Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

家庭という道場

2006-03-11 01:01:59 | ひとから学ぶ
 真宗大谷派善勝寺報『慈窓』490号が届いた。「私の姿に気づく」という記事に「なるほど」と思わされた。その記事からの引用である。

 「夫婦げんかも都合でするのです。都合と都合がぶつかるわけです。こっちの都合が正しいと思っていても、向こうは向こうの都合があるわけです。ある先生が言われました。結婚とは絶対に自分の思い通りにならない者がいるということを知らされていくことなんであると。家庭こそが本当の道場です。だから家庭にはお内仏がいるのです。それに気づかせてもらえる。自分の都合に立っておったなと。フーフー、フーフー言っていくのが夫婦です。」

 絶対に自分の思い通りにならない者がいるということを知らされていく・・・、まさしくその通りである。どんなに仲がよい夫婦でも、まったくすれ違いがないはずがない。生を受けて以来、環境の違うふたりが同じ空間で暮らしていくのだからけんかがあってあたりまえで、わたしにいわせればない方が不思議である。とくにお互いに結婚が遅かったりすると、なかなか自分ができあがってしまっているから大変である。「社会的・文化的な性差」でも触れたが、「紀子さんと雅子さんとジェンダー」において、「紀子さんは社会に一度も出ることなく、学生のまま結婚して皇室に入りました。男女雇用機会均等法一期生として、総合職女性のシンボル的生き方をしていた雅子さんとの違いはここにあります。」と述べている。これは典型的な事例であるものの、どこにも当てはまる事例であるとわたしは思う。社会に出てまもない女性と、社会でさまざまなテクニックを覚えた経験者とでは、夫婦間での自己主張に差が出るということである。それは、男が強いとか女が強いとかいう問題ではなく、どちらでもよいが社会経験に乏しいことによって「都合でぶつかる」ということが少なくなるのである。新入社員が、そこの空間に同居する人たちによって染まっていくのと同じで、社会に、またつきあいに未熟な者にとっては年配である者の意見に従順になるのは成り行きである。もちろんお互いが未熟なら、まわりの人に意見を請うだろうし、どちらかが歳はなれた年配なら、そこに頼るということになる。必ずしもそうばかりでないともいえるが、平均的な話である。

 わたしも結婚当初にはお互いの生活意識の違いで、口論がたえなかった。手を出そうとしたこともあった。しかし、まさしくそこが道場なのである。その道場でどう解決していくかが試されるわけである。少子化問題の前に立ちはだかる「結婚しない」人たち。結婚しないということは、こうした道場に立つことはない。恋愛による結婚があたりまえの現代において、離婚が多くなったということは、結婚するときにはお互い理解していたにもかかわらず、思うように行かずに道場から逃げたということになる。それが一般的になってしまったわけで、前述の「結婚しない」人も含めて、家庭という道場で解決してゆくこと、あるいはその道場に立つことを避けているといわれても仕方ないのだ。子どもたちに問題が多発するのも、また同じ問題である。
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