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ヘタレ創作ヤログ~人生これでいいのだ!!

原点に立ち返った、創作ヤロウのブログ!
「負け組プータログ!!」からタイトル再変更。でも、今まで通り幅広くいきます~

ホワイトカラー・エグゼンプション

2007年01月13日 00時17分59秒 | コラム
とりあえず、参院選までは提出されないであろう、事実上の労働時間規制解除を目的とした法案で、すでに欧米では施行されている。

ただ、現在の厚生労働省案や日本経団連の提言は適用基準が欧米に比べて甘く、労働者=個人の権利を著しく侵害する恐れがある。

特にアメリカの場合は、「管理職、専門職、運営職のいずれか」、「業務が単純な反復労働ではない」、「週給が455ドル(約5万5千円)以上の固定給である」の3条件をすべて満たす労働者にのみ適用されている。
つまり、「労働時間を自分でコントロールできる立場にあり尚且つ仕事量に見合った報酬を得られる労働者」であることが前提条件なのである。
また、専門職を除く管理職、運営職においては、年棒10万ドル以上(約1千2百万円)と、金額面での条件が厳しい。

現段階での日本版ホワイト・エグゼンプションは、年収800万円以上で「裁量権をもっている管理職、またはそれに準ずる労働者」が対象となっているが、基準をもっと低くする案も検討されている。

安倍総理は「残業代がでなくなれば、定時退社し家庭も円満になり、少子化にも歯止めがかかる」と述べているようだが、「組織で働く」というのはそう単純なことではない。

「裁量権がある」といっても、かなり限定されており、実際の業務に合わせざるを得ないのが実情で、通常管理職など裁量権があるといわれる役職についていれば、「何が何でも定時に退社」というのは不可能である。

自己完結する仕事ならともかく、会社の業務には必ずクライアントや取引先といった、労働者の裁量では動かすことのできない「他者」があるわけだから、それらを無視して定時退社などしようものなら即座に業務に支障をきたし、結果的に処分対象となってしまう。

今でさえ実際には「サービス残業当たり前」となっている企業がほとんどであるのに、過重労働が労働基準法に抵触しなくなることで、労働者は事実上会社組織の「兵隊」として拘束され、業務が終了するまでは無制限に労働を強いられることになりかねない。

個人の権利が欧米諸国に比べて格段に制限されている日本において、欧米型の労働システムをいきなり導入することは、無謀である。

また、ホワイトカラー・エグゼンプションを導入した場合、懸念されるのが「非正規雇用者」の増加である。
つまり、管理職のみ正社員であれば、その部下は会社が責任を持つ必要のない派遣社員や、賃金が安くいつでも解雇できるパートタイムでまかなえばいい、という企業が、特に中小零細企業に増えてくることが予想される。
これは、政府が目指しているはずの「正規雇用の増加」とは正反対の結果を生み出す可能性を示唆している。

ホワイト・エグゼンプション導入の大義は「(短時間で仕事を処理できる)能力の高い労働者を確保する」ということだが、自分の経験上では「何が何でも定時退社する」のは大抵能力もしくは意欲に疑問のある社員である。
能力の高い社員(たいていは管理職)が、彼らのしりぬぐいをすることになるため、結果的に労働時間が延びるのである。
それでいて、「800万以上」という規定があれば、経営側は逆に1000万以上の報酬が得られて当たり前の労働者に、「800万」と規定することができる。
経団連が唱える「結果主義」には必ずしもならないのである。

現段階でこの概念を法制化すれば、間違いなく労働環境を悪化させ、労働者の「企業離れ」が始まることが容易に予測できる。
現に、会社を辞めて田舎で自給生活を始める世帯が増えつつある。

「企業立国」である日本では、何かにつけて企業が優遇されているが、あまり弱者を締め付けすぎると、やがて大きな代償を支払わなければならない時がくるかもしれない。

以前、現在のイノベーション大臣がテレビで「会社あってこその社員でしょう」と息巻いていたが、その社員が会社から消えてしまえば、即座に経済がストップし、1日にして日本という国が崩壊してしまうことを、この国のリーダーはもっと真剣に考えるべきではないだろうか?

死ぬくらいなら、逃げろ

2006年10月31日 20時15分18秒 | コラム
「いじめ」がまた社会問題化している。
はじめて「いじめ」にスポットライトが当たったのは、85年の中野富士見中の事件だ。
教師も参加しての葬式ごっこや暴行など、凄惨ないじめの末の自殺だった。
同世代なのでよく覚えているが、あの年の中野富士見中の受験生はかなり打撃を受けた。私立高のほとんどが中野富士見中の受験生を事実上拒否したのだ。
その後、報道こそされなくなったものの、「いじめ」は常に学校にはびこっていただろうし、文部科学省のデータなどまったくあてにならない。

そもそも「いじめ」とは何なのか?

影で悪口を言われる。
村八分にされる。
罵声を浴びせられる。
暴行を加えられる。

上記がすべて「いじめ」だとすれば、「いじめ」を根絶することは不可能だ。
何故かといえば、少なくとも上から2つまでは子供社会のみならず、大人社会でも公然と行われている、いわば「必要悪」のように扱われているからだ。
自分自身も、陰口をたたかれたり、村八分にされたりといったいじめは、子供の頃から現在に至るまで、受け続けている。
だが、こんなものはいちいち気にしていたらやってられない。
だからといって、自殺するのは愚の骨頂。
陰湿ないじめは、相手にしないのが一番いい。
一切無視すればいい。
反応しない相手を、言葉や態度でいじめるほどつまらない「いじめ」はないんだよ。

問題は3つ目以降のいわゆる「実力行使」や「脅迫行為」。
いじめられる側にとって、これが恐らく一番のネックになっているはずだ。
誰だって暴力は怖い。
誰が好き好んで殴られる?
だが、冷静に考えてみればわかるはずだが、殴られる恐怖よりも遥かに死ぬことの方が怖いはずだ。
何故殴られるのが怖いのか?
痛いからだろう。
何故死ぬのが怖いのか?
恐らく苦しいであろうからじゃないだろうか?
殴られるよりよっぽど辛い行為を、何故選ぶ必要がある?
自殺なんかしなくても、こういったいじめの解決方法はいくらでもある。
まず本人は、「絶対に学校にいかない」ことだ。
その理由がいじめであることは必ず両親や担任には知らせること。
後は両親や学校がどう対応するかを家にいて静観すればいい。
完全解決にいたるまでは、絶対に学校に行かないこと。
いじめられる当事者がすることはこれだけだ。
後は両親の問題。
両親はどう対処すべきか?
自分も「いじめ」の経験者なので、あえてここで公表するが、うちの親は「警察に委ねるぞ」と学校&いじめ側を脅したのだ。
その結果、職員会議が開かれ、喧々諤々の議論が行われたようだが、学校側は結局具体的な対策はしなかった。恐らくほとんどの教師達は保身に必死だったのだろう。
が、「警察」の言葉にいじめていた側がびびったのだ。
彼は土下座せんばかりに謝ってきた。
つまり、「いじめ」を解決せんとする場合、一番重要なのは両親が学校&いじめ側と全面戦争するつもりで、一歩も引かずに交渉すること。

学校を追い詰めるのは簡単なことだ。
俺らの世代では、いじめ対策私塾があり、彼らの武器は「マスコミに公表する」ことだった。この一言を校長に言うだけで、交渉が有利に進んでいき、大抵のいじめは解決されたとのことだったが、今ならもっと簡単に、それこそ「救ってやろう」と思う大人なら誰でも出来るやり方がある。
それは「いじめ」の克明な内容と学校名、訴えられることを覚悟できるならいじめ側の名前まですべてインターネット上で公開すること。
これを武器に学校に解決を迫るわけだ。
あるいは弁護士に相談するという手もある。
大人が束になってかかれば子供社会のいじめなど解決しないわけがない。
要は大人達が揃いも揃って保身を考えるから、何も出来なくなるのだ。
それこそ徹底的に両親が学校を攻撃し続け、学校側を降参させなければ「いじめ」は解決しないし、我が子を守ることはできない。

それができない両親の場合、最終手段として「転校」という手段がある。
この手段を非難する意見もあるが、手段のひとつとして考えられるべきことだと思う。
両親も、周りの大人もどうしようもない場合、転校というのは有効な解決策ではなかろうか?
救えない子に「転校するくらいなら自殺しなさい」なんて言えますか?

いじめに耐えうる精神力はもちろん必要だが、それこそ人それぞれで、一朝一夕で精神力が強くなるわけない。これは現在進行形のいじめ対策とは切り離して考えるべきだ。
なんといっても、現在の学校教育ではいじめられっ子には逃げ場がない。
救いがまったくない状態で、「いじめは世界中どこにでもあるのだから強くなりなさい」と説得することのは愚の骨頂。
それこそいじめられる側を追い込むことになるわけで、「自殺するしかない」と考えてしまう。

自分の命、我が子の命を救うためには手段を選ばない。
世界中を敵に回しても守る。
いじめられる側に決意がいるとしたら、そういうことなのではないかと思う。
万策がつきたなら、「三十六計逃げるにしかず」。
立派な中国の兵法だ。

G・ルーカス~ハリウッド映画の革命児

2006年10月13日 22時01分28秒 | コラム
ジョージ・ルーカスが、映画界引退を表明した。
「アメリカン・グラフィティ」でメジャー監督デビューし、「スター・ウォーズ」で、それ以降のハリウッド娯楽映画のスタイルを完全に変えた、時代の革命児だった。
自ら監督した本数こそ少ないものの、プロデューサーとして携わった映画は必ずヒットしている。
また、スピルバーグと組んで大ヒットした「インディ・ジョーンズ」は、ともにハリウッド映画革命児による、これまた革命的アドベンチャーシリーズとして未だに愛されている。

そのルーカスが、映画界を去る。
今後はテレビアニメ「スター・ウォーズ」に専念するとのこと。

寂しいと感じるかもしれないが、これが当たり前である。
いつまでも地位や名誉に恋々としている日本の巨匠といわれる監督達は、彼のつめの垢でも煎じて飲んでいただきたい。
ルーカスは、映画でやりたいことをやり終えたのだ。
いや、あるいは映画というメディアに失望したのかもしれない。
今のハリウッド映画界は、完全に安定志向である。
ルーカス達が変革し、ジェームズ・キャメロンやクリス・コロンバスが引き継いだ現在のハリウッド映画は、新鮮さに欠いている。
ルーカスが登場する前の黎明期のハリウッド映画界とよく似ている。

ルーカスの映画引退は、拍手で送るべきだが、第二のルーカスが出てこなければ、ハリウッドは再び低迷してしまうのではないだろうか?
タランティーノも頑張ってはいるが、どうも彼の場合はちょっと「通好み」の感がある。
もっと大衆的で、且つ業界を変革するほどのエネルギーを持つ若手監督がハリウッドに殴りこみをかけてほしいものだ。

ルーカスは、コッポラの元で自主制作映画を作り、独自のSF感でハリウッド映画界に浸透していった。
スピルバーグは、半ば強引にテレビ2時間ドラマ「激突」を映画会社に持ち込み、強引にデビューし、その後次々と独自の映画を製作し、ハリウッド娯楽映画のスタイルを作っていった。
そんな強引で、独自の映画論を持ったエネルギッシュな若い監督が、ルーカスなき後のハリウッド映画を再び盛り返してもらいたいものだ。

小規模作品であればこそ、しっかりとした製作体制を

2006年09月09日 16時08分14秒 | コラム
「監督VS売れない脚本家」を書いた時点で「監督」と思っていた人が実は「プロデューサー」だった。

この勘違いが、「脚本家の地位と質の向上を」という記事を、急遽脚本を渡された本当の監督の名誉を実質上傷つける記事になってしまった。
まずは、この勘違いについて、改めて監督に謝意を表したいと思う。

では、何故こういった勘違いをしてしまったのか?
それは、このWebドラマのほとんどを、そのプロデューサーが監督も兼ねて製作しているということと、今回の監督への紹介がまったくなく、誰が監督なのかコメントをいただくまでわからなかったこと。
思い込んだ方がいけない、といわれればその通りとしかいいようがないが、本来こういう小さいプロジェクトだからこそ、よりそういった連絡事項はきちっと管理されなければならないと思うし、そのプロジェクトに参加している誰かが「蚊帳の外」状態ではいけないと思う。

「脚本家の地位と質の向上を」という記事は、そのドラマの監督を批判することに主眼をおいた記事ではなく、あくまで「脚本家の著作権などの権利は守られるべき」という意見を述べさせていただいたものだ。
流れから言って、「監督VS売れない脚本家」の記事を読んでいただければわかると思うが、監督と勘違いしていたプロデューサーから「まったく理解に苦しむ」直しを迫られ(ま、これはどこでもよくあることだし、推敲自体はやって当然のこと)、それに従って直しても気に入らなかったのか、プロデューサー自身が自分に断りもなく修正したものを「第○稿」として送り返してきて「どうだろう、これでいいんじゃないか」とやられては、これは著作権侵害だ、と思ったので、あとの「脚本家の地位~」の記事へとつながっていったわけだが、幸いにも実際に監督をする方から「監督VS~」で書かれている監督は自分じゃないと思います、というコメントをいただいて、初めて今回はプロデューサー兼監督ではなくて、プロデューサーと監督が別の人だと気づいた。
監督は、今週になって初めて自分の書いた脚本、というか自分の書いた脚本をベースにプロデューサーが書いた脚本を渡され、「これでは…」と思い、徹夜で直したという。これは時間的な問題から言って、わざわざ脚本家の了解を得て直している暇がなかったわけで、仕方のないことだと思うし、実際予算とスケジュールのタイトなWebドラマではよくおこなわれていること。

では、監督と脚本家である自分が当初からがっぷりと組んでやっていたら、どうだったか?
恐らくこういう結果にはならなかっただろうし、最終的に監督側で直すことになっても連絡が来たはずで、それに「NO」というほど自分も天狗じゃないから、監督を信頼して任せていただろう。

日本では著作権が軽視される傾向がどうしても見受けられるが、製作に携わる人間同士に信頼関係があれば、「俺の著作権を!」ということにはならないだろうし、少なくとも自分は、この2つの記事をブログに書くほど問題視はしなかったと思う。

小規模な作品の製作でも、やはりしっかりとした製作管理体制がしかれたか否か、が作品の成否をわけると思うし、それ以上にプロデューサー、監督、脚本家、キャストらの確固たる信頼関係が必要だと思った。
そこにベテランも駆け出しもない、と自分は思っている。

今は、自分が携わったこのドラマが、監督やスタッフの皆さんの手によっていい作品になることを期待している。

脚本家の地位と質の向上を

2006年09月07日 19時59分45秒 | コラム
一つ前の記事についてはもう、あまり触れたくないが実際の台本は、更に監督が勝手に書き直したものが使用されることになった。
まあ、自分の「渾身の一作」というホンでもなかったし、安易にそれでもいいや、て思ってしまったが、今はやはりもっと粘って俺が全面書き直してOKがでるまでやるべきだったと少し後悔している部分もある。

そのホンを書いた脚本家以外の人間が書き直すことは本来著作権侵害であり、ハリウッドでは、監督が脚本を脚本家の承諾なしに書き直すことはまずない。
事前に著作権譲渡契約をし、著作権譲渡料を脚本家に支払わなければならない。
そうでなければ、書き直した監督や映画制作会社は脚本家組合から多額の賠償金を請求されることになる。
ハリウッドでは、たとえ監督といえども他の職種の権限を奪うことは許されないのだ。
元々ハリウッドでは、脚本がない状態でプロットを書かせることは通常ない。
脚本家から送られてくるシノプシス(プロットよりも簡潔にストーリーをまとめたもの)とログライン(日本で言う三行プロットだが、どちらかというとキャッチに近い。ハリウッドでは、ログラインが面白そうかどうか判断する最初の判断材料となる)をプロデューサーが気に入れば、「脚本を送ってくれ」ということになる。
つまり、ログラインとシノプシスを送った段階で、脚本第一稿は完成していなければならないのだ。場合によっては、脚本とトリートメント(日本でいうプロット)を両方、あるいは片方送ってくれということもあるが、いずれにしても「ノーギャラでこういうネタでプロット書いて」ということはあり得ない。
また、著作権を重視する国なので、WGA(アメリカ脚本家組合)に著作登録されていない脚本は、まずプロデューサーは読まない。
だから、セールス実績のない脚本家でも、それなりの脚本家でも皆習作を書いた時点で著作権登録している。
まず、この著作権という部分で、日本の脚本家のステータスは守られていない。
WGAの著作権登録サービスのようなものが日本にはないから、駆け出しの脚本家の著作権など無視されまくりなのが現状。

そしてギャランティー。
下世話な話なので、あまり細かい数字は書かないが、テレビの場合は各組合と民放連との間で協定があり(これもベテランの人にいわせると、40年以上同じ協定で、時価が40年前と今では桁が一桁違うのにギャラは変わっていないらしい)少なくともテレビの仕事をしている限り、そう低賃金で書かされることはまずないが、映画の場合は、そういった取り決めが一切ないので、それこそ数万円~数百万と幅が広い。
もちろん駆け出しは超安い。
アメリカの場合は、ギャラの相場に一定の基準があり、90~120分の脚本では最低でも$50,000(日本円して5百万以上といったところ)程度となっている。
予算が高い映画であれば、当然それに応じてギャランティーも上がるので、映画の脚本が売れれば、最低でも一年の年収にはなる。
その映画がヒットすれば、脚本家のステータスが無名からプロに変わるので、ギャラも桁が変わってくる。映画一本で1億なんて話もざらなのがハリウッド。

ハリウッドにおける脚本家を含む映画人の地位は、スポーツ選手やミュージシャンと同じくらいの地位なのだ。
後は映画が売れるかどうかで、ギャラが変わってくる。
まさにアメリカンドリームってやつで、憧れの職業のひとつなのだ。
それに比べると、日本における脚本家の地位は日雇い労働者に近い。
保障はないし(組合に入ればある程度あるが)、仕事が安定して入ってくる保障もない(これについてはアメリカの場合は脚本家の能力によってはエージェントと組めば、仕事をブッキングしてくれる)。スポーツ選手やミュージシャンと同列に語られることはまずないでしょう。
せいぜい芸能人くらい。
組合は、ギャラも含めて脚本家の地位向上にむけて活動しているらしいが、成果は今のところないみたい。
それはそうだ。
映画界、テレビ界の意識及びシステム改革がなされなければ、脚本家の組合だけでどうにかなる問題ではないように思う。

後は脚本家の質の問題。
脚本家の質は、一概に良し悪しを判断できない。
自分も脚本家のはしくれだから、ということもあるが、この業界では100人いれば100の意見がある。
ある人に「あんたダメ」と言われても、別の人に「いいねぇ」と言われることもしばしばで、業界内で質=能力のスタンダードを決めることは難しい。
これもハリウッドは実に簡単明瞭な線引きをしている。
要は映画が売れるか否か。
それだけ。
技術的にいくら優れていても、ネタがどんなにフレッシュでも、ヒットしなければそれまで、というかなり厳しい世界。
ベテランがベテランの位置をキープし続けるのは、至難の業なのだ。
売れなければ、一時的であるにせよ、底まで落とされる。
これについては、非常に難しい問題で、質の向上は各脚本家の自覚と努力に委ねるしかない、というのが現実なんじゃないかな。
小山の大将ではいかん、ということですな。

地位と質の向上で一番いいのは、組合のような脚本家の地位向上を目指す機関と、それとは別に脚本家の質・能力向上を目指す教育目的の機関(といっても学校ではない。あくまでも対象はプロもしくはそれに準ずる人)とで別箇に対応していけばいいのではないか、と思う。
アメリカなどは、そうやって質と地位の向上に成功している。
「何でもアメリカ」というのは抵抗があるが、やはりいいところは学ぶべきだと思う。
なんといっても映画でビジネスしている先進国の代表といえばアメリカなのだから、ハリウッドについて日本の映画界はもう少し研究してもいいと思うのだが。

日本の品格

2006年09月06日 00時37分12秒 | コラム
確か、そんなような内容を扱った本をこのブログで以前に取り上げたことがあったと思うが、今回の記事はあんな極論ではない。
とはいえ、「日本人に品がなくなった」のは事実だと思う。

では、いつから日本に「品」がなくなったのだろうか?

自分が思うに、バブル時代はまだ日本に品が存在していたように思う。
バブルがはじけ、日本人のアイデンティティもはじけ飛んでしまったのではないだろうか?

さて、それではその「品格」について、今回は「性」を例にとって探っていきたいと思う。
今、女性の前で「セックス」と言ってもあまり抵抗はないし、相手がドン引きすることもない。
ま、もちろん会話の流れにもよるが…。
最も今は「エッチ」という言葉の方が頻繁に使われているわけだが。
いわゆる「性行為」やそれに関する性用語を異性の前で語ることについて、さほど抵抗感や恥ずかしさを感じなくなってきているのだ。
こうやって、ブログで文字にしていても、以前ほど「恥ずかしい」とは自分も感じない。
異性と、「性」について語るのは、むしろ楽しいことになってきているのではないかな。
それと「品格」とどういう関係があるのか。
ちょっと話をアメリカまで飛ばしてみますと…。

自分がアメリカの大学にいた頃、クラスメートの映画制作を手伝っていたとき、エキストラの女の子たちが平然と「性」についてかなり踏み込んだ話を俺らの前でしていた。それはもう、さすがにブログにも書けないような生々しい話だった。そばで聞いていたアメリカ人の男の子が「いい加減にしとけよ」といさめていたくらいだ。
同じような体験は、日本のテンプル大に通っていた頃にもあった。
ああいう大学は当然帰国子女が多いのだが、そのうちの一人の女の子が、俺ともう一人の女の子と三人で歩いているうちに、どういう流れだったか忘れたがそういった内容の話題になって、その女の子が突然「でもアレって、終わったあと疲れるんだよねー」と口走ったのには当時ドン引きしたものだ。
当時は、帰国子女以外の大学生とも交流があったが、オールナイトでパーティーやっても、「性」についてそのようにダイレクトに語らうことはまずなかった。
更に高校時代までさかのぼれば、男子も女子もそれぞれその手の話は隠れてしていたものだった。
まかりまちがっても異性の前で「性行為」の話なんぞに華を咲かせたことはなかったし、天真爛漫な女の子が「性用語」について女子の先輩に聞こうものなら、聞かれたほうは赤面ものだった。真っ赤な顔して「やめなさい」といさめていた女子先輩の顔が今でも目に浮かぶ。

そう、性行為は昔は「秘め事」といったくらいで、本来日本ではその話を公の場ですることそのものが「下品」つまり「品格がない」ことだった。
俺が高校~大学の当時というのは、丁度バブルがはじける直前くらいだったと記憶している。
まだ「アイドル」と呼ばれる存在が残っていた時代で、今のグラドルのような露出の仕方はしなかった時代。首の皮一枚で「品のいい国日本」だった時代のように思う。

で、今はというと、まさに前述のアメリカの女の子達に日本女性も近づきつつある。
別に女性蔑視をしているつもりは全くないのだが、「性」について語る場合、「性に対する開放感」がどの程度女性にあるかを無視しては語れないのだ。
何故かというと、女性が性について開放的であれば、男は当然のことながら食いつく。それはつまり男にとっては、言葉による「性行為」だからだ。
ところが、ちょっと前の日本のように女性が性について閉鎖的であれば、男は食いつきどころがない。つまり「性」についての会話になりようがないのだ。
「性」についてはどうしても女性に主導権があるのは否定できないのではなかろうか。

つまるところ、「性」一つとってみても、いいことか悪いことかは別にして日本は十数年前に比べて格段と「下品」になったわけだ。

あるフランスの高級ブランドの日本支店の社長は、小津映画の「東京物語」が好きで、それに憧れて日本に来たそうである。ところが、あの映画にあった「品のいい日本人」は、もうここにはいなかったという。

かつての「日本の品格」は、どの国の品格とも違ったものだったし、だからこそ、あらゆる日本好きの外国人の憧れとなったわけだが、それは今日の日本ではほとんど見ることができないものだ。
失われた品格は、日本が何よりも誇れる財産だったように思う。
でもそれを失ったのはそんなに大昔の話ではなく、つい最近のことのように思う。

ドラマに携わっていると、そういった「品のいい日本人」を描こうと思ったら、昭和まで逃げなければならないわけだが、個人的には敢てドラマで「昭和」を描こうとは思わない。
今の時代を生きる人にとって、それはファンタジーにしかならないし、同じファンタジーなら、自分は昭和よりも平成よりも、「未来」について書きたいと思っている。
できえれば、夢と「品」のある未来を、ね。

殺陣考

2006年08月31日 20時30分09秒 | コラム
最近の時代劇やアクションドラマでの、あまりにもチープな殺陣にほとほと呆れ果てている。
確かに昔と違って、今の役者さん、とくに芸能プロ出身のタレントさんは、昔のような映画スタジオの俳優養成所出身の役者さんと違って、基礎演技以上の練習はしていない。
いや、基礎的な演技すらまともに出来ていない役者さんも少なくない。

自分が関わっているものですら、俳優養成を謳っているにも関わらず、その実力は自称役者だらけで作られるわけだから脚本一本書くにも彼らのレベルに合わせなければならないから大変だ。

だが、一概に演技力、特に殺陣がまったく出来ない役者さんばかりを責められない状況が、今の映像製作の現場にはあると思う。

それなりのギャラで、それなりの名のある人で、期間も短く、とにかく撮り上がればいい、と言った状況で作られるものはそのほとんどが最低の出来になっている。

殺陣はそのいい例で、某テレビ局(といっても時代劇をやっているのは一局だけだが)の某有名時代劇のリメイクはひどい。
こういった勧善懲悪の時代劇では、最後の殺陣が一番の見せ所だ。
流れるような刀さばき、無敵の剣でバッタバッタと悪人を斬り倒すのがカタルシスを得るのに絶対必要条件だ。
だが、この時代劇の殺陣は、主役のみならず(主役の殺陣のレベルを気遣ってか)周りの悪役たちの殺陣もまったく冴えない。ひどいときなど斬られるのを待っているのがわかってしまうほどだ。
主役をやっている役者に殺陣の経験が著しく欠落しているのは間違いないが、そういう役者の殺陣でもそれなりにきれいに見せるのが殺陣師、もしくはアクション監督という職業だ。
中国映画を例にとって見よう。
「やつらはみんな武術できるじゃんか」
とお思いの皆さん。必ずしもそうではない。
「グリーンデスティニー」と言えば、知らない人は少ないだろう。
さらにチョウ・ユンファと言えば、さらに知らない人は少ないに違いない。
「グリーン~」は言わずと知れたユンファの主演作で、チャン・ツィイー初のアクション映画となった名作である。
ユンファの役は、剣の修行を終え、悟りを啓いた名剣士の役どころ。
ところが、ユンファはまったく武術の経験がなかった。
香港の俳優は、養成所に入れば必ず武術の訓練をするのだが、彼の場合は夜間学校だったがために、武術の練習はなかったのだという。
そんな彼だったが、映画を見た人にはわかると思うが、武術慣れした役者とまったく遜色ない見事なアクションを見せてくれる。
彼の実力を勘案しつつ、きれいに見せるため負担の少ないアクションを考え、たっぷりと時間をかけて練習させたのが、世界におけるアクション監督の巨匠ユエン・ウーピンだ。
ウーピンのアクション振り付けがあってこそ、あの映画は近年稀に見る武侠映画たりえたのだ。

日本も、そこまでやれとは言わないが(予算も時間も桁違い)、もう少し殺陣師の方に役者にあった殺陣というものを十分に研究して、振り付けし、監督と協議して一番それらしく映るようにするのがスタッフとしての仕事ではないか、と思う。
「役者があれだから、しょうがない」は、商用映像ドラマには許されない。
日本の例も挙げるならば、昔の高橋英樹主演「三匹が斬る」シリーズの殺陣を担当した土井淳之祐さんは、当初殺陣が全くダメだった春風亭小朝について「最初はだめだなぁ、この人は、と思ったけど、やっていくうちにご本人の努力もあってかなり上達した」と語っている。当時の時代劇は1シーズンの話数も多く、何シリーズも続いたから、その過程で腕を上げていったわけだが、今は1シーズンで終わってしまうものが多くて、殺陣の苦手な役者は苦手のまま終わってしまう。

演技にしてもそう。
「役者が演技力ないから」と薄っぺらいドラマを求めてくるPも多いが、演技力がないなら、演技力を育てるくらいのつもりで全体のクオリティを高めるのが本来のスタッフの仕事だ、ということに気づいて欲しい。
でなければ、日本のドラマは本当にダメになってしまう。

日本でも未だに役者を育てる監督は存在する。
「嫌われ松子の一生」で、主演の中谷美紀(けっして演技力のない女優さんではない)に対して、監督の中島哲也さんは「その程度の演技しか出来ないんだったら女優なんてやめちまえ!」と怒鳴りつけたという裏話がある。中谷自信が告白していることだし「本当にやめてしまおうかと、少しノイローゼになりかかった」と言う。製作スタッフ、とりわけ監督と役者の関係とは、それぞれの技量を高めあうような現場が理想だと思う。
別に所構わず、相手構わず怒鳴り散らせばいい、というものではない。
故小津安二郎監督のように、終始穏やかに、且つ厳然と演技指導をした名監督もたくさんいる。
重要なのは、「役者も映像内の重要な要素。演技も妥協は許さない」という監督のスタンスだ。
小津さんが相手にしていたのは新劇の女王、故杉村春子だ。経験豊富な彼女に対し小津さんは自分の演出をわかりやすく説明するために、怒鳴るでもなく、くどくどと演技指導するでもなく、ただ「目をここからここまで動かしてごらん」とだけ言ったそうだ。
そのシーンは「東京物語」で杉村さん演じる娘が電話を上の空で聞いているというカット。小津さんは扇子の端から端までを目で眺めろと言ったのである。
当時舞台出身の杉村さんは、人物の気持ちを捉えようと必死だったそうだから、小津さんの指示の意味がわからず、ただ言われるがままにやってみたそうだが、出来上がったカットは、確かに電話を上の空で聞いている娘を見事に映像化していた。そういう小津監督と組むことによって、杉村さんは映像演技というものを学んでいったという。
だから、当時の監督はみな役者さんから「先生」と呼ばれていたわけだ。

現在、「先生」と呼べるような演出家がどれだけいるだろうか?
役者も不足しているかもしれないが、彼らを鍛える演出家も不足しているように思えてならない。

脚本を書く人間としては、なんとも寂しい限りである。

ジョンベネ解決だよ、おっかさん

2006年08月17日 19時13分06秒 | コラム
96年、つまり十年前の事件で、当時俺は両親はやってないだろうと思っていたが、年齢の近いほうの兄貴は疑っていた。
確かに両親の挙動はおかしかったし、地元警察程度なら疑って当然だったわけで、でもどう考えても肉親がクリスマスパーティー翌日に自分の娘を殺す動機が見当たらなかった(性的異常者特有の特徴が父親にはなかったし、母親の嫉妬というのはあまりにも説得力のない動機に思えた)。だが、どうも両親の態度が今ひとつ煮え切らないのに怪しさを感じたのも事実。だから、どうして両親が意味不明な行動をとりつつ「無実」を主張するのか、事件直後警察が到着する前に現場を荒らしてしまったことなどを考えると、誰かを守っているのでは?と思ったわけだ。
両親が自分の娘を殺した犯人をかばわなければならないとしたら、それは自分の息子しかない、というのが当時の俺の考えだったわけだが、今考えてみると十分に現場検証が行われたのか、何故異常性愛者による犯行の可能性をあっさり捨ててしまったのか、地元警察の捜査力に問題はなかったのか、を考えるべきだった。
何故FBIが捜査に乗り出さなかったのかも疑問だった。
恐らく地元警察はFBIに捜査協力を依頼しなかったのだろう。
今の日本の警察と同じで、アメリカも田舎の地元警察には変なプライドというか面子意識があって、FBIに対する嫉妬心というかアレルギーがあるのだ。
99年に捜査を打ち切ったということだったが、それ以降も捜査を続けていたようで、今回の容疑者を割り出したのは、恐らくインターネットの書き込みを捜査していたというから、ログからホストとIPアドレスをたどって、犯人がタイにいることを特定したのだろう。
そういう捜査が地元警察にできるとは思えないので、恐らくFBIが捜査に関与したのではないかな。

ジョンベネ事件で言えることは、日本もこの事件は対岸の火事ではなく、教訓にすべきだと思うね。
特に最近の日本の警察(特に地方)は見込み捜査で初動捜査をあやまるケースが増えている。
おりしも幼児、少年少女への性的虐待事件が増えつつあるのが現状なのだから、まさに「日本はアメリカに2~30年遅れている」という言葉が当たっているように思えてならない。
アメリカの場合は地元警察が信用できなければFBIに再捜査を依頼することも可能だが、日本の場合はそのFBIに該当する組織がない。
それだけに、警察には初動捜査で誤らないよう十分気をつけて捜査してほしい。
1%でも疑問があれば、「念には念を入れて」を捜査指揮官には徹底してほしいところ。

事件・事故で被害者が泣きをみるような世の中は、法治国家としてはあってはならないことだと思っている。
今年6月に亡くなったジョンベネのお母さんに哀悼の意を表するとともに、捜査陣にはしっかりと容疑者を取り調べ、事件の全容を解明することを期待する。

映画監督 スティーブン・ソダー 14歳

2006年08月08日 23時14分08秒 | コラム
今年は何かあまり原爆記念日が話題にならなかった感がある。
去年はドラマまで制作されていたことを考えると、「ニュースでちょこっと」程度の特集しかなかった今年はなんなんだろう?

と思っていたら、海外でしっかり広島についての映画が撮られてました。
しかも監督は14歳の中学生・スティーブン・ソダー君。
広島・長崎の原爆投下についてあまり語られないアメリカの教科書に疑問を持ち、自ら科学者や政治家にインタビューして、友達とともに作ったドキュメンタリー映画が、各国で話題になった。
日本でも7月に上映されたらしいが、まったく宣伝されなかった。
タイトルは確か「ランプの魔王」だか「魔法のランプ」だったか、そんなようなタイトルで、内容は中学生らしい漫画を使った演出や、魔人に扮した役者さんを出すなど、アメリカンキッズならではのドキュメンタリー映画になっているが、テーマは「核兵器そのものが人を殺すのではなくて、核兵器を開発し、使用する人間が人を殺す」というディープなもの。
スティーブン君は、映画制作時にはまだ日本の原爆記念館に来たことはなかったらしく、来日時にはじめて原爆記念館を訪れ「自分の予想を超えるもの、ショックだった。自分の国がこんなことをしたなんて恥ずかしい。」と記者会見で答えている。
今「靖国問題」でやたら憤りながら「参拝!」とさけんでる変なコラムニストのおっさんより、よっぽど大人で、冷静な発言。

正直触発されました。
ドキュメンタリーで、しかも16分でそこまでのテーマを語るってのは、中学生としては凄いことだと思う。
俺も映画作り始めたのは同じくらいの年頃だったけど、あんな完成度の高い内容のもんじゃなかったし
これからも頑張って欲しいし、俺も自主で頑張ろうと思った。
ああいった少年とは、歳の差関係なく話し込んでみたいね。

ドキュメンタリーで、どこかNPOとかピースボートとかいった反戦団体に協力してもらって「反戦映画」を作りたいね。

今は、正に「広島原爆と平和について」の演劇の台本執筆依頼を請けて執筆中なので、スティーブン君の話題は俺にとってはかなりタイムリーだった。

映画と武術の関係

2006年07月28日 12時06分25秒 | コラム
「SPIRIT」を扱ったブログで、「リアルじゃなくて、つまらなかった」という意見があった。

受け手の反応は様々だし、ひとつの意見として間違っているとは思わない。

ただ、カンフーであれ殺陣であれ、映画で「リアルなアクション」を追求すると、映像的にはかなりつまらなくなる。ブルース・リーやジャッキーの映画だって、決して「リアル」ではないのだ。

そもそもリアルな格闘なら、ヒーロー一人でバッタバッタと十数人の悪党たちを倒すこと自体不可能なことだし、チャンバラなら実際には3人以上斬れば、刀は役に立たなくなる。
殺陣というのは本来かっこいいものだが、実際に真剣で斬りあうというのは、あんなかっこいいもんじゃない。
自分も剣道をやっていたことがあるが、竹刀ですら打たれれば多少なりとも痛いし、試合に「打たれる恐怖感」はつきものだった。
当時の侍の決闘は、防具なしの真剣勝負だったわけだから、かっこ悪くても勝たなければ命がない。
実際の斬り合いを見れば「だせぇ~」と思ってしまうだろう。

それでも殺陣に違和感を感じないのは、単にチャンバラに慣れてしまい「斬り合いとはああいうもの」と思い込んでしまうからだ。

でも、映画というのはそれでいいと思う。
現在の中国武侠映画にワイヤーやCGは欠かせない。ブルース・リーやジャッキーの映画との違いといえば、それくらい。
ある意味、ああいったオーバーな演出は流行りものと捉えるべきだ。
歌舞伎でいうところのケレンというやつに近いものがある。
とってもありえない立会いも、見慣れてしまえば「あんなもの」でいいのだと思う。

「SPIRIT」に関して言えば、前半部分は天下無敵のファ・ユンジャを描いているわけだから、多少オーバーなアクションが必要だったのだろう。それは後半の武術大会で、ワイヤーやCGがほとんど使われていないことを見れば明らかだし、前半と後半のアクションの対比が、あの映画のテーマ自体に関わるものだと理解している。後半のファは等身大の武術家として描かれているのだ。

つまり、ある種のアクション映画(カンフーや剣術など武術モノ)にはケレンが必要だと自分は思っている。
銃撃戦だって、ハリウッド映画にありがちな光景は、実際の銃撃戦では見られないからね。

自分は映画における「アクション」にはちょっとうるさい方だ。
特に武術をやる人間として、格闘シーンにはこだわりがある。
黒澤映画のようなリアルさもいいが、今の時代にはちょっと地味すぎる、というのが自分のアクションに対する考え方。
アクション映画監督ではないチャン・イーモウやチェン・カイコーが、アクションシーンでは香港のアクション監督を起用して、派手なアクションをさせるのは、映像に華をそえる意味合いがあるように思う。

自分も、シナリオ・演出の次にやりたいのがアクション監督。
我流マーシャルアーツを映像アクションに持っていき、オリジナルな格闘アクションを振付けてみたい。
予算があればワイヤーやCGもありだと思っているが、香港映画とは違うのでそれらとは違った部分で華を見せたい。

というわけで、自主で武術アクション映画撮る方、アクション監督として声をかけてください
もちろん自主に関してはノーギャラでやりますんで