気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

壇上伽藍へ

2015-10-14 | 旅行記

標高約850m~900m、周囲を山に囲まれ、東西4㎞、南北2㎞の盆地中央に伝説の三鈷の松(サンコノマツ)があります。

この松の周囲に、根本大塔(コンポンダイトウ)が816年頃から建てられ、それから約70年後に完成します。

さらに金堂(コンドウ)と呼ばれる本堂や、多くの伽藍が着工されます。そこでこの一帯の正門として819年、南側に中門が建てられます。

この未開の地に空海が伽藍を建て、さらに宿坊が建ち、多くの人々が生活するようになると大門からの道は参道というよりは街道になり、今では周辺に約4000人が生活する大きな街となりました。

学校、病院、銀行、警察、飲食店、雑貨屋と何でもあるそうです・・・遊技場、映画館、教会は無いようですが。

・・・この街のメインストリートをゆっくりと進み、中門前の駐車場に車を入れる。・・・目の前に鮮やかな中門が待ち構えています。

参拝客もそれほど多くなく、静かな時間を過ごせそうです。

時間は11時半前、平日、天候に恵まれ、はやる心を抑えて中門の前に立ち一礼。

・・・中門は長い間、幻でした、・・・819年に建てられて、焼失、再建の繰り返し後、1843年に大火があり西塔のみを残して壇上伽藍は残念なことに焼き尽くされたそうです。

それ以降中門は礎石の状態が172年間も続き、・・・幻から何と、今年4月2日現実に・・・そうです、再建され落慶法要がありました。

目の前の8代目の中門は、高さ16m、幅25m、奥行き15m、檜皮葺(ヒワダブキ)の屋根、木造2階建ての大きな楼門です。

さらに進むと、中門を守っている四天王がにらみをきかしています。

右手に槍を持つ増長天が南を守り・・・左手にも宝塔のようなものが・・・横から見てみよう

左手には宝塔のようです、・・・かなり前傾した状態で据付けられています。西隣には

剣を持った持国天が守っています。nnn・・高く掲げた左手が握っているのが・・・三鈷の松(サンコノマツ)の神話にも登場する三鈷杵(サンコショ)のようです。、しかし、持国天は東を守るのでは・・・?、こちらは南側で中央より西側(南西)のはずだが・・・、中門の内側へ進んでみよう・・・

ところで、何か画像がスッキリしていませんか?・・・四天王の像が、・・・色が違う?、新規に造られたからでしょう・・・、スッキリしているのは・・・鳥除けなどの金網が無いのです。

右手に筆、左手に巻物、この像は広目天、通常西を守ります。・・が、この位置は中門の北側であり中央から東側(北東)、西では無いですが・・・隣は

右手に宝塔、北を守る多聞天でしょう?。・・・多聞天はこの位置でOK。・・・イヤ、右手は何も持っていませんでした、左手に槍でした、多聞天でもないようです。

・・・さて資料によると、南側の黒いつや消しの2体の像は、1843年江戸時代の大火の中、何とか運び出されて保存されていたとのことです。

開創1200年に合わせ修理された像で、2体とは二天門で守ったようです。持国天と多聞天(毘沙門天)が修理されたとあります。

とすると、二天門の名残で、中門の南側(入口)から見て、右は増長天と思ったが宝塔を持っているし(厳密な決まり事も無いようで)修理された多聞天が正しいようです。左は持国天です。

修理された2体は、昨秋10月23日に据付けられています。そして、翌10月24日は、中門内側に新造された2体が据付けられて、四天王が完成しました。

中門の内側(北側)の像は、入口から見て右側の像は、広目天で間違いないでしょう。何か・・・蝉(セミ)がいます。

蝉は、地中にいる期間が長い、・・・この特徴は、関係ないようです。蝉の声、遠くまで届きます、この像・広目天は遠くまで存在感を示しているのでしょう。

さて、左が多聞天は・・・間違えで、増長天となります。こちらは、・・・日本最大のトンボが・・・

オニヤンマが話題になっています。トンボは前向きにしか飛ばない、・・・この増長天は、後ろに退却せずに守り抜く・・・トンボのように・・・

・・・高野山総本山 金剛峯寺からの発注により、北側の2体は松本明慶師によって造られたとあります。これらの四天王は、人気者になるでしょう。

中門から石段を少し上がると、本堂です。ここでは金堂、・・・正面のこちらに3本の回向柱(エコウバシラ)

が・・・紐が下がっていますのでこの紐を持ち軽く引きます・・・

紐は柱の上から金堂内部の本尊「薬師如来」につながっています、・・・念願の高野山に来ましたと参拝の挨拶をします。内部は後程ゆっくりと鑑賞させて頂きます。

・・・ここで、根本道場 大伽藍のパンフレットから、分かり易い案内図を

では最初に神社に向かいましょう。・・・すぐ近くに、今夏、TV番組でも紹介された仕掛けがある建物がありました。

六角経蔵(ロッカクキョウゾウ)です。

円形の石造りの基礎の上に木造の基礎が乗り、その上部は六角形の二層式建物、地上1m位のところにタコの足状に取っ手が出ています。

近寄って来られたご夫婦と周囲の4か所の取っ手を各々両手で持ち、セーノと4人で押して(建物を回転させる)もビクともせず、若いアベックに一緒にと声を掛けるが・・・体力が無いのか2組に遠慮され、チャレンジを断念する。

その西隣に立派な建物がありました。神社の拝殿として、六角経堂と同じ平安時代後期、平家が活躍している頃の建立とあります。

この山王院も焼失し、1845年の再建とパンフレット(当伽藍で受領)に書かれてますが、1843年の大火で全焼せずその前の火災(1521年)後1594年の再建とも言われています。

この裏に回ると目指していた神社があります。

御社(ミシロ)と呼ばれ・・・案内板がありました。昔、この西側は小高くなっていて御社山(ミヤシロヤマ)と呼ばれていたそうです。

空海さんは伽藍建設にあたり、山々に神が宿る日本の伝統を大切にしながら、密教(仏教)を発展させようとする神仏習合を最初に実践された方でしょう。 

自然を大切に敬い、多神教を受け入れる東洋の思想と、ユダヤ、キリスト、イスラム教が、神は唯一とする一神教と大きく異なるところです。

この御社(山王院本殿)で高野明神社、総社から大永2年(1522年)と記された部材が発見されたそうです。

この先にも歴史を感じさせる建物があります。この西塔は伽藍の西北の端に建てられており、1843年の大火での消失は免れています。

案内板です。

擬宝珠(ギボシ)高欄付多宝塔・・・一階は普通の四隅がある建物で、屋根は四隅が上部で円形になる四角錐、その上部は円筒になり、さらに屋根、四角錐でネギ坊主のような頭を付けた多宝塔です。

高さは、27.27m、内部には本尊の胎蔵大日如来・・・

先程の金堂の東側に建つ根本大塔(この後、内部の立体曼荼羅を見学します)と、この西塔で(二基一対)密教の世界を具体的に表現されたようです。

胎蔵界、金剛界の世界観、・・・この辺は一夜漬けでは理解できず機会を見て勉強しましょう。

近くに、これぞ和風というべき鐘楼がありました。この被写体にこの風景、・・・四季折々に訪れると実に良い写真が撮れるだろう・・・自然と調和し、うれしい時間が流れる・・・

隣は清潔感のある建物・・・これは孔雀堂(クジャクドウ)ですね、立札があります。

江戸時代ではなく、昭和元年(1926年)金堂より出火した大火で焼失とあります。昭和58年(1983年)弘法大師御入定 1150年記念事業で再建されました。築32年、なるほど綺麗な建物です。

孔雀堂の本尊は、快慶作重要文化財の孔雀明王像です、(昨秋、サントリー美術館で拝見しました、豪華で大きく素晴らしい本尊でした)・・・本物は霊宝館にあります。

隣は准胝堂(ジュンテイドウ)。創建は973年以前のようですが、明治16年(1883年)の再建と書かれています。

ここまで来ると左に御影堂(ミエドウ)がありますが、前方が気になってきます。

前方の朱色の宝塔が、大塔です。根本道場から、根本大塔と呼ばれているようです。

右側は、金堂(本堂)です。そして右手前に、緑の木々があります。これが三鈷の松です。

松葉も探してみましょう。・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする