Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

新聞記事に思う

2006-03-06 08:12:47 | ひとから学ぶ
 昨日(3/5)の信濃毎日新聞で「第二の人生 心も耕す」という見出しで下伊那郡内にある農産物直売所のことが大きく報道されていた。「第二の人生」というように、定年後の人たちが、農産物を直売しようと始めた直売所への心意気を「心も耕す」と表現した記事は、なかなかうまい見出しだし美しく見える。たった一度の新聞記事なのだから、どうとういうことはないが、その関係者の地元に生まれた妻は複雑な思いである。この記事に登場するある人物は、妻も、いやわたしも日ごろ顔を合わせることが多い人である。「生まれ育った地域のために何かをしたい」というような言葉も踊るが、果たして、新聞報道を含めて公に言葉が流れるとは、どういうことかと考えさせられる。

 この農産物直売所の近くに、やはり下伊那では(県内でも)有名な農産物加工施設がある。けっこうあちこちに知られるようになって、根羽村にある直売施設などにもたくさんの製品を置いていたり、なかなかやり手である。しかし、ここを主催する人物についてよいことを聞かない。あまり詳しく書くことはためらうが、いずれにしてもいろいろである。有名になると新聞はもちろん、ラジオなどにもちょくちょく登場したりして、その報道だけを見たり聞いたりしていると、さぞかし安全で衛生的な製品を作り、先進的なことをしているように聞こえる。

 もう一度戻って冒頭のある人物であるが、地域、とくに隣組とか常会といったかかわりの中では、ことさら問題を多発する人物で、いってみれば正当なことを言っているようで、自分勝手の理論が多く、いずれ弔ってもらう身近な地域のために何かをしたい、などという気持ちはまったくない。

 口で言うことと行動が伴わない人はたくさんいる。それでも、評価されるべき活動があったりすると、そこだけがクローズアップされて、以後のその人物像をつくりあげたりする。身近にいる人間にはその裏側が見えたりするが、評価されるべきものがある人にはかなわない。そこがいろいろなのだ。人の本質を見きわめなければならないが、だからといって、行動を起こさないことがよいというものでもない。

 やはり昨日の信濃毎日新聞の「現論」欄に養老孟司氏が書いた「ウソと確率とコスト」は、ウソを見抜くための策をとるにしても、その確率とコストを考えたらどうだろう、と投げかけている。「メディアの世界では誤報・虚報・ねつ造が大きく非難される。でもマトモと思われている報道も、どこまで本当か」という。そして「「たまたまそうであること」と「つねにそうである」ことは、日常ではあんがい区別されていない」ともいう。報道とは一時のことではあるが、つねにそうであるがごとく報じられている。だから、報道を受け取った側は、作り話だろうがなんだろうが、誤報という大々的な修正が出されない以上、記事の内容を正当と捉えてしまう。

 このごろ思うのは、新聞の記事に片寄りがあるということだ。いや、このごろではなく、わたしが歳をとったせいか、それが見えるようになった。明らかに同じ地域の事柄ばかり記事にしたり、もうちょっと違う記事をとりあげられないのか、と思うことがよくある。
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