なんとかしてきてなんとかなった

つれづれなるままに、つぅつぅれろれろ

沖縄に思うこと

2018-10-01 11:39:06 | 日記

昨日投開票だった沖縄知事選挙は玉城候補の勝利。

最近の情報収集手段がほぼツイッターばかりだったから、タイムラインに流れてくるのはいわゆるリベラル系の書き込みばかりを眺めてる事になってた。

もちろん人間は見たいものしか見ないし、聴きたいことしか聞かない。保守系といわれるネトウヨさん達の中国陰謀論なんか二三回聞いたらちょっとゲンナリで、もうちょっと捻ろうよ、などとも思ってしまうし、これを本当にリアルで信じてるなんてと、驚愕通り越して人間の脳の想像力の可能性がどこまでも果てしないことを痛感したりもする。

で、今回もというか「デマ」とか「嘘」とか「甘言」とか「空手形」とかいろんな言葉が飛び交ってたわけで、今回の沖縄知事選挙、いろいろと考えさせられることも多い。

日本国中、これほどわかりやすい政治的論点がある県も珍しいと思うのだが、それでも投票率は70%を超えない。玉城新知事は草の根でよく掘り起こしたとは思うし、政権与党候補も組織締め付けで投票を上げたはずなのだが、それでも63%くらい。贔屓目に考えて、一族郎党主義の強い人たちがいて、対立候補に投票を依頼されたけど信条から投票したくないから投票そのものを放棄した、というのもあるだろうけど、おおむね誰がやっても同じ、とか、どうせ変わらないとかで棄権も少なくないはず。

選挙は地縁血縁、職場のパワーバランスと個人的な裁量以外のファクターも多い。そもそもが個人の権利であり、個人の自由判断に依らなければすでに民主的じゃないはずだが、日本人の最も弱いポイントがこの個人による自由判断だったりもする。

いや、ここで日本人ってくくりは正確じゃない。

日本は伝統的に貧しい。集団でコメを作り集団でやっていかないといけなかった。沖縄のような離島はもっと過酷だったろうと思う。だから村社会とか一族とかのヒエラルキーは強固なのではないかと。その中での個人の自由意志は、権利という後付の概念であり、それが果たして本当に機能するかはけっこう難しいと思う。

それは頼みの綱が「無党派層」というリベラル勢力の脆弱基盤とほぼ対極になってしまったわけで、これは今の宙ぶらりんの貧しさ、食ってはいけるけど人生の大半を稼ぐために使う、というある意味人間性の否定ギリギリを綱渡りしている状態だと、理性よりも絆(これは牛馬をつなぎとめてる綱のことを指す言葉だ)とかを優先させてしまい、世間の風向きでどっちにも傾いてしまうし、大きな嘘に抗うこともできない(嫌韓系の差別とか)理性的に考えればみんなが幸福ならば自分も幸福になれる可能性が高くなる、というのをすっ飛ばして、一部の利権を守ればそのオコボレに預かれるという、トリクルダウンという大嘘に逃げ込んで、カモネギ状態に自らなってしまう。

極端なことを言うと、沖縄ですら30%の人が選挙にいかないし、国になんとかしてもらおうと考える政権与党支持者が有権者の27%もいるわけで、これは「生かさず殺さず」なスパイラルに入ってる気がして、もしかしたら産業革命時代の民衆が一旦どん底まで塗炭の苦しみを味わうまで目覚めないのかもとすら思う。繰り返すが沖縄ですらなのだ。

ということは新知事のやるべきことは、辺野古はともかくと言っては語弊があるが、県民の生活向上で経済の立て直しであり、しいては表層を撫でるような上っ面だけのアイデンティティ(共同体との同一性という意味も含まれてる)じゃなく、日本語での「自己同一性」を広く高める事だと思うし、そう願っている。

まぁ、どうであれ、自分の道は自分で決める、それが根底になければ保守もリベラルも極右も極左もどれも似たようなものであり、人は必死に言い訳を考えるだけの存在になる。

 

 

まぁ、うちの近くはあの太郎ちゃん(じじいの方)を排出してる福岡県だから、本当に羨ましいと思う。


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