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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 李賀116ー120

2011年06月24日 | Weblog
 李賀ー116
    大堤曲               大堤の曲

  妾家住横塘      妾(しょう)が家は横塘(おうとう)に住(じゅう)す
  紅紗満桂香      紅紗(こうさ) 桂香(けいこう)満つ
  青雲教綰頭上髻   青雲  頭上(ずじょう)の髻(けい)を綰(つが)ねしめ
  明月与作耳辺璫   明月  与(ため)に耳辺(じへん)の璫(とう)を作(な)す
  蓮風起         蓮風(れんぷう)起こり
  江畔春         江畔(こうはん)の春
  大堤上         大堤(だいてい)の上(ほとり)
  留北人         北人(ほくじん)を留(とど)む
  郎食鯉魚尾      郎(ろう)は鯉魚(りぎょ)の尾を食(くら)い
  妾食猩猩脣      妾(しょう)は猩猩(しょうじょう)の脣(くちびる)を食う
  莫指襄陽道      襄陽(じょうよう)の道を指(さ)すこと莫(な)かれ
  緑浦帰帆少      緑浦(りょくほ)  帰帆(きはん)少(まれ)なり
  今日菖蒲花      今日(こんにち)の菖蒲(しょうぶ)の花も
  明朝楓樹老      明朝(みょうちょう)は楓樹(ふうじゅ)と老いん

  ⊂訳⊃
          わたしの家は横塘よ
          紅い絹の窓かけ  木犀の香が満ちている
          空の雲で  頭上に髷を束ねさせ
          輝く月を  耳飾りにしています
          蓮池に風が吹き
          川辺の春は美しい
          大堤のほとりの宿に
          北の客を引きとめる
          お客は鯉の尾を食べ
          わたしは猩々の唇を食べている
          襄陽への道を指でさすのは嫌いだわ
          緑豊かなこの浦に  もどる船は少ないの
          今日は咲いている菖蒲の花も
          明日は楓樹と老いてゆく


 ⊂ものがたり⊃ 李賀は蘇州で冬を越し、翌元和十一年(816)の春になると、再び金陵にもどってきました。李賀はすでに二十七歳です。金陵は唐代には長江水運の渡津として栄えており、県城の南を流れる秦淮河(しんわいが)の河口は、津湊として多くの船を集めていました。
 周辺には盛り場が軒をつらね、なかでも横塘は妓楼のひしめく歓楽の巷として有名でした。詩人が遊女になりかわって作る遊興の詩は盛唐の時代から盛んに作られており、崔(さいこう)の「長干行」(ちょうかんこう)などは有名です。多くは五言四句の短いものですが、対話形式の連作もあります。
 ところが李賀は、ここでも特異性を発揮して十四句の長い詩を書いています。詩題の「大堤」は襄陽の南(湖北省宜城県)にあった色街と言われていますが、名前を借りてぼかしたのでしょう。「横塘」は金陵の渡津にあった盛り場の代名詞のようなものですから、金陵で作ったものです。
 この詩では、遊女が「青雲」や「明月」を髷や耳飾りにしている言っており、発想が奇抜で大袈裟なところが、ありきたりの遊興詩と違っています。
 後半の六句でも「鯉魚の尾」や「猩猩の脣」を食べていると言っており、何かの比喩だろうと思いますが、奇怪な表現です。李賀はこのころ、襄陽(湖北省襄樊市)を通って武関(陝西省丹鳳県の東)から都へ入る帰路を考えていたようです。だから遊女は「襄陽の道を指すこと莫かれ」と言って引きとめています。
 結びは、人はいつまでも若くはないので、若いうちに楽しみましょうと常套の殺し文句で括っており、「菖蒲の花」は少年の喩え、秋の「楓樹」(日本の「かえで」とは違うものです)は老いの喩えです。

 李賀ー119
     江楼曲             江楼の曲

  楼前流水江陵道   楼前(ろうぜん)の流水   江陵(こうりょう)の道
  鯉魚風起芙蓉老   鯉魚(りぎょ)の風起こって 芙蓉(ふよう)老ゆ
  暁釵催鬢語南風   暁釵(ぎょうさ)  鬢(びん)を催(うなが)して  南風に語る
  抽帆帰来一日功   帆を抽(ひ)いて帰り来(きた)るは一日の功
  鼉吟浦口飛梅雨   鼉(だ)吟じて  浦口(ほこう)に梅雨(ばいう)飛び
  竿頭酒旗換青苧   竿頭(かんとう)の酒旗(しゅき)  青苧(せいちょ)に換(か)ゆ
  蕭騒浪白雲差池   蕭騒(しょうそう)として浪白く   雲(くも)差池(しち)たり
  黄粉油衫寄郎主   黄粉(こうふん)の油衫(ゆさん)  郎主(ろうしゅ)に寄す
  新槽酒声苦無力   新槽(しんそう)の酒声(しゅせい)  力無きを苦しむ
  南湖一頃菱花白   南湖  一頃(いっけい)   菱花(りょうか)白し
  眼前便有千里思   眼前  便(すなわ)ち千里の思い有り
  小玉開屏見山色   小玉  屏(へい)を開けば  山色(さんしょく)を見る

  ⊂訳⊃
          高楼の前の流れは  江陵への道
          五月の風が吹くと   蓮の葉はぐったりする
          鬢の崩れを夜明けに直し  南の風に語る
          「帆を上げて帰ってくれば  一日でもどれる」と
          鰐が唸ると  入江のほとりに梅雨が飛び
          酒屋の旗は  青い麻布に取り替えられる
          浪は白く泡立ち  雲は高低さまざまに流れ
          黄色い雨合羽を  主人のもとに送らせる
          新酒の熟する音が  弱々しいのもやるせなく
          南湖の水は一面に  鏡のように白く輝く
          目の前に拡がる景色に 千里の思いあり
          侍女が屏風をひらくと   山々に色をみる


 ⊂ものがたり⊃ この詩は閨怨詩に類するもので、商人の妻になり代わって作っています。「楼前の流水 江陵の道」と言っていますので、夫は商用で江陵(湖北省江陵県)に行っているのでしょう。
 妻は夫の帰りを待ちわびており、「帆を抽いて帰り来るは一日の功」と詠います。「黄粉の油衫」は黄色い雨合羽で、油を塗って雨を弾くようになっています。梅雨になって川も波立ってきたので、妻は夫に雨具を送ったのです。
 中国には南湖と称する池は至る所にありますので、場所を特定する要素にはなりませんが、「菱花」は菱の花ではなく、銅鏡の紋様に菱の花を配することが多かったので、鏡の代わりに「菱花」と言ったのです。酒樽の新酒も熟しはじめ、梅雨の晴れ間に南湖の水も白く輝いているのに、主人はまだもどって来ないと嘆くのです。
 結びは「眼前 便ち千里の思い有り 小玉 屏を開けば 山色を見る」と詠って、留守の妻が遠くの山の色を見て主人の身を思いやる場面です。「小玉」(しょうぎょく)は侍女のことですのですので、商人の家は貧家ではないことが分かります。

 李賀ー120
    苦昼短            昼の短きを苦しむ

  飛光飛光       飛光(ひこう)よ   飛光よ
  勧爾一杯酒     爾(なんじ)に一杯の酒を勧(すす)む
  吾不識青天高    吾(われ)識らず  青天(せいてん)の高く
  黄地厚        黄地(こうち)の厚きを
  唯見月寒日暖    唯(た)だ見る 月は寒く日は暖かに
  来煎人寿       来たって    人の寿(じゅ)を煎(い)るを
  食熊則肥       熊を食(くら)えば  則ち肥え
  食蛙則痩       蛙を食(くら)えば  則ち痩す
  神君何在       神君(しんくん)   何(いず)くにか在る
  太一安有       太一(たいいつ)  安(いず)くにか有る
  天東有若木     天の東に若木(じゃくぼく)有り
  下置銜燭龍     下に燭(しょく)を銜(ふく)む龍を置く
  吾将斬龍足     吾(われ)  将(まさ)に  龍の足を斬り
  嚼龍肉         龍の肉を嚼(か)み
  使之朝不得廻    之をして  朝(あした)には廻(めぐ)るを得ず
  夜不得伏       夜には伏(ふ)するを得ざら使(し)めんとす
  自然老者不死    自然  老者(ろうしゃ)は死せず
  少者不哭       少者(しょうしゃ)は哭(こく)せず
  何為腹黄金     何為(なんす)れぞ  黄金を腹(ふく)し
  呑白玉        白玉(はくぎょく)を呑まん
  誰是任公子      誰か是れ任公子(じんこうし)
  雲中騎碧驢      雲中(うんちゅう)  碧驢(へきろ)に騎(の)らん
  劉徹茂陵多滞骨   劉徹(りゅうてつ)  茂陵(もりょう)  滞骨(たいこつ)多く
  嬴政梓棺費鮑魚   嬴政(えいせい)  梓棺(しかん)  鮑魚(ほうぎょ)を費す

  ⊂訳⊃
          過ぎゆく歳月よ  月日の光よ
          汝に一杯の酒を勧める
          晴天の高さも  黄土の厚さも
          私は知らない
          見えるのは   月は寒くて日は暖かく
          それがやって来て  人の命を縮めることだ
          熊を食べれば  ふとり
          蛙をたべれば  やせる
          生命の神  神君はどこにいるのか
          太一の神はいずこにおわすのか
          天の東に若木があって
          下に燭をくわえた龍がいる
          私は龍の足を斬り
          龍の肉をかんで
          そいつが  朝になっても駆けめぐれず
          夜になっても休めないようにしてやろう
          そうすれば  自然に年寄りは死なず
          若者は老いを嘆かず
          不老長生のために黄金を食べ
          白玉を呑んだりしなくてもいいだろう
          任公子は碧い驢馬に乗って
          雲の中を飛んだというが いったい何者か
          漢の劉徹も  茂陵で多数の骨となり
          秦の嬴政も  柩に乾し魚を詰められた


 ⊂ものがたり⊃ 春に金陵を再訪し、梅雨の季節になりましたので、李賀は故郷に帰ろうと思います。しかし、呉元済(ごげんさい)の淮西の乱はまだつづいており、直接昌谷に向かうのは危険でした。そこで李賀は、漢水を遡って武関から都に出ることにしました。
 長安に着いたのは秋に近いころか、秋のはじめだったと思われます。韓愈はそのころ太子右庶子(正四品上)になって都にいましたが、閑職であり、政事の中枢にいません。李賀が韓愈に頼って官職に就こうとした形跡はないようです。旅の疲れもあって、李賀は体調がすぐれず、帰郷途中の一時的な長安滞在でした。
 これまで李賀の生涯をたどりながら詩を見てきましたが、李賀の生活信条は当時の知識人と特に変わったことはありません。経世済民の志を抱いて官に就こうとし、藩鎮の世襲化とそれにともなう争乱に心を痛めていました。李賀が鬼才と言われるときにいつも引用される「将進酒」や「秋来る」のような見事な詩が幾つもあるわけではないのです。とすれば、これらの名作が作られたのは、最後に長安に滞在したこのとき、元和十一年(816)の秋しか考えられません。
 そうした見方で李賀の詩を見ていくと、「将進酒」や「秋来る」と類似性の多い詩を見出すことができます。「昼の短きを苦しむ」の詩は、人生が早く過ぎていくことを秋の日が短いことに事寄せて詠うものですが、一句の語数が極めて不揃いになっていることに特色があり、用語にも「将進酒」や「秋来る」と似たものが散見できます。
 ただし内容は病弱な貧者の嘆きが中心で、月日の寒暑が重なって人の寿命は縮まっていくが、食べ物でいえば熊掌や白熊は珍味とされ、高価であるので富貴の者がたべる。蛙は貧窮な者の食糧で、富者は肥え、貧者は痩せてゆくと詠うのです。
 九句目の「神君」も十句目「太一」も漢の武帝が祀った神です。その不在を嘆いているのは、人生の不条理を訴えるものでしょう。「若木」は神話上の木で、西北の砂漠の中の山に生えているとされていました。ここでは東にあるとし、その木の下に楚辞「天問」に出てくる「燭龍」がいて、日輪を運んでいます。李賀は燭龍を退治して、時の動きを止めてやろうと言っています。
 時の動きを止めることができれば、老人は死なず、若者は老いを嘆かなくなるだろう。人は不老長生を望んで黄金を食べたり、白玉を呑んだりするが、利き目には疑問符を投じています。
 「任公子」は『荘子』外物篇に出てくる仙人ですが、李賀はその存在を疑っています。結びの「劉徹」は漢の武帝、「嬴政」は秦の始皇帝で、ともに不老長生を願ったことで有名です。しかし二人とも死んで、陵墓で骨になっていると詠います。最高の権力を手にした帝王でさえも、不老長生を全うできなかったということでしょう。李賀は自分の生命が長くないことを、なんとなく感じていたのかもしれません。