なんとかしてきてなんとかなった

つれづれなるままに、つぅつぅれろれろ

ク○な世界の真ん中で・・・

2019-12-23 22:48:09 | 日記

さらにう○こな真ん中で・・・ 輝いてるってさ。

そりゃ今のところは戦争もない、紛争もない、目に見える悲惨な暴力はない一見平和な世の中だけど、カツカツでみんな息してるんじゃない?

お金に余裕があったとしても、人間関係とか仕事とか見えない鎖に雁字搦めで生きてるのか死んでるのかすらよくわからん。何かに怯えてるのか?と思うほどにハラスメントに対してビビりまくり、被害者を押さえつけようとする根性のヒネた連中がSNSで盛んにバッシングを繰り返すさまは、ほんとここは地獄か?と呆れるほどだ。

 

最近話題の元TBSも、おまえ何言ってるの?ってことを堂々と世界メディアのまえで開陳(これほどしっくりする言葉は未だかつてなかった)するさまは、世界の真ん中でクズっぷりが光り輝いてる、ああ、尊い・・・・。まぁ、酔いつぶれた人は介抱するのが当然で、介抱せずに自分のゲスっぷりを大開放とは。かなりハードルの低い常識すら持ってない。まして、男の前で酔いつぶれるのは云々かんぬんって、たしかに世の中には自分の欲望にだけ忠実な人間以下の猿人がいるのは事実だし、そんな連中に関わったらロクナことがない。だから、事前に注意喚起するわけで、注意を怠ったから被害を受けたお前が悪い、なんてイジメられる方にも問題があるとか、詐欺に引っかかった老人が悪いとか、いっても加害者の悪事がチャラになるわけはないし、そんなこと恥ずかしくて普通は思っても言えないよ。普通はさ。なんとなくそんな人たちって「普通の日本人です」って自己紹介してそうだけどね。

 

これは、バッシングする人たちの品性が下劣というよりも、被害者が泣き寝入りすれば波風立たない、一見平穏な日常、ってかんじで集団の理論に首までどっぷり浸かってる人が多いのじゃないかな。

だって、なにもしなければ何も起こらないわけで、誰かの状態が自分自身の欲望と相関関係であったとしても、ほんの少しだけの自制心で誰からも避難されないし誰からも怒られることはないし330万円を払わなくても済む。まともな常識があれば「紳士的」という称号すらもらえて、中年のおっさんにもワンチャンあるかもしれないでしょうに。

たぶんというか、想像だけど、いままでこの手で巧く行ったことがあるんじゃなのかね。自信満々俺様当然のセオリーの物言いゲスっぷりを見てると、今まで泣き寝入りしてた人がいたと思えてしょうがない。

彼よりもちょっと年上な自分はすでに枯れ果てているから、そりゃ紳士的にできる自信は満載だ。もう、なんか人付き合いが面倒くさくてそれどころじゃない。

 

足の捻挫が治りきらないのに(捻挫はあらかた収まったけど、小さな骨折はまだまだ)今日は一週間ぶりに仕事。

昨日までは一日100歩も歩いてなかったのだけど、きょうはいきなりフルスロットルで、1万2千歩も歩いてしまった。悪い方の足をかばうもんだから、何もない右足の膝が痛み出し、使えない左足の代わりにお尻と腰の筋肉で段差を上がってるから、ガッツリ筋肉痛だ。

 

なんかとりとめがないから寝よう。

 

 

 


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なんか書き足らない日本語雑感

2019-12-22 20:56:56 | 日記

昨日の話は、光の二重スリット実験に例えたんだけど、これって普通に波の干渉じゃね?と自分でも思ったのでもう少し。

 

またまたザックリ感なんだけど、電子銃から飛び出した粒子をどっちのスリットを通ったかを観察すると、干渉波が出来ないという現象があって、しかも、観察しないで一発ずつ光子を飛ばしても、結果的に干渉の縞模様ができる。これってどういうことなん?と物理学者が出したのが、確率論で粒子がどこにあるかは確率でしか表せないし、その確率的な存在が波が干渉するように、影響してるってことになり、その計算式も実験結果と合致してる。とまぁ、面白いのやら面白くないのやらの素人解説なのだけど、ま、そんなところ。

昨日も書いたけど言葉は単体ではボールのようなもので、媒体を使って伝達するわけじゃない。海の波は海水があってのエネルギー伝達だけど、無理やりそれに当てはめると、伝達物質は文化とか歴史とかの背景になるのだろうが、まぁ、それはそれで悪くはないし、納得できる部分もあると思う。

しかし、個人間の言葉の伝達は言葉というイメージを記号化して対象物に投げつけるという方がなんとなく想像しやすい。で、普通に考えると、野球ボールくらいの大きさの玉を投げつければ、直径10センチ位の痕跡を相手に残すわけだけど、それでは解釈できないことが起きる。

あまりいい例えを思いつかないけど、「冬の月」と「夏の月」と別々に唱えたとして、実際の月は変化しようがないのに、イメージする月の情景は違って見える。それぞれの言葉のイメージや印象が影響しあってるわけで、AIが発達したとして言葉を記号としてしか認識できなかったのなら達しない領域で、この確率波のような正体不明で複雑怪奇な影響は人間の根源とか感情とか意識とかなんか諸々に関係していそうなのですよ。まぁ、だから量子論の方に例えたんですが。

 

で、わかりやすく言うと「行間を読む」に近いわけで日本語って構造的にこの作業が不可欠な気がします。この作業を疎かにしてきたツケが現在の拝金的な経済環境とか、本音をさらけ出して差別的なことも寛容するような、そんな反知性的な状態を産んでると。

まぁ正確に伝達しようとする言語じゃないから、個々が受けるスリット越しの情景が単調になれば、たやすくファシズムへと沈んでいくと想像できますわな。

ファシズムと言っても大仰な話じゃなくっても、小さな集団における熱狂的な話にも通じるし、その情景を単純にするのは比較的簡単な作業なような気がして、日本民族のもつ宿痾のようなものだし、だからこそ、長年(まぁ、今も続いているが)民と権力とは一定の距離を置くことで成立して来たような気もしまするわな。でないと収集がつかない今の状態がずっと続いてるはずと思いますな。

これは翻って考えると英語のシステムである民衆主義とか立憲主義とかの表層しか日本では構築できないかもしれないって事で、現状の貧乏でけち臭い主義主張はその成れの果てなんじゃね?なんて気もおこります。

 

なんてことをぼーーーーーと考えて、つまんない話だなぁ、などと最後の休日をほとんど寝て過ごしてた。

あと、環境問題に日本じゃなんで無頓着なんだろうってのも思ったのだけど、これは長くなりそうだし、明日仕事に行きたくない病(不治)に苛まれてるから、重い腰がドッコラショするのは二週間後の年末年始地獄のロード以降だろう。

 

 


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日本語という雑感

2019-12-21 20:38:30 | 日記

 ちょっと思いついたことを。

 

僕が言葉を発する、もしくはこうして文章を書いてみる。

これは自分自身を含めた対象物に言葉を投げかけてるわけで、自問自答なひとりごとも同じ。単語と単語の組み合わせなわけだけど、それは単体だと厳密に言えばひとつの意味が飛んでいくわけで、人や自分にぶつかった時に記号的なものが意味を持った象徴になる仕組みだと思う。

で、自分を含めての受け手の立場で考えたら、人と人の間にはいくつものスリットがあって飛んできた言葉の単語単体では直に命中する子もいるし、スリットに阻まれる子もいる。でも、阻まれてもスリットを抜けてくる余波がありそうだ。有名な「光子の二重スリット実験」みたいな感じ。

スリットが一つなら問題なく通過して、粒子として痕跡を残すのに、スリットを2つにしたら光が干渉したような跡を残すってやつ。

 

 

こんなやつ。これ自体を説明しだしたらとんでもなく長くなるから置いとくけど、ビームガンから発射されるのが光子じゃなくって言葉って想像してほしいってことです。

ビームガンから撃ちだされた光子は確率波を伴ってその確率波が影響して干渉痕を残すのじゃないだろうかってことらしい、と微妙に間違った説明するけど、面倒だからそんなところとざっくりしておくのだけど、言葉も単体で飛んでいくわけじゃなくて、言葉の中には受け手のイメージとか印象とか(二重表現とか)の確率波があって、文章にして送り出したらそれらの確率波のようなものが互いに干渉しあって受け手のスクリーンに縞模様が現れるってなかんじ。

当然そのスリットの形や数は受け手側であり、数も形も違えば干渉痕の形はそれぞれ違う。

 

と、すれば、言語って風呂敷を広げてみたら、言葉一つ一つが二重というか多重のスリットを通過するわけで、その際にその言葉自体が持つ発音とかイメージとか、そして文章の持つ文法とかがパターンに影響を与えることになりそうで、自分は英語が話せないし、というか、英語で思考できるわけじゃないから、ほぼ想像で言ってるけど、英語は単語の「置かれた位置」が重要で、日本語はあまりそうではなさそう。ってところで、かなり違ってくるはず。

そして、言葉の位置が重要となると、その認識する場所はスリットを通過する直後のほうになりそう。日本語はセンテンスの全部が終わらないと意味が反転してもおかしくないことがザラだから、スクリーンの痕跡を見る方向になる。

 

困ったことに、言語として正確さでいえば、確率波でぼやけてしまった痕跡を眺めているのが日本語の正体みたいに感じる。

日本語に正確さを求めると、法律関係の文書のように無味乾燥するまでスリットを塞ぎ、それは日本語とは呼べないくらいの難解さになる。

僕らはきっと、同族意識の上にあぐらをかいて、自分のスリットの創りだした模様をぼんやりと眺めるばかりなのだろう。そしてそのスリットが文化的な位置にあってこそ、文化としての意思疎通が可能であり、ひいては「読解力」などと矮小化されてはいるものの文化と個とのつながりは、その一点で収縮されてるかんじがするなぁ。

現在の日本社会の状態は芳しくないと思う。まぁ、オブラートに包んじゃった言い方だけど。

これはまぁ、いろんな原因が考えられるのだけど、「社会正義」とか「文化的素養」とかそれらの言葉の力が薄れてるというか、「差別は絶対悪である」というような反論すら恥ずかしい事なのに、臆面無く差別言葉がそこら中に漂うわけで、なにかスリット的な余計な部分が空いちゃってる?って思わずにはいられない。

まして、「法に触れるようなことは一切していません」と強弁するとおkって、いいおっさんなのに、とほんと残念な気持ちしか起きないことばかり。もはや、落とし所すら存在が疑わしいくらい、こんな連中とは話が出来んと思ってしまう。

 

いや、元TBSの話だけじゃないけど、休みの間、普段はあまりみないテレビを横目で見てたけど、法に触れないとか、儲けてますとか、コストダウンですとかばっかり。いやね、もうね、なんだかね、って思った一週間。

 

と、捻挫で一週間休業中で、来週から出勤(医者の診断書は一ヶ月)(しかも上司にちょっと騙されたぎみだが)で、厭世モードに入りきってるわけだけど、子供は今日が終業式で、明日から張り切ってゴロゴロする宣言をさっき聞いた。

杖ついて歩くのってけっこう全身運動であちこち筋肉痛。行きたくないよう。。

こんな歌聞いてスクリーンにいい感じの模様を眺めていたいものだわさ

 

 


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13日の金曜日

2019-12-14 23:36:16 | 日記

は、昨日なわけだけど、はいはい、

 

 

仕事中に強烈に足をひねってしまい、強度の捻挫。

今朝、ほとんど歩けなくなってて、仕方がないので仕事を休んで午前中に整形外科へ。

なんとか靭帯損傷、なんとか骨骨折だって。

ちょいと近年稀にみるようなひねり方(どうひねったかもわからない)アンド結構重量のある荷物が荷重されてたから、ひょっとしたら折れてるかもと思ってたのだが、シュッとした骨には異常なしだけど、足の甲にある小さい骨の隅っこが折れてた。折れてる部分を触っても痛くはないのだけど、なんともそうらしい。

痛いのは甲から足裏にかけての靭帯全部で、簡単なギブスでは心もとないかんじはしないでもないけど、なにはともあれ、動けない。

 

骨折は少し欠けてるくらいだから手術する程でもないと、なんだか諦めてガッツリ休めるわけでもなく、年末のクソ忙しいこの時期、大手を振って休めるわけもなく、たぶん一週間くらいで痛む足を引きづってなにやかにや、仕事をしなきゃならんだろうて。なんか、、、なんだかなぁ。

 

んで、松葉杖をかりたのだ。二本。触ったことはあるけど、これのお世話になるのは生涯初だ。

帰りしな、嫁が買い物をするからと、スーパーへ行った。もちろんスーパーの中をうろうろするのは嫌だから車で待つわけだけど、のどが渇いてたからジュースを買おうと自販機まで、約50メートル。

仕事で10000歩くらい平気で歩いてるから、50メートルなんて誤差の範囲・・・・のはずだけど、松葉杖での50メートルはあそこは北京なのじゃないか?というくらい遠い、そして険しい。

健康の時には気が付かないのだが、ほんのちょっとの段差がマッターホルンの絶壁・・・は言いすぎだが、一級河川の川土手くらいの感じに思えてくるくらい足元に気をつけないと転んじゃいそうだ。そして、自販機まで車から真っ直ぐ行ければ50m位だけど、段差のないスロープとかの安全地帯を探して行かなきゃならないし、なにせ普段はなんの気無しに通ってる砂利を轢いてるだけの犬走りなんかとても通行不可。

慣れてないのはそうなのだけど、50メートル往復、しかも帰りはペットボトルを持って、というなんか考えなしな状態は不都合に見舞われてない無知からなのは重々承知してるのだけど、二回転びそうになり、はずみで左足を地面について飛び上がるほど痛んだわけで、普段から松葉杖とか、車いすとか、補助器具を必要としてる人たちにはデフォなんだ、と、なんだか申し訳ないような気になる。

 

人間の想像力なんてやっぱり大したことなんてない。自分自身が痛まないと本当の事なんか本当に理解できやしない。なんて今更ながらなのだけど、優しい世界はまだまだほど遠いし、万物の霊長などと片腹痛い。そして人間がこれ以上の進化を得る部分はこの部分だろう。想像力と共感力。

 

まがりなりにもシステム上で具現されてるのが議会制民主主義で、僕ら個人の脳内でも葛藤としてそれは存在するのだけど、これらの個人的垣根が取っ払われる方向に進化していくのだろうと勝手に想像してる。

 

にしても片足でぴょんぴょん跳ねながらトイレに行って、二階から降りるのも登るのも這いつくばるから、痛む足どころか全身が筋肉痛だ。

自分がまだ若い頃は駅とか公共施設にすら階段しかなくって、車いすどころか松葉杖とかの歩行困難の人たちは絶望しか感じなかったろうなぁと、駅の急な階段を昇るのがタリィって思ってた学生時代を思い出しながら、人はいつなんどき身障者の仲間入りするか本当にわからんぞ、と実感しているところ

 

効率とかコストとかそんなもんどうでも良くなくね?最大公約数的な社会ってたぶん進化しない。社会は「数」でできてるんじゃないって個人が気が付かないと、隣をチラチラ眺めて自分の損得ばかりの小賢しい不幸に満ちた人生になっちゃいそうだ。

 

さっき包帯変えてシップを貼り直したら右足の倍くらいの体積に腫れてた。そろりと床に左足を落としたら、なんと、土踏まずがなくなってた。

それでも「仕事に出てきてくれませんか?」などと電話があったわけだけど、年末だからそりゃそういう話になるだろうけど、いかんせん歩けねーし、靴どころか靴下も入らないしね。

 「人間はどこまで耐えられるのか」試さなくていいよ。


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