李白161
永王東巡歌十一首 永王東巡の歌 十一首
其一 其の一
永王正月東出師 永王 正月 東に師(し)を出(い)だす
天子遥分龍虎旗 天子 遥かに分かつ龍虎の旗
楼船一挙風波静 楼船(ろうせん)一挙すれば 風波静かに
江漢翻為雁鶩池 江漢は翻(かえ)って雁鶩(がんぼく)の池と為(な)る
⊂訳⊃
正月 永王は東に兵を出し
天子は遥かに 龍虎の旗を授ける
楼船がひとたび動けば 風波は静まり
長江も漢水も 雁や家鴨の池となるだろう
⊂ものがたり⊃ 李白は戦乱を恐れて、かなり右往左往します。剡中まで難を避けたけれども、政府軍が河東や河北で攻勢に転じているのを聞くと、いくらか安心したのか金陵にもどってきます。ところが六月八日に潼関を守っていた哥舒翰(かじょかん)の兵が破れ、六月十三日に玄宗以下の朝廷が長安を捨てて西に走ったと聞くと、李白は金陵から長江を遡って尋陽に行き、廬山の屏風畳に隠れ住みます。屏風畳にはかねて知り合いの女道士李騰空(りとうくう)がいましたので、妻を連れて頼ったのでしょう。
李白が隠れていたあいだに、玄宗は楊貴妃一族を殺せという護衛兵の要求を拒否できず、楊貴妃以下が殺されるのを見捨てて蜀の成都を目指します。皇太子の李享は玄宗とわかれて北の霊武(寧夏回族自治区霊武県)に移り、七月に即位(粛宗)して年号を至徳と改めます。この即位は玄宗の譲位を受けたものではありませんでしたので、事後に承認を求めます。
一方、玄宗は成都へ向かう途中、漢中(陝西省南鄭県)で軍議をひらき、七月十五日に勅命を発して永王李璘(りりん)らに各地の冶定と賊軍への反攻を指示します。この時点では粛宗の即位は玄宗のもとに届いていなかったので、玄宗は皇帝として命令を出したのです。江南地方の冶定を命ぜられた永王李璘は、荊州の江陵に使府を置いて募兵と兵船の準備をはじめます。永王の戦争準備はやがて粛宗の知るところとなり、粛宗はこれを禁じて成都の玄宗のもとにもどるように命じますが、永王はこれを無視して、十二月十五日には兵船をととのえて長江を東へ進軍しはじめます。
永王は有名な詩人の李白が廬山にいることを知り、再三にわたって使者を送り、李白を自軍の幕僚に迎えようとします。李白は永王が玄宗の命令によって江南地方を平定するのだと信じていましたので、正月前後には廬山を出て、永王の東征軍に加わります。李白は国に尽くして名を挙げる時がいよいよやって来たと、勇躍して軍に参加したと思われます。
李白ー162
永王東巡歌十一首 永王東巡の歌 十一首
其二 其の二
三川北虜乱如麻 三川(さんせん)の北虜(ほくりょ) 乱れて麻の如し
四海南奔似永嘉 四海は南奔(なんほん)して永嘉(えいか)に似たり
但用東山謝安石 但(た)だ東山(とうざん)の謝安石を用いれば
為君談笑静胡沙 君が為に談笑して胡沙(こさ)を静(しず)めん
⊂訳⊃
洛陽の北賊は 天下を麻のように乱し
人々は南に難を避け 永嘉の乱に似ている
東山の謝安石 このような人物を用いるならば
君王のために 笑って北の砂塵を静めるであろう
⊂ものがたり⊃ 李白は永王の軍に尋陽から参加するのですが、詩の其の一は永王の江陵出兵からはじまっています。このことから、連作が意図的に構成されていることが分かります。詩中の「永嘉」は晋の永嘉五年(311)に洛陽が前趙の劉曜に攻められて陥落したときに、多くの知識人が江南に逃れた事件をさします。
また「謝安石」(しゃあんせき)は前秦の符堅(ふけん)が大軍で南下して東晋を攻めたとき、東山に隠居していた謝安(あざなは安石)がそれを淝水(ひすい)に迎えて撃退した大勝利のことです。李白は自分を謝安に比して、永王のために談笑のうちに北賊を撃退してみせましょうと華やかなことを言っています。
李白ー163
永王東巡歌十一首 永王東巡の歌 十一首
其三 其の三
雷鼓嘈嘈喧武昌 雷鼓嘈嘈(そうそう)として武昌に喧(かまびす)しく
雲旗猟猟過尋陽 雲旗猟猟(りょうりょう)として尋陽を過ぐ
秋毫不犯三呉悦 秋毫(しゅうごう)も犯さず 三呉(さんご)は悦び
春日遥看五色光 春日(しゅんじつ)遥かに看る 五色(ごしょく)の光
⊂訳⊃
進軍の太鼓は 武昌の空に鳴りわたり
旗は雲のように翻って 尋陽を過ぎる
些かの不法もないので 三呉の民は悦び
春の日に遥かに望む 五色の光
⊂ものがたり⊃ 永王の船団は江陵から武昌(湖北省武漢市)をへて尋陽に至ったのであり、その進軍の盛んなことを褒めています。永王の兵の統制がとれているので、呉の民は征旅のうえに「五色光」を仰ぎ見ていると詠います。「五色の光」とは祥瑞の雲気であり、めでたいことのはじまる兆しです。
しかし、永王が鄱陽郡(はようぐん)、つまり尋陽まできたときには、呉郡(江蘇省蘇州市)の太守李希言(りきげん)が、永王の東下を平牒(へいちょう)で咎めてきました。平牒とは普通の文書のことで、玄宗の勅命を受けた永王の立場を認めない詰問の書です。呉郡太守の無礼に激怒した永王は、部将に命じて呉郡と揚州の攻撃を命じます。戦闘はすでに開始されていたのです。
李白ー164
永王東巡歌十一首 永王東巡の歌 十一首
其四 其の四
龍蟠虎踞帝王州 龍蟠虎踞(りゅうばんこきょ)す 帝王の州(しゅう)
帝子金陵訪古丘 帝子 金陵に古丘(こきゅう)を訪(と)う
春風試暖昭陽殿 春風 暖(だん)を試む昭陽殿(しょうようでん)
明月還過鳷鵲楼 明月 還(ま)た過ぐ鳷鵲楼(しじゃくろう)
⊂訳⊃
龍虎がうずくまる帝王の地
皇子が金陵の古跡を訪ねる
昭陽殿では 春風に吹かれて暖かく
明月の夜は 鳷鵲楼を散策なさる
⊂ものがたり⊃ 戦闘はすでに始まっていますが、李白の東巡歌はのんびりしたものです。尋陽から金陵に船を進めた永王は「金陵に古丘を訪う」と古都建康の古跡を訪ねます。李白はもちろん供をして詩を作ります。
詩中の「昭陽殿」も「鳷鵲楼」も南朝の都にあった宮殿で、これらの宮殿は名前を引き継いで長安にもあります。李白は金陵の古跡を歩く永王を都城にいるかのように描いており、永王こそ将来の皇帝であるかのように詠っています。
李白ー165
永王東巡歌十一首 永王東巡の歌 十一首
其五 其の五
二帝巡遊倶未廻 二帝 巡遊(じゅんゆう)して倶(とも)に廻(かえ)らず
五陵松柏使人哀 五陵の松柏(しょうはく) 人をして哀しましむ
諸侯不救河南地 諸侯は救(すく)わず 河南の地
更喜賢王遠道来 更に喜ぶ 賢王の遠道(えんどう)より来たるを
⊂訳⊃
帝王はお二人とも まだ都に帰っておられず
五陵の事を思うと 私は悲しみにたえない
将軍たちは 河南の地を救うことができず
ひとびとは 賢王の遠征を待ち望んでいる
⊂ものがたり⊃ 至徳二載(757)正月のこの時点では、玄宗も粛宗も都に帰還できていない状態です。詩中の「五陵の松柏」は唐の五代の帝王の陵墓のことで、李白は皇帝の墓が賊の手中にあることを思うと悲しみにたえないと嘆きます。洛陽の民は賢王の遠征を望んでいると詠い、永王が江南のみならず洛陽にも攻めのぼって、河南の賊軍を追い払うことを期待しているのです。
李白ー166
永王東巡歌十一首 永王東巡の歌 十一首
其六 其の六
丹陽北固是呉関 丹陽の北固(ほくこ)は 是(こ)れ呉関(ごかん)
画出楼台雲水間 画(えが)き出す楼台 雲水(うんすい)の間(かん)
千巌烽火連滄海 千巌の烽火(ほうか) 滄海(そうかい)に連なり
両岸旌旗繞碧山 両岸の旌旗(せいき) 碧山(へきざん)を繞(めぐ)る
⊂訳⊃
丹陽の北固山こそ 呉の関門
山上の楼台は 絵のように雲水に浮かぶ
峰々の烽火は 山をつらねて海までつづき
両岸の軍旗は 緑の山をめぐってはためく
⊂ものがたり⊃ 永王の船団は金陵から丹陽(たんよう)に進んでいます。丹陽(江蘇省鎮江市)は潤州の郡名で、当時は長江の河口に位置する重要な渡津でした。現在の揚子江の河口は堆積による陸地化によって東に250kmほど移動しています。また、江南の呉地へ延びる大運河の入り口でもありましたので、李白は「丹陽の北固は 是れ呉関」と言っているのです。「北固」は潤州にあった山の名です。
永王軍は呉郡と揚州の兵を退けて、江南の喉首ともいえる潤州を占領しました。詩はその意気揚々とした姿を詠っています。
李白ー167
永王東巡歌十一首 永王東巡の歌 十一首
其七 其の七
王出三江按五湖 王は三江を出でて五湖を按(あん)じ
楼船跨海次揚都 楼船 海に跨(またが)って揚都(ようと)に次(じ)す
戦艦森森羅虎士 戦艦森森(しんしん) 虎士(こし)を羅(つら)ね
征帆一一引龍駒 征帆(せいはん)一一 龍駒(りゅうく)を引く
⊂訳⊃
永王は三江から五湖の地までを平定し
楼船は 海を渡ろうとして揚州に泊す
戦艦は 意気盛んな戦士を満載し
どの帆船にも 駿馬が乗っている
⊂ものがたり⊃ 其の七の詩では、永王の軍が五湖の地を平定し、「海に跨って揚都に次す」と言っていますが、実際に占領しているのは潤州の対岸の揚子津(ようすしん)までで、揚州に入城してはいません。
重要なのは永王の船団が海上を北航して賊の背後を衝く策戦を立てていたらしいことです。そのために戦艦や帆船に兵馬を満載していると詠っています。この策戦は、多分、李白の献策であろうと言われています。
李白ー168
永王東巡歌十一首 永王東巡の歌 十一首
其十一 其の十一
試借君王玉馬鞭 試みに君王の玉馬鞭(ぎょくばべん)を借りて
指揮戎虜坐瓊筵 戎虜(じゅうりょ)を指揮して瓊筵(けいえん)に坐さん
南風一掃胡塵静 南風(なんぷう)一掃して胡塵(こじん)静かに
西入長安到日辺 西のかた長安に入りて日辺(にっぺん)に到らん
⊂訳⊃
試みに 君王の玉馬の鞭を拝借し
賊徒を退治して 祝宴に坐したい
南の風が胡兵を一掃し 静かになれば
西のかた長安に入って 天子に仕えよう
⊂ものがたり⊃ 其の十一の詩は「永王東巡歌」の最後の作になります。この詩では胡兵(こへい)を一掃した暁には長安へ行って天子に仕えたいと、李白は生涯変わることのなかった官途への希望を述べています。
しかしそのころ、粛宗の命を受けた永王征討軍は安陸に集結しはじめていましたし、皇帝の特命を帯びた宦官の啖廷瑤(たんていよう)が揚州に来て、永王軍の招諭を策していました。揚州の淮南採訪使や河北招訪使の軍は揚子津(ようすしん)に兵を進め、瓜歩洲(かほす)で気勢を挙げました。永王麾下の有力部将は、招諭に応じて粛宗への帰順を誓い、夜のあいだに逃亡してしまいました。
永王は残兵を率いて船で晋陵(江蘇省常州市)に退きますが、揚州軍の追撃を受けて晋陵で壊滅してしまいます。
永王東巡歌十一首 永王東巡の歌 十一首
其一 其の一
永王正月東出師 永王 正月 東に師(し)を出(い)だす
天子遥分龍虎旗 天子 遥かに分かつ龍虎の旗
楼船一挙風波静 楼船(ろうせん)一挙すれば 風波静かに
江漢翻為雁鶩池 江漢は翻(かえ)って雁鶩(がんぼく)の池と為(な)る
⊂訳⊃
正月 永王は東に兵を出し
天子は遥かに 龍虎の旗を授ける
楼船がひとたび動けば 風波は静まり
長江も漢水も 雁や家鴨の池となるだろう
⊂ものがたり⊃ 李白は戦乱を恐れて、かなり右往左往します。剡中まで難を避けたけれども、政府軍が河東や河北で攻勢に転じているのを聞くと、いくらか安心したのか金陵にもどってきます。ところが六月八日に潼関を守っていた哥舒翰(かじょかん)の兵が破れ、六月十三日に玄宗以下の朝廷が長安を捨てて西に走ったと聞くと、李白は金陵から長江を遡って尋陽に行き、廬山の屏風畳に隠れ住みます。屏風畳にはかねて知り合いの女道士李騰空(りとうくう)がいましたので、妻を連れて頼ったのでしょう。
李白が隠れていたあいだに、玄宗は楊貴妃一族を殺せという護衛兵の要求を拒否できず、楊貴妃以下が殺されるのを見捨てて蜀の成都を目指します。皇太子の李享は玄宗とわかれて北の霊武(寧夏回族自治区霊武県)に移り、七月に即位(粛宗)して年号を至徳と改めます。この即位は玄宗の譲位を受けたものではありませんでしたので、事後に承認を求めます。
一方、玄宗は成都へ向かう途中、漢中(陝西省南鄭県)で軍議をひらき、七月十五日に勅命を発して永王李璘(りりん)らに各地の冶定と賊軍への反攻を指示します。この時点では粛宗の即位は玄宗のもとに届いていなかったので、玄宗は皇帝として命令を出したのです。江南地方の冶定を命ぜられた永王李璘は、荊州の江陵に使府を置いて募兵と兵船の準備をはじめます。永王の戦争準備はやがて粛宗の知るところとなり、粛宗はこれを禁じて成都の玄宗のもとにもどるように命じますが、永王はこれを無視して、十二月十五日には兵船をととのえて長江を東へ進軍しはじめます。
永王は有名な詩人の李白が廬山にいることを知り、再三にわたって使者を送り、李白を自軍の幕僚に迎えようとします。李白は永王が玄宗の命令によって江南地方を平定するのだと信じていましたので、正月前後には廬山を出て、永王の東征軍に加わります。李白は国に尽くして名を挙げる時がいよいよやって来たと、勇躍して軍に参加したと思われます。
李白ー162
永王東巡歌十一首 永王東巡の歌 十一首
其二 其の二
三川北虜乱如麻 三川(さんせん)の北虜(ほくりょ) 乱れて麻の如し
四海南奔似永嘉 四海は南奔(なんほん)して永嘉(えいか)に似たり
但用東山謝安石 但(た)だ東山(とうざん)の謝安石を用いれば
為君談笑静胡沙 君が為に談笑して胡沙(こさ)を静(しず)めん
⊂訳⊃
洛陽の北賊は 天下を麻のように乱し
人々は南に難を避け 永嘉の乱に似ている
東山の謝安石 このような人物を用いるならば
君王のために 笑って北の砂塵を静めるであろう
⊂ものがたり⊃ 李白は永王の軍に尋陽から参加するのですが、詩の其の一は永王の江陵出兵からはじまっています。このことから、連作が意図的に構成されていることが分かります。詩中の「永嘉」は晋の永嘉五年(311)に洛陽が前趙の劉曜に攻められて陥落したときに、多くの知識人が江南に逃れた事件をさします。
また「謝安石」(しゃあんせき)は前秦の符堅(ふけん)が大軍で南下して東晋を攻めたとき、東山に隠居していた謝安(あざなは安石)がそれを淝水(ひすい)に迎えて撃退した大勝利のことです。李白は自分を謝安に比して、永王のために談笑のうちに北賊を撃退してみせましょうと華やかなことを言っています。
李白ー163
永王東巡歌十一首 永王東巡の歌 十一首
其三 其の三
雷鼓嘈嘈喧武昌 雷鼓嘈嘈(そうそう)として武昌に喧(かまびす)しく
雲旗猟猟過尋陽 雲旗猟猟(りょうりょう)として尋陽を過ぐ
秋毫不犯三呉悦 秋毫(しゅうごう)も犯さず 三呉(さんご)は悦び
春日遥看五色光 春日(しゅんじつ)遥かに看る 五色(ごしょく)の光
⊂訳⊃
進軍の太鼓は 武昌の空に鳴りわたり
旗は雲のように翻って 尋陽を過ぎる
些かの不法もないので 三呉の民は悦び
春の日に遥かに望む 五色の光
⊂ものがたり⊃ 永王の船団は江陵から武昌(湖北省武漢市)をへて尋陽に至ったのであり、その進軍の盛んなことを褒めています。永王の兵の統制がとれているので、呉の民は征旅のうえに「五色光」を仰ぎ見ていると詠います。「五色の光」とは祥瑞の雲気であり、めでたいことのはじまる兆しです。
しかし、永王が鄱陽郡(はようぐん)、つまり尋陽まできたときには、呉郡(江蘇省蘇州市)の太守李希言(りきげん)が、永王の東下を平牒(へいちょう)で咎めてきました。平牒とは普通の文書のことで、玄宗の勅命を受けた永王の立場を認めない詰問の書です。呉郡太守の無礼に激怒した永王は、部将に命じて呉郡と揚州の攻撃を命じます。戦闘はすでに開始されていたのです。
李白ー164
永王東巡歌十一首 永王東巡の歌 十一首
其四 其の四
龍蟠虎踞帝王州 龍蟠虎踞(りゅうばんこきょ)す 帝王の州(しゅう)
帝子金陵訪古丘 帝子 金陵に古丘(こきゅう)を訪(と)う
春風試暖昭陽殿 春風 暖(だん)を試む昭陽殿(しょうようでん)
明月還過鳷鵲楼 明月 還(ま)た過ぐ鳷鵲楼(しじゃくろう)
⊂訳⊃
龍虎がうずくまる帝王の地
皇子が金陵の古跡を訪ねる
昭陽殿では 春風に吹かれて暖かく
明月の夜は 鳷鵲楼を散策なさる
⊂ものがたり⊃ 戦闘はすでに始まっていますが、李白の東巡歌はのんびりしたものです。尋陽から金陵に船を進めた永王は「金陵に古丘を訪う」と古都建康の古跡を訪ねます。李白はもちろん供をして詩を作ります。
詩中の「昭陽殿」も「鳷鵲楼」も南朝の都にあった宮殿で、これらの宮殿は名前を引き継いで長安にもあります。李白は金陵の古跡を歩く永王を都城にいるかのように描いており、永王こそ将来の皇帝であるかのように詠っています。
李白ー165
永王東巡歌十一首 永王東巡の歌 十一首
其五 其の五
二帝巡遊倶未廻 二帝 巡遊(じゅんゆう)して倶(とも)に廻(かえ)らず
五陵松柏使人哀 五陵の松柏(しょうはく) 人をして哀しましむ
諸侯不救河南地 諸侯は救(すく)わず 河南の地
更喜賢王遠道来 更に喜ぶ 賢王の遠道(えんどう)より来たるを
⊂訳⊃
帝王はお二人とも まだ都に帰っておられず
五陵の事を思うと 私は悲しみにたえない
将軍たちは 河南の地を救うことができず
ひとびとは 賢王の遠征を待ち望んでいる
⊂ものがたり⊃ 至徳二載(757)正月のこの時点では、玄宗も粛宗も都に帰還できていない状態です。詩中の「五陵の松柏」は唐の五代の帝王の陵墓のことで、李白は皇帝の墓が賊の手中にあることを思うと悲しみにたえないと嘆きます。洛陽の民は賢王の遠征を望んでいると詠い、永王が江南のみならず洛陽にも攻めのぼって、河南の賊軍を追い払うことを期待しているのです。
李白ー166
永王東巡歌十一首 永王東巡の歌 十一首
其六 其の六
丹陽北固是呉関 丹陽の北固(ほくこ)は 是(こ)れ呉関(ごかん)
画出楼台雲水間 画(えが)き出す楼台 雲水(うんすい)の間(かん)
千巌烽火連滄海 千巌の烽火(ほうか) 滄海(そうかい)に連なり
両岸旌旗繞碧山 両岸の旌旗(せいき) 碧山(へきざん)を繞(めぐ)る
⊂訳⊃
丹陽の北固山こそ 呉の関門
山上の楼台は 絵のように雲水に浮かぶ
峰々の烽火は 山をつらねて海までつづき
両岸の軍旗は 緑の山をめぐってはためく
⊂ものがたり⊃ 永王の船団は金陵から丹陽(たんよう)に進んでいます。丹陽(江蘇省鎮江市)は潤州の郡名で、当時は長江の河口に位置する重要な渡津でした。現在の揚子江の河口は堆積による陸地化によって東に250kmほど移動しています。また、江南の呉地へ延びる大運河の入り口でもありましたので、李白は「丹陽の北固は 是れ呉関」と言っているのです。「北固」は潤州にあった山の名です。
永王軍は呉郡と揚州の兵を退けて、江南の喉首ともいえる潤州を占領しました。詩はその意気揚々とした姿を詠っています。
李白ー167
永王東巡歌十一首 永王東巡の歌 十一首
其七 其の七
王出三江按五湖 王は三江を出でて五湖を按(あん)じ
楼船跨海次揚都 楼船 海に跨(またが)って揚都(ようと)に次(じ)す
戦艦森森羅虎士 戦艦森森(しんしん) 虎士(こし)を羅(つら)ね
征帆一一引龍駒 征帆(せいはん)一一 龍駒(りゅうく)を引く
⊂訳⊃
永王は三江から五湖の地までを平定し
楼船は 海を渡ろうとして揚州に泊す
戦艦は 意気盛んな戦士を満載し
どの帆船にも 駿馬が乗っている
⊂ものがたり⊃ 其の七の詩では、永王の軍が五湖の地を平定し、「海に跨って揚都に次す」と言っていますが、実際に占領しているのは潤州の対岸の揚子津(ようすしん)までで、揚州に入城してはいません。
重要なのは永王の船団が海上を北航して賊の背後を衝く策戦を立てていたらしいことです。そのために戦艦や帆船に兵馬を満載していると詠っています。この策戦は、多分、李白の献策であろうと言われています。
李白ー168
永王東巡歌十一首 永王東巡の歌 十一首
其十一 其の十一
試借君王玉馬鞭 試みに君王の玉馬鞭(ぎょくばべん)を借りて
指揮戎虜坐瓊筵 戎虜(じゅうりょ)を指揮して瓊筵(けいえん)に坐さん
南風一掃胡塵静 南風(なんぷう)一掃して胡塵(こじん)静かに
西入長安到日辺 西のかた長安に入りて日辺(にっぺん)に到らん
⊂訳⊃
試みに 君王の玉馬の鞭を拝借し
賊徒を退治して 祝宴に坐したい
南の風が胡兵を一掃し 静かになれば
西のかた長安に入って 天子に仕えよう
⊂ものがたり⊃ 其の十一の詩は「永王東巡歌」の最後の作になります。この詩では胡兵(こへい)を一掃した暁には長安へ行って天子に仕えたいと、李白は生涯変わることのなかった官途への希望を述べています。
しかしそのころ、粛宗の命を受けた永王征討軍は安陸に集結しはじめていましたし、皇帝の特命を帯びた宦官の啖廷瑤(たんていよう)が揚州に来て、永王軍の招諭を策していました。揚州の淮南採訪使や河北招訪使の軍は揚子津(ようすしん)に兵を進め、瓜歩洲(かほす)で気勢を挙げました。永王麾下の有力部将は、招諭に応じて粛宗への帰順を誓い、夜のあいだに逃亡してしまいました。
永王は残兵を率いて船で晋陵(江蘇省常州市)に退きますが、揚州軍の追撃を受けて晋陵で壊滅してしまいます。