宮古on Web「宮古伝言板」後のコーケやんブログ

2011.6.1~。大津波、宮古市、鍬ヶ崎復興計画。陸中宮古への硬派のオマージュ。
 藤田幸右 管理人

「新安全基準(地震・津波)骨子案」のパブリックコメント要旨(2/3)

2013年02月24日 | どうなる福島原発

前ページからつづく



(1)高さしか念頭にない骨子案の「基準津波」 

前ページの(1)ついては、津波の高さに見合った防潮堤を築けば津波の襲撃は防げるという誤った現象論、そして津波で死ぬという事は高波にのまれて溺れて死ぬことだという市井の感情論に依拠しただけの誤ったポピュリズムである。環境省、復興庁や国交省が進めている防潮堤の根拠はたかだかこの程度である。例えば被災地岩手県沿岸について言えば、岩手県県土整備部、沿岸市町村の津波防災防潮堤の設計思想やシミュレーションの展開はこのポピュリズムに依拠し、ポピュリズムを動員しただけの根拠で防潮堤の建設を強引に進めている。前ページの宮古市鍬ヶ崎地区のシミュレーションとほとんど同じレベルで、浸水域や浸水深を津波被害の主な基準にして、対して防潮堤の高さの程度を安易に防災対策と決めている。そのような基準での将来の津波防災には効果の期待は望むべくもない。東日本太平洋岸の防波堤・防潮堤の死屍累々の現状を、どのように反省しているのであろうか…

事業者の中で専ら防潮堤の高さを進めている中部電力の浜岡原発の場合はこうである

一昨年より全面停止中の原発の、津波対策として、ほとんど即刻、防潮堤の建設を表明、高さ18メートルの巨大防潮堤に取りかかった。2013年2月の現段階でほとんど完成している。18メートル高は「福島原発の波高15メートルから余裕を見て一歩踏み込んだ数字になった」(浜岡原子力総合事務所所長)というものであったが、直近では22メートル高の公開模擬実験を行い、更に4mのかさ上げを表明している。どの高さも、見る通り、聞く通りのことで、安全基準に理論的に科学的に確たる根拠があるわけではない。建設の節目節目には要人の見学を企画したり記者団発表したりして、世論や規制委員会に対する力のデモンストレーションに怠(おこたり)がない。あたかも問答無用の示威活動や政治的対処で難局を乗り切るかまえのように見える。ここから見えることは次のような懸念である。

●規制委員会も高さに偏重している。浜岡原発の防潮堤は高さに偏重しているが、規制委員会がそのような偏重にこれまで異議を唱えているわけではないからである。骨子案にある数々のプリンシプルからもその事に抵触する基準というものは出てこない。浜岡原発としてはこの防潮堤を大黒柱として、そこから「基準津波の策定」「津波に対する設計方針」等を展開するはずである。骨子案に対して複雑すぎ、こまかすぎ、寄せ集めすぎの批判があろうとも、それがどんなに困難でも、一般に電気事業者は結局は追従しついてくるはずであるが、浜岡原発のようにこのような柱のある事業者はこの高さの建造物から逆算して審査に対して、より高い対応性・順応性を示すであろう。詳細は後述するが、早急に(2)「運動の力」のコンセプトによる理論を打ち立てなければこの事業者の平板な政治的動きのなすがままとなる。高さ偏重はけっして原発を津波から守るものではない。

●浜岡原発巨大防潮堤は規制委員会の散漫な観念論の欠陥をついている。総花的であやふやな骨子案は恐竜ティラノザウルスを並べたような巨大物質力を対置されて反論が出来ない構図である。



(2)津波の本質的な破壊力は「運動の力」である

ところが沿岸の住民が日常的に経験し見聞してきた大波や大潮と違って、今次大津波で国民的コンセンサスになっているもの(しかし学会や、委員会での科学的分析はまだまだである…)は津波の絶大な破壊力であった。津波は堤防や防潮堤を越えた。この事だけを考えればそれは前段(1)で述べた津波の大きさ(高さ)によって津波が岸壁や防波堤や防潮堤の高さを超えて浸水したという小さな「想定外」の悪さである。しかし、その時、国民が等しく睨目したのは防潮堤や堤防の破壊であり自壊であったのである。その事による被害の拡大であった。一般に人工物の自然力に対する無効性であった。沿岸の人工物は防波堤、防潮堤にかぎらず、岸壁、建物、橋梁、道路、鉄道、などことごとく破壊された。福島第一原発においては破壊はより本質的であった。原発建て屋にかぎらずあらゆる人工物、パイプや保安機器、補助電源や冷却装置、破壊は炉心を脅かし、また破壊し、その連鎖反応は周辺住民の民生問題まで、──今なお際限なく連鎖反応はつづいている。津波のこの本質的な破壊力は(1)の津波の高さによるものではない。越流や浸水の問題であれば如何なる原子力発電所もあのような惨事にはいたらなかった。越流や浸水が人工物の流出や破壊にリンクし、ある程度比例することはあるが、今次津波の破壊力は別の力,別の破壊のエネルギーであって、ここでは(2)の力として津波の「運動の力」と一般的に定義し述べておきたい。この「運動の力」が今回の新安全基準骨子案において科学的に理論的にどの程度解明され、個別具体的な数字的な数量的な基準としてそれを事業者に求めるのかどうか? さらにそれが統合的基準(3)として提起され、どの程度に厳しいものになるのかに注目したい。

津波の「運動の力」とは?

一般に「運動の力」とは物質の質量とスピード(の2乗)に比例する。計算はともかく、例えば、このたびロシアのウラル地方に落下した隕石の破壊力や衝撃力に世界中が驚かされた。また、例えばわが国では、昨年のつくば市を通過した竜巻の被害状況はまだ記憶に新しい。
前者、隕石の衝突で放出されたエネルギーは数百キロトンだという(キロトンはTNT火薬1000tの爆発力の単位)。また広範囲に及んだ衝撃波は1平方メートル300~500kgの力に相当し建物の壁やガラスなどを破壊した。衝撃波のエネルギーは隕石の重さに比例し直径が2倍になると8倍(2の3乗)に増すという。
後者、つくば市の竜巻は通過速度を含めて瞬間的に240~310km/hのスピードであったという。そのスピードの「運動の力」で津波に匹敵する破壊力を発揮した。
いずれも計算がある程度成り立ち、力の概念もそこそこ理解されている。
東日本大震災の津波の「運動の力」はどうであったろうか? 隕石そのものはともかくとして、付随する隕石の衝撃波にせよ、又つくば市の竜巻にせよ、機能し、作用する物質はたかだか「空気」である。津波の方は、質量が空気の1000倍の「水」である。その沿岸を撃つスピードは? その破壊力は? (私は寡聞にして今次津波のそのような情報を知らない。わずかに宮古市の川代地区で115km/h、同田老地区摂待で30km/hの新聞記事に接した程度である) 隕石にせよ竜巻にせよ、瞬間的時間であり場所も限定的であるが、津波は、繰り返し襲い、範囲も比較にならない距離に及ぶ。しかし、沿岸(原発)を撃つスピードすら分かっていない。公表もされない。報道もされない。分からないという理由だけで政府も原子力規制委員会も国民のコンセンサスに訴える事をやめている。どこの電気事業者も対策PRにはつとめているがこと立地を襲う津波の強さには口をぬぐっている。高さ還元主義と言える。
今次津波でも、来るべき南海トラフ地震津波でも、高さに対する意識は強いが根幹である力に対する意識は希薄である。一般の防災や避難にも当然資するであろう原子力発電をターゲットにした津波の破壊のエネルギー「運動の力」の解明や標準化はどこまで出来ているのだろうか? ありきたりに力の原理論は存在しているが、しからば、個別地域の津波のスピード、津波の波高、震源地海洋から沿岸へ、沿岸から陸上への力の集中と分散、陸上での波&力の動き、また津波の「運動の力」の標準化、「運動の力」の単位、「運動の力」の計量。──はどこで、誰が、いかに探求しているのか?

(3/3)へつづく

 



※ 津波の高さ、つまり陸上での越流や浸水の問題であれば、確かに、それが届かない高台にでも原発を建設すれば済む話である。津波が届かなければ津波による破壊も被害もない。だからだろうか?だからといって、津波の破壊力を津波の高さによるものだと一般化して決めつけ、そのように宣伝されているが、それは間違っている。防潮堤の高さによって原発の安全性が担保されるという短絡思考が幅を利かしている。原発そのものの危険性が一番大事だ。津波の破壊力の科学的メカニズムがまずは解明されないと単に「それは高さに比例する」というバカな原則が一人歩きする。防潮堤の高さは、あるいは原発の安全性の必要条件かもしれないが十分条件ではない。小さな必要条件であり、大きなデマの十分条件である。(2021.12.7 追記)

 

 

 

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