Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

自給自足なんて夢の話

2006-03-25 00:50:44 | ひとから学ぶ
 先日「おむすび」で「おむすびを買うなんてうちじゃ考えられないよね」という話をしたが、よく考えてみると、近所に住む妻の友人は、みんな水田の耕作をしていない。もともとまったく水田がなかったのかどうかは知らないが、若干なりともあったのではないだろうか。ところが、果樹栽培を行なうようになると、生産高の高い果樹に転換していった。近所でも水田に果樹を植えているところも多い。その果樹栽培が盛んになる時期も関係するとは思うが、米の生産調整が行なわれる前であったら、果樹という新たな目標がなかったら、傾斜地をどんどん開田して水田にしていったはずである。そのくらい、けして開田できない場所ではなかった。ところが、早い時期に果樹が導入されることによって、多くの農家がわれ先にという感じで果樹栽培に流れていったわけである。果樹の場合は、それまでの水田プラス養蚕という農事暦とは異なり、1年の仕事のサイクルは変化していったはずである。水稲に比較すれば反当収入が多いのだから、米は買って、果樹に集中するという形ができてきて当たり前であった。だから、この地域では、ずいぶん前から米を作らない農家が多かったわけである。

 ところが、米を作らない農家は、今はそんな果樹農家だけではない。従来米を作ってきた農家ですら米を作らなくなった。いわゆる果樹農家が果樹に集約していったように、米農家は会社勤めに移行した。したがって、大規模化するという国策にはまって、零細農家は農業を捨てていったわけである。知らない間に米を作らない農家(ここではもう農家ではないのだろうが・・・)が増えてしまったわけである。人に作ってもらっている農家は多い。水田を所有していても自分では耕作していない、そんな農家になった。

 米はそこそこ買えば高いが、野菜ともなれば「買った方が安い」なんていうことになった。自分たちで作れたはずなのに打算的になるほど、現金に魅力があった。元来自分で作ったものを食べずに、よそで買っていることの方が滑稽である。以前にも触れたが、近所に母の実家がある。その家では娘が都会に嫁に行った。年寄りは子どものためにと思い野菜を作って送ってやろうと思うが、娘はその野菜を喜ばない。考えてみれば、店で買ってくればきれいだ。自家製のものは長持ちがするようになるべく土のついた状態で保存する。だから、いざ食べようとしても、前処理に手間がかかる。加えて生ゴミもたくさん出る。田舎なら畑に持っていって、あるいは家畜の餌にと、カスも利用法はある。しかし、町なかともなればなかなかそれもできない。しだいに田舎の野菜はありがたくなくなるのもわかるような気もする。となれば、田舎の年寄りも、せっかく作っても自家処理(食べきれない)できないとなれば、少しくらいなら買った方が無駄がないと思い、作らなくなる。そんな悪循環(悪とはわたしの判断でそれが良い判断なのかもしれなが)に陥る。

 同じような考えは、すでに町なかだけではなく、田舎でも常のことになっている。かつて農家で自給自足していた人々ですら、かろうじて年寄りが生産しているが、若い者は「買った方がよい」という意識になっている。そんな耕作する暇などない、ということになる。田舎でもコンビニ弁当が大盛況というのもわかる。自給率が上がらないのは当たり前である。農家の子どもたちには、耕作できない子どもたちが多い。なぜかといえば、農業をしたとしても、部分的な作業を言われるままにやっているから、実際自分がやろうとおもってもわからない。年寄りがいるからできる農業も、いなくなればできなくなる。遠足に行ってまわりをみたらみんな買ったものを食べている、そんな風景もそう遠くない。
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