Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

希薄な地域のつきあい

2006-03-29 08:14:26 | ひとから学ぶ
 希薄な人間関係は、田舎でも同じである。いや中途半端な田舎においては、むしろ都会以上に希薄である。長年生きていると、昔の風習も今の風習もそれほどその環境に変化がないものの、風習だけが簡略化されてきたと思いがちだが、実は環境に変化が起きていることを実感していないことが多い。事例であげてみよう。

 ①隣組で顔を合わせる機会の減少。
 ②ほとんどが勤めに出ているから、日ごろ隣人と顔を合わせない。
 ③同じことは年寄りの間でも起きていて、年寄りが集まらなくなった。
 ④やはり同じことが子どもたちにも言えて、外で遊ばないから特定の子どもがせいぜいつきあうだけである。
 ⑤家々は囲いをするようになったから、家に人がいても顔が見えないから挨拶もしない。
 ⑥農業をしないから、農業という共通の仕事の話題がなくなった。

 こんな具合に希薄になっているのだから、かつての風習を継続することそのものが、意味をもたなくなった。

 「葬送習俗」て触れたが、葬儀の中身は大きく変化している。少し前のことである。葬儀が行なわれるとなると、隣組の人たちが寄り合って葬儀のことをいろいろ決めていったのは。ところがついこのごろのことである。それらが変化してきたのは。隣組とはいっても葬儀屋がかかわることで仕事量は極端に減少した。みんな仕事をもっているから、楽にこしたことはないと思っている。まさしく「ありがたい」わけだが、そんな流れは、けして葬儀屋の出現がそうさせたわけではなく、必然的なものだったようにも感じる。たまたま、そのニーズに合った形で葬儀屋が登場したといえる。前沢奈緒子氏は、「葬送習俗の昔と今」において、国立歴史民俗学博物館の山田慎也氏の野辺送り習俗の言葉に触れている。野辺送りをしない現在でも役付けを読み上げる理由について、「葬列には社会的機能もあった。位牌は跡取り、膳はその妻など、死者との関係に応じて葬列の役割が決められていく。これは死者が出ることにより親族の関係も大きく変わるため、その関係の再編成と再確認を行い、地域に周知するためでもあった」と説いている。これぞ理由のために作られたこじつけのようにもみえるが、まんざらそんな意図がないといえない。しかし、そこまで考えて野辺送りがされているとは思えない。この近在では、まだまだ地元の集会施設や地元の寺を会場にして葬儀を行なうことはある。そうした場合を考えれば、現実的に野辺送りをすることは今でも多い。昨年兄嫁の父が亡くなって葬儀があったが、町の中であったが、葬儀場で葬儀が行なわれ、そののちに納骨をした。当然簡略化されてはいるが、野辺送りが行なわれたわけである。そうした葬儀が混在している、いや混在しているというよりは、あまりの急激な変化で、野辺送りが省略できないでいるだけのように思う。前沢氏言うように、納骨が葬儀の直後に行なわないような画一化した時代がやってきたら、野辺送りはなくなるとわたしは思う。なぜかといえば意味をもたなくなるのだから。

 さて、事例にあげたように、地域でのつきあいが希薄化すれば、葬儀だって大々的に行なう必要などまったくなくなる。なにより故人とのつきあいが少ないのだから、告別式といったって知名人でなければ人はそれほど来ない。やはり昨年隣組で葬儀があったが、親戚が少なく、長い間病気で寝込んでいた人ではつきあいがさらに希薄だ。加えて高齢ともなれば知人の多くがすでに亡くなっていたりする。どう考えても葬儀屋がかかわって葬儀をしても、お金だけかかるだけで、むしろ人が少なくて寂しさを感じる。そこまでして葬儀を人と同じようにしなくてはならないのか。告別式の必要性の問題である。密葬のようなかたちでも仏は十分満足してくれると思う。送る気持ちである。さびしい話ではあるが、少子化、あるいは結婚しない時代がやってきて、葬儀そのものも変化せざるを得ないと感じる。

 葬儀だけではない。結婚式だって同じだ。希薄なつきあいの中で、地域の関係者に披露したところで、それこそ冠婚葬祭でもないかぎり、二度と顔をあわせることもない、なんていうことは当たり前になっている。そう思えば結婚式だってもっと縮小されたものになってくるとわたしは思う。「そんな冷たい世の中でよいのか」なんて言葉も聞こえそうだが、表面だけ奇麗事をいっていてもどうにもならないほど地域はすさんできているように思う。いや、それを改善するために、つきあいだけなんとかしろといっても、日常の状態が事例のごとくなっていれば、致し方ないことである。
コメント (1)


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****