前にも言いましたが
台風近づくと
ギックリ腰になりやすいというのは
私の持論で。
正確かどうかはわかりません。
今日
さらに九州に近づく台風🌀
こりゃまた腰を大切にしなきゃと思ってたら
ギックリ腰先輩から電話が来て
「なってしまった❢」
ひぇー。びっくり。😅
この痛みはなった人にしかわかりませんが。
私はなった日結構きつかったのですが
ギックリ腰先輩は軽めだったと。
私は洗面するとき少しかがみ、右手で左側の何かしらを取った瞬間ぎくっとなりましたが
掃除機かけるのに椅子どけた途端だそうで。
ご近所の方はお箸持ち上げた途端とか
本当にこれだけはいつ何時来るかはわかりません。
無理をしてる時にならなくて
何でもない時になったりするので
まさに魔女の一撃。
酷い時は這うように少しずつしか動けず身の置きどころがないもので
人類の進化みたいに屈んで丸くしないと動けなくて
段々と身体が起きるようになるんですけど。(笑)
私も昨日はゴリラくらいでしたが😅
今日やっと人類に戻れました。
はー。よかった。
いろんな試練はあります。
それも喜びのひとつ。
生きているからこそ
いろんなことはあるものです。
いろんなことはまるで波のように引いてはまた押し寄せて来ます。
逃げることはできないのです。
親のこと。介護のこと。
様々な課題は決して逃げられない。
まっすぐに向き合わないといけないし。
自分のやるべきこと
それ以外のこと
両方はできないよ、と言うときは
どうすればいいのでしょうね。
全てを完全には出来はしない。
私の能力を最大限引き出そうとしてくださる方がおられて
環境整備してもらえて。
それが私の創作人生を作ってくれてる。
遅咲きの、スタートラインにつくのもめちゃくちゃ遅かった私の人生の中の
ようやく見えてきた色んな波。
喜び。
若い頃には生きることだけだった自分が
今このように創作の世界に引っ張って頂けたこと
深い深い感謝しかないのです。
その通りに行きてゆけば
確かに間違いないのです。
創作人生としては。
家族もみんな応援してくれて誰も反対もない。
ありがたい限りなのです。
あと何年生きられるのかわからない人生後半にやっと巡ってきた自分の青春。
若い頃には許されなかった環境や世界がようやく自分の元にやってきたのですから。
その通りに生きてゆけば
確かにどんどん豊かな世界に引き込まれる。喜びは広がる。
そのために人が寝ている間も努力したり泣いたり笑ったり
それもみんな含めてありがたい。
失敗したり真剣に叱ってもらったり。
人の心を傷つけてしまった事も多いし逆もある。
失敗の数は本当に多くて決して優等生でもない。
それでも必死に必死にここまで辿り着けて。
色んな人々との、ふしぎなご縁や巡り合い。
助けて頂き導いて頂き。
まだまだやるべきこと多く
悩み苦しみ
喜び。
深い気持ちから現れる何かしらの情動は作品達にエネルギーとして乗ってゆく。
ようやくようやく
自分の舞台を作れる段取りができつつある。
これからなのです。本当にこれから。
世間では
その年齢で
いやいや、やるべきことはおるごーるじゃなくて介護でしょう。
色々。
舅、姑、父。3人の凄まじかった介護。
その度創作は頓挫しながら再開してここまで来ました。
私にとってはもう最後のチャンス。
でももう絶望はしないし苦しみにまみれることもしないです。
喜びながら楽しみながら粛々と。
毎日毎日母と話しながら掃除したり片付けしたり。
創作時には遮断しなければとても作れはしない。
甘えてくる母のことを拒絶することなどできない。
今日は幼い日に歌ってもらった童謡を一緒に歌いました。
「歌詞はなんだったかねえ?」
YouTubeで鳴らしながら電話を続ける。
お茶碗洗いながら、片付けながら母と2人で虫の声の歌や色んな歌を歌い続ける。
満足した母は
「さあ、早く寝なさいよ」
と、笑う。
夜中に博多の友とラインで語る。
チェリストさんのこと。
とあるラジオのパーソナリティさんの演奏家を紹介される言葉はとても素直でした。
おるごーるもチェロも木が歌うと言うことでは似ています。
人は心にみんな琴線を張っている気がするのです。
それをそれぞれが奏で
共鳴共振して広がっていきますね。
理屈とかそういうものは二の次三の次でいいんです。
うんちくをいくら重ねても
ひとつの事象に適うものなどありませんね。
チェリストさんのファンクラブに名前を連ねても自分はいつも忘れられる存在で(笑)
そのファンクラブに必要ではないのかもしれないなと想う時もあります。
私はただ演奏家の方の演奏から得た波動が心地よくて涙出た
それだけ。
その演奏家の方の経歴とかいろんなことは興味がなかったのです。
私はただ
音色に魅入られただけなので
ファンクラブの集まりで語り合われる場に入っても照れくさいし恥ずかしいから話もしに行かない。
これは子供の頃からおんなじで
よく学校の先生にも名前を忘れられたものです。(笑)
あまり存在感がなかった。
演奏家の方も私に何度も「はじめまして」と言われるので
おそらく学校の先生と同じだなあと想うのです。
けれどもそんな事は関係なくて
皆さんが楽しそうに親しげに語られてる姿を遠くからじっと見てるだけだけど
私はそれでいいと想うのです。
一生名前さえ覚えてももらえないかもしれない。
東京のコンサート行って
京都のコンサート行って
色んな場所で演奏聴くだけ。
何度行ってもはじめまして。(笑)
ただそれだけでいいのかもしれない。
所属するとかしないとか
覚えてもらえるとかもらえないとか
そういう次元で物事を捉えているわけじゃないです。
心地いいなと想ったら聴くだけ。
それだけなんです。
人の心と言うものはとらえどころはないのですが
音色の存在は強くておおらか。
人の心を追いかけた所で仕方ない。
諸行無常だと
本物の喜びはその先にあることを私はある人に教えてもらいました。
その喜びの中から生まれて来たのが
今作ってる新作の数々。
心は安定し
喜びは増しました。
不満もなくただ喜びと感激と感謝が
私の背中を押してくれました。
透明だと思っていた自分の存在は
透明ではないのだよと教えてもらった。
自分を信じ、自分も愛し
そして人々へも愛を向けられるのだと。
自分と言う存在も尊く大切なのだと深く深く教えてもらえたからこそ
関わる人への愛情も生まれて倍増しました。
自分など愛するに足らぬ人間と長年思っていた事が覆され
自分も大切だなあと思えたんですね。
ありがたいですね。