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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 白居易16ー21

2010年08月26日 | Weblog
 白居易ー16
   客路感秋寄明準上人    客路 秋に感じ明準上人に寄す

  日暮天地冷     日暮れて天地冷やかに
  雨霽山河清     雨霽(は)れて山河(さんが)清し
  長風従西来     長風(ちょうふう) 西より来たり
  草木凝秋声     草木(そうもく)   秋声(しゅうせい)を凝(こ)らす
  已感歳倏忽     已(すで)に歳(とし)の倏忽(しゅくこつ)なるを感じ
  復傷物凋零     復(ま)た物の凋零(ちょうれい)するを傷(いた)む
  孰能不惨悽     孰(たれ)か能(よ)く惨悽(さんせい)せざらんや
  天時牽人情     天時(てんじ)    人情を牽(ひ)く
  借問空門子     借問(しゃもん)す 空門(くうもん)の子
  何法易修行     何の法か  修行し易(やす)く
  使我忘得心     我をして心を忘れ得(え)しめ
  不教煩悩生     煩悩(ぼんのう)をして生ぜしめざる

  ⊂訳⊃
          日暮れて  天地はひんやりとし
          雨晴れて  山河は清らかである
          西風が  冷たく吹きつのり
          草木は  秋の色に染まっていく
          すでに  歳月のすみやかであるのを感じ
          また    物事のおとろえてゆくのを悲しむ
          これを  悲痛と思わない者があるだろうか
          天の移り変わりは  このように人の心をひく
          よってお尋ねする  宗門の徒でない者が
          わが心を忘れ去り
          煩悩を起こさないようにするには
          どの教えが修行しやすいであろうか


 ⊂ものがたり⊃ 白居易の家の実情からすると、前進士になった白居易の出世に対する期待は大きく、白居易は収入を得ることに焦っていたようです。貞元十七年の春、白居易が若いころ世話になった符離の従祖兄が亡くなりました。浮梁に滞在していた白居易はすぐに符離に行って弔意を表し、遺された家族を励ましました。
 この父の従兄弟の家は、そのころ家産を失い、従祖兄も身分の低い官吏で亡くなったので生活は困窮していたようです。白居易は若いころ家族同様に世話になったので、恩を返す必要がありました。秋になると、白居易は長安にもどりますが、その旅の途中で明準(みょうじゅん)という僧と知り合いになり、詩を贈っています。
 白居易は後に仏教を信仰するようになりますが、このころは仏教について深く踏み込むところまではいっていませんでした。詩の上では無常観に言及していますが、悩みの多い人生を送っている白居易は、「空門の子」となるにはどんな修行をしたらよいかと尋ねているだけです。仏門に深い関心があったわけではありません。

 白居易ー17
   秋雨中贈元九         秋雨の中 元九に贈る

  不堪紅葉青苔地   堪(た)えず  紅葉青苔(こうようせいたい)の地
  又是涼風暮雨天   又是(こ)れ  涼風暮雨(りょうふうぼう)の天
  莫怪独吟秋思苦   怪しむ莫(な)かれ  独吟秋思(どくぎんしゅうし)の苦しきを
  比君校近二毛年   君に比して  校(やや)近し二毛(にもう)の年(とし)

  ⊂訳⊃
          紅葉青苔の地は堪えがたい

          涼風暮雨の空も同様だ

          ひとり秋の苦しみを詠うが  怪しまないでくれ

          君と比べたら  すこしは白髪まじりの年に近いのだ


 ⊂ものがたり⊃ 長安にもどった白居易は、その年の銓試の試判抜粋科を受ける決心をしました。十五歳で省試の明経科に及第していた元愼(げんじん)は、この年、二十四歳になっており、同じく銓試に挑戦しようとしていました。明経科の守選は七年ですが、元愼は十年を経て銓試を目指したのです。二人は知り合って親しくなり、「元九」と排行で呼んで詩を贈り合う仲になります。
 元稹は鮮卑族拓抜魏(たくばつぎ)の王族の流れを汲む者でしたが、北魏が東西に分裂し、北魏の正統を継ぐ西魏が滅んでから、すでに二百四十五年もたっています。拓抜魏自身が北魏時代に漢化してしまっていましたので、元稹は異民族の出ではあっても漢族と変わりはありません。元稹の父親は尚書省比部郎中(従五品上)になっており、白居易の父親よりはすこしましな官吏でしたが、元稹が八歳のときになくなり、二人は境遇も似たり寄ったりの寒門の出でした。
 詩中の「二毛の年」というのは白髪まじりのことですが、三十二歳という年齢も指しています。白居易は七歳も若い元愼に自分が三十二歳に近いことを嘆いているのでしょう。

 白居易ー18
   常楽里閑居 偶題十六韻   常楽里の閑居 偶十六韻を題し    
   兼寄劉十五公輿王十一起   兼ねて劉十五公輿 王十一起
   呂二呂四頴崔十八玄亮   呂二 呂四頴 崔十八玄亮
   元九稹劉三十二敦質張十   元九稹 劉三十二敦質 張十五
   五仲元時為校書郎       仲元に寄す 時に校書郎為り

  帝都名利場     帝都は名利(みょうり)の場(じょう)
  鶏鳴無安居     鶏(にわとり)鳴けば安居(あんきょ)する無し
  独有懶慢者     独り懶慢(らんまん)の者有り
  日高頭未梳     日高くして頭(かしら)未だ梳(くしけず)らず
  工拙性不同     工拙(こうせつ)  性(せい)同じからず
  進退迹遂殊     進退(しんたい)  迹(あと)遂に殊(こと)なり
  幸逢太平代     幸いに太平の代に逢い
  天子好文儒     天子  文儒(ぶんじゅ)を好む
  小才難大用     小才  大いには用い難く
  典校在秘書     典校(てんこう)して秘書に在り
  三旬両入省     三旬(さんじゅん)に両(はつ)か入省し
  因得養頑疎     因(よ)りて頑疎(がんそ)を養うを得たり
  茅屋四五間     茅屋(ぼうおく)四五間
  一馬二僕夫     一馬(いちば)と二僕夫
  俸銭万六千     俸銭(ほうせん)は万六千
  月給亦有余     月に給して亦(ま)た余り有り
  既無衣食牽     既に衣食の牽(けん)無く
  亦少人事拘     亦た人事に拘(かか)わり少なし
  遂使少年心     遂に少年の心をして
  日日常晏如     日日(にちにち)常に晏如(あんじょ)たら使(し)む
  勿言無知己     言う勿(なか)れ  知己(ちき)無しと
  躁静各有徒     躁静(そうせい)  各々(おのおの)徒(と)有り
  蘭台七八人     蘭台(らんだい)の七八人
  出処与之倶     出処(しゅっしょ)  之(こ)れと倶(とも)にす
  旬時阻談笑     旬時(じゅんじ)も談笑を阻(へだ)つれば
  旦夕望軒車     旦夕(たんせき)  軒車(けんしゃ)を望む
  誰能讎校間     誰か能(よ)く讎校(しゅうこう)の間(かん)
  解帯臥吾廬     帯を解いて吾が廬(ろ)に臥(ふ)せん
  窓前有竹翫     窓前(そうぜん)に竹の翫(もてあそ)ぶべき有り
  門外有酒沽     門外に酒の沽(う)る有り
  何以待君子     何を以てか君子(くんし)を待たん
  数竿対一壷     数竿(すうかん)  一壷(いっこ)に対す

  ⊂訳⊃
          帝都長安は  名誉と利益の存するところ
          鶏が鳴けば  のんびりしている者はない
          ひとりだけ   なまけ者がいて
          日が高く昇っても  髪をくしけずらない
          物事の巧拙は  人によって違うが
          この者の進退だけは  特別だ
          だが幸せにも  太平の世に出逢い
          天子は文学や儒学を好まれる
          才能もないので重要な仕事はまかせられず
          書籍の校訂係として秘書省にいる
          ひと月に二十日出勤し
          愚か者でも食べてゆける
          あばら屋に間口四五間の部屋
          一頭の馬と二人の召し使い
          俸給は一万六千銭だが
          月々の費用をみたして余りがある
          衣食の心配がない上に
          人づき合いのわずらわしさも少ない
          そんなわけで  若者の心は
          安らかで落ちついている
          友人がいないというわけではなく
          さわがしい者から静かな者までいる
          秘書省の七八人は
          出勤  退出  いつもいっしょだ
          十日もばか話をしないでいると
          日がな一日  友人の車の来るのを待っている
          校訂の仕事のあい間に
          誰か私の部屋でくつろいでくれる者はいないか
          窓辺には   眺めて楽しむ竹があり
          門の外では  酒も売っている
          さて  そんな君子を何でもてなそうか
          数本の竹が  ひと壷の酒と向き合っている


 ⊂ものがたり⊃ 銓試のうち博学宏詞科は詩作の能力に重きを置き、試判抜萃科は論文に重きを置きます。詩作に自信のあった白居易が試判抜萃科を選んだ理由については、祖父の名が白鎬(はくこう)で博学宏詞科の「宏」と同音のため、それを避けたと言われています。当時、名に対する禁忌は相当のもので、白居易は用心深く振舞ったのです。
 元愼も試判抜萃科を受験し、合否の判定は翌貞元十九年(803)の春に発表されました。合格者八人のうちに二人の名前もあり、合格の順位は試判抜萃科中、白居易は一位、元愼は五位でした。合格者一同は、曲江の西にある杏園(きょうえん)で天子から饗宴を賜わり、そのあと西明寺(さいみょうじ)に行って能筆の者が合格者全員の姓名を壁に書きつけます。西明寺は西市の東南角に隣接する延康坊にありましたので、杏園からずいぶん離れていますが、牡丹の名所として有名でした。
 こうした華やかな行事のあと、各人の配置が決まります。白居易と元愼は共に秘書省著作局の校書郎(正九品上)に任ぜられ、しばらく勤務を共にします。白居易は任官すると、常楽坊にあったもと宰相の関播(かんはん)の私邸の一隅を借りて住居とし、そこから秘書省に通勤しました。
 詩は勤めはじめてから間もなくのもので、白居易が詩を寄せている劉公輿(りゅうこうよ)、王起、呂(りょけい)、呂頴(りょえい)、崔玄亮(さいげんりょう)、元愼、劉敦質(りゅうとんしつ)、張仲元(ちょうちゅうげん)の八人は秘書省の同僚と思われます。そのうち王起、呂、崔玄亮、元愼の四人は白居易と同年の銓試合格者ですので、校書郎は新人役人の見習い職場であったことがわかります。
 常楽里(坊に同じ)は東市の東に隣接し、東壁正門の春明門に近いところにあります。しかし、白居易のころには東市の跡はほとんどが住宅地になっており、市場の機能は西市に集約されていました。消費都市としての長安は衰退しており、常楽坊のあたりも城壁に沿った寂れた街になっていたようです。
 「三旬に両か入省し」については、ひと月に二日出勤という説もありますが、それではあまりにも少ないので、「両」を両旬の略と考えて二十日出勤としました。白居易が借りた部屋は間口四五間ほどのものでした。白居易は「茅屋四五間」とか「俸銭は万六千」とか具体的な数字をあげて、任官した当座の生活の模様をやや諧謔味をこめて描いています。詩に数字をあげて俗事を持ち込むのは、儒学の規範を重んじ、典雅を旨とするこれまでの詩には見られなかったものですが、このあと白居易の詩の特徴として育ってゆくものです。
 友人とのにぎやかな交流もはじまります。これまでの白居易は、どちらかというと孤独で、悲痛な感じの詩を作ってきましたが、流入(官吏になること)した途端、余裕のある態度に変わってきています。生計にもゆとりが生じてきましたので、翌年、貞元二十年(804)には洛陽から徐州に旅行をし、また渭村下邽に住居を求めて、失われていた父祖の地を回復しています。いまや白居易は、一族の希望の星です。

 白居易ー21
   酬哥舒大見贈         哥舒大が贈られしに酬ゆ

  去歳歓遊何処去   去歳(きょさい)  歓遊(かんゆう)して  何れの処にか去る
  曲江西岸杏園東   曲江(きょくこう)の西岸  杏園(きょうえん)の東
  花下忘帰因美景   花下(かか)帰るを忘るるは  美景(びけい)に因り
  樽前勧酒是春風   樽前(そんぜん)酒を勧むるは  是れ春風(しゅんぷう)
  各従微官風塵裏   各々(おのおの)微官に従う  風塵の裏(うち)
  共度流年離別中   共に流年(りゅうねん)を度(わた)る  離別の中(うち)
  今日相逢愁又喜   今日(こんにち)相逢(あいあ)い  愁えて又喜ぶ
  八人分散両人同   八人分散して  両人同じくするを

  ⊂訳⊃
          去年  勧びを共にして遊びに行ったのは
          曲江の西   杏園の東
          花の下で   美しい景色に帰るのを忘れ
          酒樽の前で 春風が酒を勧める
          それぞれ微官に任ぜられ  俗事にまみれて
          別れたままで  月日は流れた
          今日君と逢い  愁いもあれば喜びもある
          八人は分かれ分かれだが  二人は一緒にいるのだから


 ⊂ものがたり⊃ 去年、同年(同期という意味)で任官した哥舒煩(かじょはん)と逢い、哥舒煩から詩が贈らました。詩題にある「大」は排行一という意味です。掲げた詩は、それに答えた白居易の詩になります。
 哥舒煩は秘書省の同僚には入っていませんので、他の部署に配属されたのでしょう。詩によると昨年の及第者は一年のあいだに異動してわかれわかれになり、貞元二十年に長安に残っていたのは二人だけになっていたようです。元愼も洛陽に転勤していました。これは当時の慣行で、新しく任官した者はしばらく中央の部署で見習いをしたあと、地方に出て行政の実務を学ぶことになっていました。
 昨年の楽観的な詩に比べると、ややもの淋しい作品になっていますが、白居易には何の屈托もないように感じられます。