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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 杜甫178ー182

2010年04月27日 | Weblog
 杜甫ー178
   遣悶奉呈厳公二十韻    悶を遣る 厳公に呈し奉る二十韻

  白水魚竿客     白水(はくすい)魚竿(ぎょかん)の客
  清秋鶴髪翁     清秋(せいしゅう)鶴髪(かくはつ)の翁
  胡為来幕下     胡為(なんす)れぞ幕下(ばくか)に来たれる
  祗合在舟中     祗(ただ)合(まさ)に舟中(しゅうちゅう)に在るべきのみ
  黄巻真如律     黄巻(こうかん)真(しん)に律(りつ)の如し
  青袍他自公     青袍(せいほう)も他(また)た公(こう)よりす
  老妻憂坐痺     老妻  坐痺(ざひ)を憂え
  幼女問頭風     幼女  頭風(とうふう)を問う
  平地専敧倒     平地(へいち)専(もっぱ)ら敧倒(きとう)し
  分曹失異同     分曹(ぶんそう)異同(いどう)に失(しつ)す
  礼甘衰力就     礼(れい)は甘んず衰力(すいりょく)就(つ)くを
  義忝上官通     義は忝(かたじけな)うす上官(じょうかん)の通ずるを
  疇昔論詩早     疇昔(ちゅうせき)  詩を論ずること早かりき
  光輝仗鉞雄     光輝(こうき)     仗鉞(じょうえつ)雄(ゆう)なり
  寛容存性拙     寛容(かんよう)   性拙(せいせつ)を存(そん)す
  剪拂念途窮     剪拂(せんふつ)  途窮(ときゅう)を念(おも)う
  露裛思藤架     露裛(ろゆう)  藤架(とうか)を思い
  煙霏想桂叢     煙霏(えんひ)  桂叢(けいそう)を想う
  信然亀触網     信然(しんぜん)  亀(き)  網(あみ)に触(ふ)る
  直作鳥窺籠     直(ただ)に鳥の籠を窺(うかが)うを作(な)す
  西嶺紆邨北     西嶺(せいれい)  邨北(そんほく)を紆(めぐ)り
  南江繞舎東     南江(なんこう)  舎東(しゃとう)を繞(めぐ)る
  竹皮寒旧翠     竹皮(ちくひ)    旧翠(きゅうすい)寒く
  椒実雨新紅     椒実(しょうじつ)  雨に新(あらた)に紅(くれない)なり
  浪簸船応坼     浪に簸(あふ)られて船応(まさ)に坼(ひら)くなるべし
  杯乾甕即空     杯(はい)乾きて甕(おう)即ち空(むな)し
  藩籬生野径     藩籬(はんり)  野径(やけい)生じ
  斤斧任樵童     斤斧(きんぷ)  樵童(しょうどう)に任(まか)す
  束縛酬知己     束縛(そくばく)  知己(ちき)に酬(むく)い
  蹉跎效小忠     蹉跎(さた)    小忠(しょうちゅう)を效(いた)す
  周防期稍稍     周防(しゅうぼう)稍稍(しょうしょう)を期す
  太簡遂怱怱     太簡(たいかん)遂に怱怱(そうそう)たり
  暁入朱扉啓     暁入(ぎょうにゅう)  朱扉(しゅひ)啓(ひら)き
  昏帰画角終     昏帰(こんき)  画角(がかく)終わる
  不成尋別業     別業(べつぎょう)を尋ぬるを成(な)さずんば
  未敢息微躬     未だ敢て微躬(びきゅう)を息(そく)せしめず
  烏鵲愁銀漢     烏鵲(うじゃく)  銀漢(ぎんかん)を愁(うれ)え
  駑駘怕錦幪     駑駘(どたい)  錦幪(きんもう)を怕(おそ)る
  会希全物色     会(かなら)ず希(ねが)う  物色(ぶつしょく)を全うして
  時放倚梧桐     時に放ちて梧桐(ごとう)に倚(よ)らしめむことを

  ⊂訳⊃
          清流に釣りをするよそ者
          秋空に白髪の翁
          こんな自分がなんで幕下に参じたのか
          舟の中にいるのがふさわしいのだ
          勤めは  法令で縛るように厳しく
          終わっても気のやすまるときがない
          老妻は  足の痺れを心配し
          幼い娘は  私の頭痛を気にかける
          平地でも  寝そべっていることが多く
          よその部署とは意見の衝突ばかり
          衰老の身が  礼に甘んじていられるのは
          上官の厚い友情があるからだ
          厳公とは詩を論ずる仲間だったが
          今は兵馬の権を帯び  栄光は身に及ぶ
          不器用な私を  寛大に受け入れ
          不遇の身を   親切に世話してくださる
          ところが私は  露に濡れる藤棚や
          靄にたなびく桂の林を気にしている
          まことに  網にかかった亀のようで
          鳥かごの鳥にひとしい存在だ
          村の北側に  西嶺が連なり
          家の東には  南江が流れる
          竹の幹は   昔からの青みどり
          山椒の実は  雨で一段と赤いだろう
          舟は波涛で壊れたかもしれず
          酒は飲みほして  酒甕は空になる
          籬には  ひとりでに径ができ
          子供の樵が  勝手にゆききする
          この身を縛りつけて知己に酬い
          つまづきながら  心ばかりの誠をつくす
          周囲から小言がないように努めているが
          ねっからの不束者  迷惑のかけどうしだ
          朝は開門と同時に出勤し
          夕べは角笛のやむころかえる
          これでは草堂にでも もどらなければ
          体をやすめることもできないだろう
          鵲は   銀河を埋めようとあせり
          駑馬は  錦の鞍掛けを恐れる
          どうか  馬の毛並みを損なわず
          鳥ならば桐の小枝にとまらせてほしい


 ⊂ものがたり⊃ 秋になると吐蕃との戦も終わり、杜甫は使府の勤めにもどります。ところが杜甫は、次第に役所勤めを窮屈と感じるようになりました。成都の紅灯の巷(ちまた)に出入りするようになったのも、このころのことのようです。
 詩は二十韻、つまり四十句の作品ですので、十句ずつに分けて説明します。詩は杜甫の辞職願と言ってよく、はじめの十句では、自分は役所勤めに適しないのだと言っています。病気がちの上、「分曹異同に失す」と華州の司功参軍を辞めたときと同じように、他人と意見が合わないことを理由にあげています。
 つぎの十句では、厳武の好意に感謝の気持ちを述べていますが、自分は露に濡れる藤棚や靄のたなびく桂の木が気になる性格で、毎日の役所勤めは籠の鳥のように不自由だといっています。
 さらにつぎの十句では、田園ののどかな生活を活写して、都会の官舎ぐらしの味気なさを暗に嘆いているようです。田園生活が懐かしいが、厳武の知己に酬いるために、なんとか勤めをつづけている。「蹉跎 小忠を效す」というのは、そのことを言うのでしょう。周囲から小言が出ないように注意して努めてはいるけれども、根っからの不束者(ふつつかもの)なので迷惑の掛けどおしと言っているのは、厳武のところに何か苦情でも言う者がいたのでしょう。また、早朝から夕刻までの勤めでは体を休めることもできないと、不満も述べています。
 詩人として自由な時間のほしい杜甫には、役所勤めは無理であったようです。「駑駘 錦幪を怕る」というのは、分不相応なことをしていては体がもたないと言っているわけで、ときどき桐の小枝に止まらせてくれるだけでいいのだと、杜甫は休息を求めています。

 杜甫ー182
    去蜀             蜀を去る

  五載客蜀郡     五載(ごさい)  蜀郡(しょくぐん)に客たり
  一年居梓州     一年  梓州(ししゅう)に居る
  如何関塞阻     如何(いかん)ぞ関塞(かんさい)に阻(はば)まるる
  転作瀟湘遊     転じて瀟湘(しょうしょう)の遊びを作(な)さん
  万事已黄髪     万事  已に黄髪(こうはつ)
  残生随白鷗     残生  白鷗(はくおう)に随(したが)わん
  安危大臣在     安危(あんき)には大臣在り
  不必涙長流     必ずしも涙(なんだ)長(とこしえ)に流れしめず

  ⊂訳⊃
          五か年間  蜀郡を旅し
          一か年は  梓州で暮らした
          どうしていつまでも関塞に閉じ込められているのか
          これからは瀟湘の間に遊ぼうと思う
          頭髪が黄色になっては  万事終わり
          残りの人生は  鷗のように自由でありたい
          国家の大事については  大臣がいる
          吾が輩がいつまでも涙をながすこともないだろう


 ⊂ものがたり⊃ 翌永泰元年(765)の正月休みに、杜甫は浣花渓の草堂にもどりますが、そのまま出仕せず、節度参謀の職を辞してしまいました。
 厳武は杜甫の辞職を認め、杜甫の草堂暮らしはしばらくつづくかと思われましたが、四月になると厳武が四十歳の若さで急死してしまいました。蜀州の刺史であった友人の高適(こうせき)も、このときすでに都に転任し、正月に長安で亡くなっていました。杜甫は一度に二人の有力な保護者を失うことになったのです。
 厳武の死によって成都にとどまる理由をなくした杜甫は、はじめの計画通り、長江から江漢の地に出て郷里をめざすことにしました。夏五月、杜甫は一家をあげて草堂を去り、錦江の渡津万里橋のたもとから船出をすることになりました。
 蜀を去るに当たって、杜甫は「転じて瀟湘の遊びを作さん」と詠っていますが、あくまで故郷に向かうのが本心です。途中、洞庭湖や瀟湘の地方を見物してゆく気はあったかもしれませんが、瀟湘見物のために船出をするような言い方をしているのは、広々とした自由の天地で生きようという気持ちの詩的表現であると見ることもできます。
 「残生 白鷗に随わん」と余裕の心境を述べていますが、これは去る者の強がりとも受け取れますし、また残りの人生を鷗のように自由に生きたいと言っているのかもしれません。結びの二句では、国家の大事については大臣がいるのだから自分がいつまでも心配することはなかろうと、政事への関心を捨てたような発言をしています。これは注目すべき発言です。