杜甫ー189
移居夔州作 居を夔州に移さんとして作る
伏枕雲安県 枕に伏(ふ)す雲安県
遷居白帝城 居(きょ)を遷(うつ)す白帝城(はくていじょう)
春知催柳別 春は知る 柳を催(もよお)して別れしむるを
江與放船清 江は放船(ほうせん)の与(ため)に清し
農事聞人説 農事(のうじ) 人の説(と)くを聞く
山光見鳥情 山光(さんこう) 鳥情(ちょうじょう)を見る
禹功饒断石 禹功(うこう) 断石(だんせき)饒(おお)し
且就土微平 且(しばら)く就(つ)かむ土(ど)の微平(びへい)なるに
⊂訳⊃
雲安県では 病に臥していたが
白帝城に 居を移そうと思う
柳は芽吹いて 春の別れをうながし
船出のために 川は澄んで流れている
夔州では農事ができると人はいい
山の緑は美しく鳥も楽しげに鳴くという
禹の工事で このあたりは断崖が多い
いくらか平地のあるところへ行こうと思う
⊂ものがたり⊃ 大暦元年(766)の春になると、風痺もいくらか回復してきたので、春の終わりに杜甫は夔州(きしゅう:四川省奉節県の東)に移ることにしました。夔州のことを「白帝城」と言っているのは、夔州には有名な白帝城があったからです。
雲安滞在が思ったより長びいたので、杜甫は経済的に困窮していました。夔州では「農事 人の説くを聞く」と言っているのは、夔州なら平地もあるし、農業もできると雲安の人が教えてくれたからでしょう。杜甫は農耕をしてでも一家の食糧を得る必要に迫られていました。
杜甫ー190
客 堂 客 堂
憶昨離少城 憶(おも)う 昨少城(しょうじょう)を離れしことを
而今異楚蜀 而今(じこん) 楚蜀(そしょく)異なり
捨舟復深山 舟を捨つれば復(ま)た深山(しんざん)
窅宨一林麓 窅宨(ようちょう)たり一林麓(いちりんろく)
棲泊雲安県 棲泊(せいはく)す雲安県
消中内相毒 消中(しょうちゅう) 内(うち)相毒(あいどく)す
旧疾甘載来 旧疾(きゅうしつ) 甘んじて載(の)せ来たる
衰年得弱足 衰年(すいねん) 弱足(じゃくそく)を得(う)
死為殊方鬼 死して殊方(しゅほう)の鬼(き)と為(な)るも
頭白免短促 頭白(とうはく)短促(たんそく)を免(まぬが)る
老馬終望雲 老馬(ろうば) 終(つい)に雲を望む
南雁意在北 南雁(なんがん) 意(い)北に在り
別家長児女 家に別れしより児女(じじょ)長ず
欲起慚筋力 起きむと欲するも筋力(きんりょく)に慚(は)ず
客堂序節改 客堂(かくどう) 序節(じょせつ)改まる
具物対羇束 具物(ぐぶつ) 羇束(きそく)に対す
石暄蕨芽紫 石暄(あたたか)にして蕨芽(けつが)紫に
渚秀芦笋緑 渚(しょ)に秀(ひい)でて芦笋(ろじゅん)緑なり
巴鶯粉末稀 巴鶯(はおう) 粉(ふん)として末だ稀(まれ)ならず
徼麦早向熟 徼麦(きょうばく) 早く熟(じゅく)するに向かう
悠悠日動江 悠悠 日 江(こう)に動き
漠漠春辞木 漠漠 春 木を辞(じ)す
台郎選才俊 台郎(だいろう) 才俊(さいしゅん)を選ぶ
自顧亦已極 自ら顧るに亦た已(すで)に極(きわ)まれり
前輩声名人 前輩(ぜんぱい)声名(せいめい)の人
埋没何所得 埋没(まいぼつ) 何の得る所ぞ
居然綰章紱 居然(きょぜん) 章紱(しょうふつ)を綰(つが)ぬ
受性本幽独 受性(じゅせい) 本(もと) 幽独(ゆうどく)なり
平生憩息地 平生(へいぜい) 憩息(けいそく)の地
必種数竿竹 必ず数竿(すうかん)の竹を種(う)う
事業只独醪 事業 只(た)だ独醪(どくろう)
営葺但草屋 営葺(えいしゅう) 但(た)だ草屋(そうおく)
上公有記者 上公(じょうこう) 記する者有り
累奏資薄禄 累奏(るいそう)せられて薄禄(はくろく)に資(よ)る
主憂豈済時 主(しゅ)憂うるも豈(あ)に時を済(すく)わむや
身遠弥曠職 身遠くして弥々(いよいよ)職を曠(むなし)うす
修文廟算正 修文(しゅうぶん) 廟算(びょうさん)正しく
献可天衢直 献可(けんか) 天衢(てんく)直(なお)し
尚想趨朝廷 尚お想う 朝廷に趨(すう)して
毫髪裨社稷 毫髪(ごうはつ) 社稷(しゃしょく)を裨(ひ)せむことを
形骸今若是 形骸(けいがい) 今 是(かく)の若(ごと)し
進退委行色 進退 行色(こうしょく)に委(まか)す
⊂訳⊃
思えば 先に成都の少城を離れ
以来 蜀と楚に居場所が変わる
舟を捨てて上陸すると 深山あり
奥深い林のほとりに閑居する
雲安県に住んでいたときは
消渇(しょうかつ)の疾に悩まされた
持病をかかえ 舟に乗ってきたが
年のせいで 足も弱ってきた
死んで異郷の鬼となっても
白髪だから若くして死んだのではない
老馬は老いても 北の雲を眺め
雁は南に飛んでも 北の故郷を忘れない
家を出てから 子供たちは成長したが
私は起きようとしても筋力がない
客堂に季節は移り
旅の身にも 時の恵みはめぐってくる
石がぬくもり 蹶(ぜんまい)の芽が紫に萌え
芦の新芽は 渚に映えて緑である
鶯は処々方々で鳴き
麦は早くも熟しかけている
遥かな江上に 日の光は動き
春の若葉は 日ごとに色をかえていく
尚書の郎官は 才俊を選ぶもの
自分が選ばれたのは 光栄の極みだ
名声の高かった先輩のなかには
得るところなく埋もれた者もいる
私は依然として官服をつけているが
本性は 幽居孤独を好む
だから 平生 休息の地には
かならず 数本の竹を植える
仕事はただ 濁り酒を飲むことで
住む家は 茅葺きの草堂である
そんな私でも覚えていた上官があり
奏上して俸禄を受ける身にしてくれた
天子は悩まれているが 助勢もできず
遠方にいる身で 職責を果たせない
文徳は修まり 朝政は正しく行なわれ
臣下の献言は 真っ直ぐ天に達している
それでもなお 私は朝廷にすすみ出て
わずかでも 国に裨益したいと思っている
しかるに体は ご覧のとおり
進退は これからの状態次第である
⊂ものがたり⊃ 夔州は雲安の下流70kmほどのところにあり、隣県と言っていいでしょう。長江三峡の第一峡瞿塘峡(くとうきょう)の入口に位置し、左岸、つまり北側の江岸に県城が築かれていました。
杜甫は夔州に着くと、山のほとりの林の縁のところに仮小屋を作って仮寓したようです。詩題は「客堂」(かくどう)となっていますが、客は旅人の意味ですので、旅の家といった程度の題名です。全四十二句、はじめは導入部で成都を離れてから夔州に至るまでを概観しています。視線はやがてあたりの風物へ移ってゆき、迫ってくる老いと晩春のみずみずしさが対比され、杜甫の詩人としての内省と視線の繊細さがみごとに対比されてます。
回想はやがて自分のことに移ります。杜甫は「台郎 才俊を選ぶ」と述べ、自分が台郎、つまり尚書省の郎官(郎中ならびに員外郎)に選ばれたことを名誉なことと考えています。そして「居然 章紱を綰ぬ」と書いていますので、成都でもらった検校工部員外郎としての身分は成都を離れたあとも維持していたようです。
もとより寄禄官として与えられた身分であり、名目的なものですが、その地位にともなう些少の手当ては引きつづき受けていたようです。退職者への年金のようなもので、家族を維持できるような額ではなかったでしょう。それでもいくらかの足しにはなっていたと思われます。
杜甫は厳武が自分のことを覚えていて、俸禄を受ける身分にしてくれたことを感謝します。しかし、遠隔の地にいるため、職責を果たせないでいると引け目を感じているにおです。杜甫のまじめな性格がよく出ている部分でしょう。
結びの六句では、まず朝廷への信頼を述べます。この詩は自分の近況や志を朝廷にいる誰かに届けるために書いたものと思われますので、いわば儀礼の挨拶です。朝政は立派に滞りなく行なわれいるけれども、それでもなお自分は朝廷に出仕して、わずかでも国のお役に立ちたいと思っていると述べます。
杜甫には持病として消渇(糖尿病)があり、そのうえ風痺(関節炎)のために歩行も不自由でした。だから「形骸 今 是の若し 進退 行色に委す」と、自分が直ちに都に行けない理由を述べるのです。唐代の知識人にとって官職に就くということは、人間として何よりも重大なことでした。そのことを忘れてはいないと、杜甫は言っているのです。
移居夔州作 居を夔州に移さんとして作る
伏枕雲安県 枕に伏(ふ)す雲安県
遷居白帝城 居(きょ)を遷(うつ)す白帝城(はくていじょう)
春知催柳別 春は知る 柳を催(もよお)して別れしむるを
江與放船清 江は放船(ほうせん)の与(ため)に清し
農事聞人説 農事(のうじ) 人の説(と)くを聞く
山光見鳥情 山光(さんこう) 鳥情(ちょうじょう)を見る
禹功饒断石 禹功(うこう) 断石(だんせき)饒(おお)し
且就土微平 且(しばら)く就(つ)かむ土(ど)の微平(びへい)なるに
⊂訳⊃
雲安県では 病に臥していたが
白帝城に 居を移そうと思う
柳は芽吹いて 春の別れをうながし
船出のために 川は澄んで流れている
夔州では農事ができると人はいい
山の緑は美しく鳥も楽しげに鳴くという
禹の工事で このあたりは断崖が多い
いくらか平地のあるところへ行こうと思う
⊂ものがたり⊃ 大暦元年(766)の春になると、風痺もいくらか回復してきたので、春の終わりに杜甫は夔州(きしゅう:四川省奉節県の東)に移ることにしました。夔州のことを「白帝城」と言っているのは、夔州には有名な白帝城があったからです。
雲安滞在が思ったより長びいたので、杜甫は経済的に困窮していました。夔州では「農事 人の説くを聞く」と言っているのは、夔州なら平地もあるし、農業もできると雲安の人が教えてくれたからでしょう。杜甫は農耕をしてでも一家の食糧を得る必要に迫られていました。
杜甫ー190
客 堂 客 堂
憶昨離少城 憶(おも)う 昨少城(しょうじょう)を離れしことを
而今異楚蜀 而今(じこん) 楚蜀(そしょく)異なり
捨舟復深山 舟を捨つれば復(ま)た深山(しんざん)
窅宨一林麓 窅宨(ようちょう)たり一林麓(いちりんろく)
棲泊雲安県 棲泊(せいはく)す雲安県
消中内相毒 消中(しょうちゅう) 内(うち)相毒(あいどく)す
旧疾甘載来 旧疾(きゅうしつ) 甘んじて載(の)せ来たる
衰年得弱足 衰年(すいねん) 弱足(じゃくそく)を得(う)
死為殊方鬼 死して殊方(しゅほう)の鬼(き)と為(な)るも
頭白免短促 頭白(とうはく)短促(たんそく)を免(まぬが)る
老馬終望雲 老馬(ろうば) 終(つい)に雲を望む
南雁意在北 南雁(なんがん) 意(い)北に在り
別家長児女 家に別れしより児女(じじょ)長ず
欲起慚筋力 起きむと欲するも筋力(きんりょく)に慚(は)ず
客堂序節改 客堂(かくどう) 序節(じょせつ)改まる
具物対羇束 具物(ぐぶつ) 羇束(きそく)に対す
石暄蕨芽紫 石暄(あたたか)にして蕨芽(けつが)紫に
渚秀芦笋緑 渚(しょ)に秀(ひい)でて芦笋(ろじゅん)緑なり
巴鶯粉末稀 巴鶯(はおう) 粉(ふん)として末だ稀(まれ)ならず
徼麦早向熟 徼麦(きょうばく) 早く熟(じゅく)するに向かう
悠悠日動江 悠悠 日 江(こう)に動き
漠漠春辞木 漠漠 春 木を辞(じ)す
台郎選才俊 台郎(だいろう) 才俊(さいしゅん)を選ぶ
自顧亦已極 自ら顧るに亦た已(すで)に極(きわ)まれり
前輩声名人 前輩(ぜんぱい)声名(せいめい)の人
埋没何所得 埋没(まいぼつ) 何の得る所ぞ
居然綰章紱 居然(きょぜん) 章紱(しょうふつ)を綰(つが)ぬ
受性本幽独 受性(じゅせい) 本(もと) 幽独(ゆうどく)なり
平生憩息地 平生(へいぜい) 憩息(けいそく)の地
必種数竿竹 必ず数竿(すうかん)の竹を種(う)う
事業只独醪 事業 只(た)だ独醪(どくろう)
営葺但草屋 営葺(えいしゅう) 但(た)だ草屋(そうおく)
上公有記者 上公(じょうこう) 記する者有り
累奏資薄禄 累奏(るいそう)せられて薄禄(はくろく)に資(よ)る
主憂豈済時 主(しゅ)憂うるも豈(あ)に時を済(すく)わむや
身遠弥曠職 身遠くして弥々(いよいよ)職を曠(むなし)うす
修文廟算正 修文(しゅうぶん) 廟算(びょうさん)正しく
献可天衢直 献可(けんか) 天衢(てんく)直(なお)し
尚想趨朝廷 尚お想う 朝廷に趨(すう)して
毫髪裨社稷 毫髪(ごうはつ) 社稷(しゃしょく)を裨(ひ)せむことを
形骸今若是 形骸(けいがい) 今 是(かく)の若(ごと)し
進退委行色 進退 行色(こうしょく)に委(まか)す
⊂訳⊃
思えば 先に成都の少城を離れ
以来 蜀と楚に居場所が変わる
舟を捨てて上陸すると 深山あり
奥深い林のほとりに閑居する
雲安県に住んでいたときは
消渇(しょうかつ)の疾に悩まされた
持病をかかえ 舟に乗ってきたが
年のせいで 足も弱ってきた
死んで異郷の鬼となっても
白髪だから若くして死んだのではない
老馬は老いても 北の雲を眺め
雁は南に飛んでも 北の故郷を忘れない
家を出てから 子供たちは成長したが
私は起きようとしても筋力がない
客堂に季節は移り
旅の身にも 時の恵みはめぐってくる
石がぬくもり 蹶(ぜんまい)の芽が紫に萌え
芦の新芽は 渚に映えて緑である
鶯は処々方々で鳴き
麦は早くも熟しかけている
遥かな江上に 日の光は動き
春の若葉は 日ごとに色をかえていく
尚書の郎官は 才俊を選ぶもの
自分が選ばれたのは 光栄の極みだ
名声の高かった先輩のなかには
得るところなく埋もれた者もいる
私は依然として官服をつけているが
本性は 幽居孤独を好む
だから 平生 休息の地には
かならず 数本の竹を植える
仕事はただ 濁り酒を飲むことで
住む家は 茅葺きの草堂である
そんな私でも覚えていた上官があり
奏上して俸禄を受ける身にしてくれた
天子は悩まれているが 助勢もできず
遠方にいる身で 職責を果たせない
文徳は修まり 朝政は正しく行なわれ
臣下の献言は 真っ直ぐ天に達している
それでもなお 私は朝廷にすすみ出て
わずかでも 国に裨益したいと思っている
しかるに体は ご覧のとおり
進退は これからの状態次第である
⊂ものがたり⊃ 夔州は雲安の下流70kmほどのところにあり、隣県と言っていいでしょう。長江三峡の第一峡瞿塘峡(くとうきょう)の入口に位置し、左岸、つまり北側の江岸に県城が築かれていました。
杜甫は夔州に着くと、山のほとりの林の縁のところに仮小屋を作って仮寓したようです。詩題は「客堂」(かくどう)となっていますが、客は旅人の意味ですので、旅の家といった程度の題名です。全四十二句、はじめは導入部で成都を離れてから夔州に至るまでを概観しています。視線はやがてあたりの風物へ移ってゆき、迫ってくる老いと晩春のみずみずしさが対比され、杜甫の詩人としての内省と視線の繊細さがみごとに対比されてます。
回想はやがて自分のことに移ります。杜甫は「台郎 才俊を選ぶ」と述べ、自分が台郎、つまり尚書省の郎官(郎中ならびに員外郎)に選ばれたことを名誉なことと考えています。そして「居然 章紱を綰ぬ」と書いていますので、成都でもらった検校工部員外郎としての身分は成都を離れたあとも維持していたようです。
もとより寄禄官として与えられた身分であり、名目的なものですが、その地位にともなう些少の手当ては引きつづき受けていたようです。退職者への年金のようなもので、家族を維持できるような額ではなかったでしょう。それでもいくらかの足しにはなっていたと思われます。
杜甫は厳武が自分のことを覚えていて、俸禄を受ける身分にしてくれたことを感謝します。しかし、遠隔の地にいるため、職責を果たせないでいると引け目を感じているにおです。杜甫のまじめな性格がよく出ている部分でしょう。
結びの六句では、まず朝廷への信頼を述べます。この詩は自分の近況や志を朝廷にいる誰かに届けるために書いたものと思われますので、いわば儀礼の挨拶です。朝政は立派に滞りなく行なわれいるけれども、それでもなお自分は朝廷に出仕して、わずかでも国のお役に立ちたいと思っていると述べます。
杜甫には持病として消渇(糖尿病)があり、そのうえ風痺(関節炎)のために歩行も不自由でした。だから「形骸 今 是の若し 進退 行色に委す」と、自分が直ちに都に行けない理由を述べるのです。唐代の知識人にとって官職に就くということは、人間として何よりも重大なことでした。そのことを忘れてはいないと、杜甫は言っているのです。
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