漢詩を楽しもう

tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 李賀29ー32

2011年03月29日 | Weblog
 李賀ー29
   仁和里雑叙皇甫     仁和里にて皇甫に雑叙す

  大人乞馬癯乃寒   大人(たいじん)に馬を乞(こ)えば   癯(や)せて乃ち寒し
  宗人貸宅荒厥垣   宗人(そうじん)  宅(たく)を貸せば  厥(そ)の垣荒る
  横庭鼡径空土渋   庭に横たわる鼡径(そけい)  空しく土渋(どじゅう)
  出籬大棗垂珠残   籬(まがき)を出づる大棗(たいそう) 垂珠(すいしゅ)残る
  安定美人截黄綬   安定の美人  黄綬(こうじゅ)を截(き)り
  脱落纓裾瞑朝酒   纓裾(えいきょ)を脱落して   瞑朝(めいちょう)の酒
  還家白筆未上頭   家に還(かえ)れば  白筆(はくひつ) 未だ頭に上らず
  使我清声落人後   我れをして清声(せいせい)  人後(じんご)に落ちしむ
  枉辱称知犯君眼   枉(ま)げて知と称するを辱(かたじけな)くし   君が眼を犯す
  排引纔陞強絙断   排引(はいいん) 纔(わず)かに陞(のぼ)れば 強絙(きょうこう)断ゆ
  洛風送馬入長関   洛風(らくふう)  馬を送って長関(ちょうかん)に入る
  闔扉未開逢契犬   闔扉(ごうひ)  未だ開かざるに契犬(けつけん)に逢(あ)う
  那知堅都相草草   那(なん)ぞ知らん  堅都(けんと)  相(そう)すること草草なるを
  客枕幽単看春老   客枕(かくちん)  幽単(ゆうたん)  春の老ゆるを看(み)る
  帰来骨薄面無膏   帰り来たれば  骨(ほね)薄く面(おもて)に膏(あぶら)無し
  疫気衝頭鬢茎少   疫気(えきき)   頭を衝(つ)いて鬢茎(びんけい)少(まれ)なり
  欲雕小説干天官   小説を雕(ちょう)して天官を干(おか)さんと欲するも
  宗孫不調為誰憐   宗孫(そうそん)  調(ちょう)せられず  誰にか憐れまれん
  明朝下元復西道   明朝  下元(かげん)  復(ま)た西道(せいどう)
  崆峒敍別長如天   崆峒(こうどう)  別れを敍(じょ)すれば  長く天の如くならん

  ⊂訳⊃
          叔父上に借りた馬は  痩せて貧弱な奴
          親族の家を借りたら  垣根は荒れ放題
          庭には雑草が茂り   鼠の径が横たわる
          伸びた棗の樹には   熟れ過ぎの実が垂れている
          安定郡の俊才は    黄綬を佩びる身分となり
          衣冠束帯をはずして  夜明けにいたる祝い酒
          だが 頭に白筆を    かざす身分ではないので
          せっかくの推薦も    私に効き目は現われない
          図らずも知己となり   目をけがすことになったが
          お引き立てに甘えて  階段を昇ろうとすれば綱が切れる
          洛陽の風に送られ   馬に乗って関門にはいるが
          門の扉が開かぬ内に  狂犬に吠えられる
          馬の鑑定が   こんなに大まかなものとは知らなかった
          都の旅寝も   過ぎゆく春をひとり寂しく眺めるだけ
          故郷に帰れば 痩せて顔には膏気もなく
          頭に血が上り  鬢毛も薄くなる
          つまらぬ文章  書いて官吏になろうとしたが
          皇族の末裔が 不採用だからといって誰が同情しよう
          明朝は下元の節句  また西への道をゆこうと思う
          崆峒山の別れの詩  天の果てまで遠く離れる心地がする


 ⊂ものがたり⊃ 李賀は河南府福昌県(河南省宜陽市)昌谷で育ちました。育ったというのは必ずしもそこで生まれたことを意味しませんので、父親の任地で生まれたのかもしれませんが、福昌県を本貫としてその地で成人しました。
 福昌県は東都洛陽から洛水にそって西南に三十三㌔㍍ほど遡ったところにあります。ただし、李賀の育った昌谷は洛水北岸の西郊、北の山間から流れ出た谷川が洛水に流入する谷口の東側に位置していました。昌谷は水田の広がる田園に竹林の点在する山紫水明の地で、李賀は幼少年期を過ごした故郷の山里をこよなく愛し、後年、「昌谷詩」など幾つかの詩を残しています。
 李賀の家はもと宗室の出ですが、はやくに宗族の本流をはなれ父親は地方官を転々とする身分でした。李賀は長子ですが、父親が四十歳を過ぎてから生まれた遅い子でした。姉と弟があり、弟の李猶(りゆう)は兄のかわりに昌谷の家をまもり、兄の詩業を助けました。
 李賀は幼小のころから聡明で、十四、五歳のころには詩才をあらわします。李賀が十六歳になった貞元二十一年(805)正月二十三日に徳宗が崩御し、順宗が即位します。順宗は政事改革をめざしますが失敗し、半年間で憲宗に位を譲ります。李賀が貢挙の府試を受けるために洛陽に出てきたのは憲宗の元和二年(807)秋のことで、仁和里にあった親族の家を借りて住居としました。東都の郭内といっても南端の辺鄙な場所です。
 そのころ韓愈は国子博士分司東都になり、洛陽に在勤していましたので、十八歳の李賀は自分の詩稿を携えて韓愈を訪ね詩才を認められます。
 府試に及第した李賀は、翌年春に行われる省試の進士科をめざしますが、そこに予想もしなかった障害が生じます。何処から湧いてきたのか判然としませんが、李賀は父親の緯(いみな)「晋粛」(しんしゅく)を避けるべきであり、晋は進と同音であるので、進士科を受けるのは父の緯を犯すことになるというのです。
 いまから思うと、あり得ないような話ですが、これが事実であることは韓愈が『緯弁』(いみなのべん)を書き、「父の名晋粛にして、子進士に挙げらるることを得ざれば、若し父の名仁ならば、子は人為(た)るを得ざるか」と論じて、反撃していることから分かります。李賀は韓愈に励まされ、韓愈の弟子の皇甫(こうほしょく)の推薦を受けて上京し、元和三年(808)正月の省試を受けますが、結果は落第でした。
 掲げた詩は、元和三年の十一月に李賀が再度長安に赴く際に皇甫に贈った詩ですが、李賀の貢挙受験前後のようすをよく伝えていますので、ここで取り上げます。この詩には、題注に「 新たに陸渾に尉たり」とありますので、皇甫は陸渾(河南省盧氏県付近)の県尉になって赴任することになっていたようです。
 詩のはじめの四句は、李賀が洛陽に出てきて住んだ仁和里(じんわり)の親族の家が、荒れ果てた家であったことが描かれます。「安定の美人」は皇甫の先祖が安定郡朝那(甘粛省平涼県西北)の出身であったことから、皇甫を安定郡の俊才と褒めて呼んだものです。
 「黄綬」は漢代の制度で県尉を指す言葉ですので、皇甫のことです。「白筆」は唐代に七品以上の官にあるものは頭に白筆を挿すことが許されていました。県尉は九品の官ですので白筆を頭に挿す身分ではありません。そんな皇甫が李賀の推薦人(省試を受ける人物保証人のようなもの)になってくれたけれども、李賀を及第させるほどの効果はなかったというのでしょう。
 後半の十句では、洛陽の風に送られて都の関門にはいるけれども、「闔扉 未だ開かざるに契犬(けつけん)に逢う」というのは、父の諱(いみな)の件でしょう。「堅都」は難解とされている語句ですが、「刀堅、丁君都は古の善く馬を相(そう)する者」という故事があることから刀堅と丁君都の二人のことで、馬の鑑定をする者と解されています。これが思いがけず大雑把なもので、自分は省試に及第できなかったというのです。なお、十二句目の契には「けもの」扁がついていますが、外字になるので、音は違いますが旁のみを書いています。

 李賀ー31
    出城             城を出づ

  雪下桂花稀     雪下(ふ)りて  桂花(けいか)稀(まれ)なり
  啼烏被弾帰     啼烏(ていう)  弾(だん)ぜられて帰る
  関水乗驢影     関水(かんすい)   驢(ろ)に乗る影
  秦風帽帯垂     秦風(しんぷう)に帽帯(ぼうたい)垂る
  入郷誠可重     郷(きょう)に入るは誠に重んず可きも
  無印自堪悲     印(いん)無きは自(おのず)から悲しむに堪えたり
  卿卿忍相問     卿卿(けいけい)   相(あい)問うに忍(しの)びんや
  鏡中双涙姿     鏡中(きょうちゅう) 双涙(そうるい)の姿

  ⊂訳⊃
          雪が降って   木犀の花も見えなくなり
          打たれた烏が  啼きながら帰ってゆく
          関中の川面に  驢馬に乗った影
          長安の風に吹かれて  頭巾の紐も垂れている
          国に帰るのは  嬉しいことだが
          官には就けず  堪えがたい悲しみだ
          愛する者も   首尾を尋ねることができず
          鏡のなかで   流す涙が目に浮かぶ


 ⊂ものがたり⊃ 省試に落第した李賀は失望し、悲嘆にくれます。春の雪がふったのでしょうか、「桂花」は木犀の花ですから秋に咲くものです。それが稀であるというのは、進士に登科することを「折桂」(せっけい)というからで、進士になることは難しいと詠っています。李賀は理不尽な誹謗を受けて登科できず、泣きながら城を出て故郷に帰るほかはありません。
 「卿卿」には故事があって、晋の王戎(おうじゅう)の妻は夫を呼ぶときに卿と言いました。王戎がそれを咎めると、妻は「卿に親しみ、卿を愛し、それで卿を卿と呼ぶのです」と言ったといいます。だから李賀には、このとき故郷に妻もしくは婚約者がいたという想定がなされています。その女性が省試の首尾を聞くこともできずに、鏡の中で涙を流している姿を想像するのです。

 李賀ー32
    銅駝悲            銅駝 悲しむ

  落魄三月罷     落魄(らくはく)  三月  罷(や)む
  尋花去東家     花を尋ねて   東家(とうか)に去る
  誰作送春曲     誰(たれ)か   送春の曲を作る
  洛岸悲銅駝     洛岸(らくがん)に銅駝(どうだ)悲しむ
  橋南多馬客     橋南(きょうなん)  馬客(ばきゃく)多く
  北山饒古人     北山(ほくざん)   古人(こじん)饒(おお)し
  客飲盃中酒     客は飲む  盃中(はいちゅう)の酒
  駝悲千万春     駝(だ)は悲しむ  千万春(せんばんしゅん)
  生世莫徒労     世に生まれて   徒(いたず)らに労すろこと莫(なか)れ
  風吹盤上燭     風(かぜ)は吹く  盤上(ばんじょう)の燭(しょく)
  厭見桃株笑     見るを厭(いと)う 桃株(とうしゅ)の笑うを
  銅駝夜来哭     銅駝(どうだ)  夜来(やらい)に哭(こく)す

  ⊂訳⊃
          おちぶれて  春三月も終わるころ
          花を尋ねて  東都の家にやってきた
          誰か  送春の曲を作る者はいないのか
          洛水の岸で  銅の駱駝が悲しんでいる
          橋の南では  騎馬の往来がはげしく
          北邙山は   死者の墓でいっぱいだ
          遊客たちは  酒を飲んで酔っぱらっているが
          駱駝は千年万年  過ぎゆく春を傷むのだ
          世に生まれ  ことさら苦労することもあるまい
          風が吹けば  蝋燭はすぐに消えてしまう
          見たくないのは   咲いている桃の花
          駱駝の像は  夜中じゅう大きな声で泣いている


 ⊂ものがたり⊃ 李賀は大きな挫折を味わい、故郷に帰るほかはありません。季節は三月の末になっていました。帰郷の途中、洛陽に立ち寄ります。「東家」は東の家という意味ですが、具体的には東都洛陽の仁和里にある仮居のことでしょう。
 詩題の「銅駝」は銅製の駱駝の像で、洛陽の街を西から東へ貫流していた洛水の岸に、対になって立っていたそうです。洛陽では洛水北岸に銅駝里があり、繁華街でした。銅駝里は浮き橋によって南岸の慈恵里につながっており、このあたりは南に南市(市場)をひかえる行楽の場であったようです。李賀は省試落第の傷心を紛らすために、繁華街をさまよったのでしょう。「北山」は洛陽の北に横たわる北邙山(ほくぼうざん)のことで、墳墓の地として有名でした。
 後半の六句も銅駝街のあたりをさまよいながら、李賀は悲嘆に胸をふさがれています。この詩には韓愈も皇甫も出てきませんが、このとき二人は洛陽にいなかったか、李賀が会うのを避けたのでしょう。李賀は「見るを厭う 桃株の笑うを」の心境でした。
 「笑」は笑うとも訳せますが、「笑」の本来の意味は「咲く」ですので、「咲いている」と訳しました。咲いている桃の花が自分を笑っているように見える。それを見たくないと考える方が李賀の詩らしいかもしれません。銅駝は夜中じゅう泣いていますが、この「銅駝」は李賀自身の比喩でしょう。