Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

市町村合併と民俗

2006-03-18 15:02:35 | 民俗学
 『日本民俗学』最新号において、「市町村合併と民俗」を特集している。ムラを対象にしてきた民俗学にとっては、合併という事実は領域の変化という部分においては、対象とする地域も、そして研究する視点という部分においても、影響があるのだろうという感じはする。が、現実的にはどんなに合併が進もうと小さな地域がなくなるわけではないのだから、行政区域名がかわっただけと住民は捉えるだろう。そのうえにたって合併が一時的な事件だったのか、それとも長らえてきた習俗への変化をもたらせるのかをわたしは捉えるしかないと思っている。そんな意味で、特集にとりあげられた記事すべてを読んでいないが、この学会が何を意図して特集を組んだのか、というところは冒頭の「特集にあたって」の前文を読んでも、また福田アジオ氏の「市町村合併と伝承母体」を読んでも今ひとつわたしにはわからない。結局過疎問題を扱った、という感じなのである。

 同号のなかで結城登美雄氏は「市町村合併の現在」と題して、東北の村々を歩きながら考えてきた地域の現状と問題に触れている。消えそうになった地域で豊かな文化(価値)を認識したとしても、それを再生のために活用することは村にとっては難しいことである。よその事例に沿って倣っても成功するものでもないし、他人が手を貸すものでもないと思う。地域問題が多様に報道されるなかでは、活性化事例と題してさまざまな事例が報告されてはいるが、民俗学が扱う領域ではないと思う。結城氏は最後に「村の暮らしには、失ってはならぬ大切なものがあると主張してきたのも民俗学であった。それをもう一度未来を生きる若者たち、次世代に手渡すべく、しっかりとみつめ続けていきたい。」とまとめている。東北に近頃移住してくる若者がいたり、沖縄の人口が増えていることに触れて、どんなに行政の都合で合併されようが、そして人々を苦しめることにもなるだろうが、村の名は消えても家族がいるかぎり現実に村はあるわけで、その内実を高めていけば、合併はさして重要な問題ではないと人々が受け止めてくれるのではないか、というようなことを書いている。「再生する」という大きな目標を掲げなくとも、どう「今を続けるか、そのために努力する、普通に暮らす」人々をとりあげるのが民俗であるのだろう。

 日ごろ仕事でまさしく過疎の進んだ村々を歩いている。年寄りだけでもいい、田畑に人影があって働いている姿を見ると安堵する。ずいぶん前に、「車は通らないが人は多い」という村のことを触れたが、今が続いていくだけでよい、とはよそ者の言葉かもしれないが、素直にわたしの気持ちである。
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