Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

外で犬を飼う家が皆無

2006-03-24 08:15:46 | ひとから学ぶ
 昨日の新聞に「犬を室内で飼う」という漫画家の方の記事があった。「最近は犬種にかかわらず、犬を室内で飼うことが推奨されているようです」と始まる記事には、自ら室内で犬を飼おうとして父の「犬は室外で飼うもの」という考えを変えさせたことが書かれている。「うちの近所でも、外で飼われている犬は皆無といっていいほど」といっているが、どちらにお住まいなのだろう。きっと都会かその近郊、あるいは別荘のようなところ、いろいろ考えられる。

 昔から犬を飼うということは余裕がないとできなかったように思う。裕福でなかったわたしの実家でも、犬を飼ったことはなかった。家畜などのように有益な動物とは違う。豚のように残飯を処理してくれるものでもない。どう考えてもお金がかかるのだから、自らの食事を抑えてまで飼うことはできない。そう考えると、農村地帯でも昔にくらべると犬が多い。もちろんまったく有益でないわけではない。子どもがいない、あるいは子どもが巣立って家族が少ないといった人たちにとっては、家族同様の関係をもたらせてくれる。核家族化というものも、こうしたペットの存在を大きくさせてきたように思う。しかし、室内で飼うことにより動物への気持ちが高まることはけっこうだが、最近の子どもたちも、いや大人も含めてペットは大事にできても人を大事できなくなっているように思う。

 さて、冒頭の記事を読んでいて、田舎はともかくとして金銭的余裕がある人たちが住む地域では、おっしゃるように外で飼う家がないのだろう。しかし、わたしの家の近隣ではそうはいっても屋内で犬を飼っている家ばかりではない。確かに寿命は屋内で飼った方が長くなるだろうから、わたしのように外で飼っていると可哀想だと時に思うことはあるが、屋内で飼うほど金銭的にも、時間的にも余裕はない。もしかしたら、「外で犬を飼う家が皆無」というような地域の人に見られたら、なんて可哀想なことをしているんだ、とそのうちに言われる時代がくるのかもしれない。格差をみる尺度になるかもしれない。

 我が家の近所には放し飼いの家もあれば、もちろん屋内で飼っている家もある。我が家ではそこそこ大きい犬だから番犬にはなる。そのとおり、よその人が道を通るだけで吠えている。ところがよその猫がすぐそばを歩いていても気持ちよく寝ている。おそらく餌でつられればスリスリするタイプだ。近所にボルゾイを飼っている家があって、散歩で家の前を通ったりするが、やはりうんともすんともしない。我が家では、「きっとボルゾイを犬だと気がついていないんじゃないか」なんて会話をしている。わたしも近くでこの犬を見るのは初めてだった。ロシアン・ウルフハウンドとも呼ばれるように、かつてロシアで狼狩りに使用されていた大型犬である。我が家の犬は25キロくらいあって大きいほうだが、さらに10キロくらいは重い。足がすらっと伸びていて顔は馬のように細長い。知らない人が見れば、小型の馬にも見えるかもしれない。その犬は真っ白な犬で、まさしく高貴な感じである。とてもおとなしそうで、飼っている家にはサンルームがあって、そこにあるソファにひとりで座っておとなしくしている姿をよく見る。居間とつながっているようで、時には一人でテレビでも見ているのだろうか、くらがりにテレビがついていることがある。我が家の犬はとてもおてんばで、あの年ごろのころは、とてもおとなしく家の中にいるタイプではなかった。もちろん犬だから家の柱なんか噛み付いて傷だらけだっただろう。知人の家に我が家と同種の犬がいて、屋内で飼っていたが、障子からふすまからビロビロ状態だったようだ。ちょっと家の中では飼えそうもない。
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