生は、大学生として、このキャンプに参加していたのである。そして、息子は、「ああいう先生になりたい」とまで終わったあとには言っていたわけである。そう息子の将来の夢は、阿南少年自然の家のキャンプにサポーターとして参加することだったのである。その希望の星であるべき教員の玉子が、いざ学校にやってきたら、この始末なのである。妻も「息子にはこんなこと言えないけど」と例の事件のことを話してくれたのだが、子どもたちによい思い出を作ってあげた彼らが、このまま教員不適切な人間に成長しないで欲しいと思うのは、わたし以上に息子が思っているだろう。いつまでも希望の星であってほしいものだ。もちろん、学校での姿を見るにつけ、少しずつはその希望の星は輝かなくなっているようだが、そうはいってもこんないいがかりを言うような人間を息子には真似て欲しくない。

 まさしく「教員よしっかりしろ」である。
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