漢詩を楽しもう

tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 杜甫29ー32

2009年11月29日 | Weblog
 杜甫ー29
   同諸公登慈恩寺塔    諸公の慈恩寺の塔に登るに同ず

  高標跨蒼天     高標(こうひょう)  蒼天(そうてん)に跨(こ)し
  烈風無時休     烈風(れつふう)  休む時無し
  自非曠士懐     曠士(こうし)の懐(かい)に非(あら)ざる自(よ)りは
  登茲翻百憂     茲(ここ)に登れば百憂(ひゃくゆう)を翻(ひるがえ)さん
  方知象教力     方(まさ)に知る  象教(しょうきょう)の力
  足可追冥捜     冥捜(めいそう)を追う可きに足(た)るを
  仰穿龍蛇窟     仰いで龍蛇(りゅうだ)の窟(くつ)を穿(うが)ち
  始出枝撐幽     始めて枝撐(しとう)の幽(ゆう)なるを出ず
  七星在北戸     七星(しちせい)  北戸(ほくこ)に在り
  河漢声西流     河漢(かかん)  声は西に流る
  羲和鞭白日     羲和(ぎわ)  白日(はくじつ)を鞭(むち)うち
  少昊行清秋     少昊(しょうこう)  清秋(せいしゅう)を行う
  秦山忽破砕     秦山(しんざん)  忽ち破砕(はさい)し
  渭不可求     渭(けいい)  求む可(べ)からず
  俯視但一気     俯視(ふし)すれば但(た)だ一気
  焉能辯皇州     焉(いずく)んぞ能(よ)く皇州を辯(べん)ぜん
  廻首叫虞舜     首(こうべ)を廻(めぐ)らして虞舜(ぐしゅん)を叫(よ)べば
  蒼梧雲正愁     蒼梧(そうご)に雲は正(まさ)に愁う
  惜哉瑶池飲     惜(お)しい哉  瑶池(ようち)の飲(いん)
  日晏崑崙丘     日は晏(く)る  崑崙(こんろん)の丘(おか)
  黄鵠去不息     黄鵠(こうこく)   去りて息(いこ)わず
  哀鳴何所投     哀鳴(あいめい)  何の投ずる所ぞ
  君看随陽雁     君看(み)よ  陽(ひ)に随う雁(かり)は
  各有稲粱謀     各々(おのおの)稲粱(とうりょう)の謀(はかりごと)有るを

  ⊂訳⊃
          目印のように  蒼天高く立ちあがり
          烈風は  やすみなく吹きつのる
          広い心の持ち主でなければ
          ここに登ると  さまざまな憂いが湧いてくる
          今こそ仏教の力によって
          不可知の世界を探れることを知る
          蛇のようにうねる洞窟を  仰ぎながら登り
          やっと小暗い木組みの場所から抜けて出る
          北斗七星は  北の戸口の前にあり
          天の川は   声をあげて西へ流れる
          日輪の御者は白日を鞭打って走り
          季節の神は  清らかな秋をつかさどる
          関中の山は  あっという間に砕け散り
          水も渭水も清濁の区別がつかない
          見おろせば  靄が薄く立ちこめて
          ここが帝都であるか見分けもつかない
          首を廻らして   舜帝を呼ぶが
          蒼梧の地には  愁いの雲が流れている
          瑶池では  めでたい酒が酌み交わされているのに
          崑崙の丘では  日が沈みはじめているのが残念だ
          黄鵠はやすむことなく飛び
          哀しく鳴きながら どこに身を寄せるのか
          諸君見るがよい  季節に随って飛ぶ雁は
          それぞれの食糧を手にする術を心得ているのだ


 ⊂ものがたり⊃ もちろん杜甫にも、心許せる友人はいます。しかし彼らも、杜甫と似たような境遇の詩人たちです。秋になって杜甫は、詩人の岑参(しんじん)、高適(こうせき)、儲光羲(ちょこうぎ)らと慈恩寺の塔に登りました。現在も大雁塔として残っている仏塔です。
 詩ははじめの八句で天空にそびえ立つ慈恩寺塔の勇姿を描きます。その姿は人々を勇気づけるようなものではなく、さまざまな憂いを呼び起こします。「仰いで龍蛇の窟を穿ち」という表現は、甎(せん)を積み上げた大雁塔の螺旋階段を最上階まで登ってみれば、いまもそのままであることが実感できるでしょう。
 慈恩寺塔の最上階の窓から見渡すと、「七星」も「河漢」も「白日」も間近にあるように高いが、清らかなのは秋の空だけだと杜甫は詠います。目に映るのは「秦山」が砕け散り、「渭」は清濁の区別もつかないほどだと長安が危機的な状況にあることを詠います。「俯視すれば但だ一気 焉んぞ能く皇州を辯ぜん」と、ここが帝都であるか見分けもつかないほどだと嘆くのです。杜甫は比喩を多用して、今の政事の混迷を愁えるのでした。 最後の八句は、杜甫の感慨を述べるものです。首を南の方角にめぐらせて、聖帝「虞舜」の助けを求めてみるけれども、舜帝の眠る「蒼梧」の地には愁いの雲がかかっているだけです。「瑶池の飲」や「崑崙の丘」は華清宮や驪山の暗喩であり、杜甫は楊貴妃と遊び暮らしている玄宗の生活を批判しています。
 「黄鵠」は杜甫自身のことで、やすみなく飛んで鳴き声をあげるけれども、身を寄せるところさえないと嘆きます。そして、季節に随って移動する雁は権力におもねって地位を得るすべを知っていると、時流に乗って出世する人々を批判するのです。

 杜甫ー32
    麗人行            麗人の行

  三月三日天気新   三月三日  天気新たに
  長安水辺多麗人   長安の水辺  麗人(れいじん)多し
  態濃意遠淑且真   態(たい)は濃く意は遠く淑(しゅく)にして且つ真(しん)
  肌理細膩骨肉   肌理(きり)は細膩(さいじ)にして骨肉(ひと)し
  繡羅衣裳照暮春   繡羅(しゅうら)の衣裳は暮春(ぼしゅん)を照らし
  蹙金孔雀銀麒麟   蹙金(しゅくきん)の孔雀(くじゃく)に銀の麒麟(きりん)
  頭上何所有      頭上(ずじょう)には何の有る所ぞ
  翠微盎葉垂鬢脣   翠(すい)は盎葉に微(ほの)かにして鬢脣(びんしん)に垂る
  背後何所見      背後(はいご)には何の見る所ぞ
  珠圧腰衱穏称身   珠は腰衱(ようきゅう)を圧して穏やかに身に称(かな)う
  就中雲幕椒房親   就中  雲幕(うんばく)なる椒房(しょうぼう)の親(しん)
  賜名大国虢与秦   名を賜(たま)う  大国の虢(かく)と秦(しん)と
  紫駞之峰出翠釜   紫駞(しだ)の峰(ほう)は翠釜(すいふ)より出で
  水精之盤行素鱗   水精(すいしょう)の盤は素鱗(そりん)を行(つら)ぬ
  犀筯厭飫久未下   犀筯(さいちょ)は厭飫(えんよ)して久しく下されず
  鑾刀縷切空紛綸   鑾刀(らんとう)の縷切(るせつ)は空しく紛綸(ふんりん)たり
  黄門飛鞚不動塵   黄門(こうもん)   鞚(くつばみ)を飛ばして塵を動かさず
  御厨絡繹送八珍   御厨(ぎょちゅう)  絡繹(らくえき)として八珍を送る
  簫鼓哀吟感鬼神   簫鼓(しょうこ)は哀吟(あいぎん)して鬼神を感ぜしめ
  賓従雑遝実要津   賓従(ひんじゅう)は雑踏して要津(ようしん)に実(み)つ
  後来鞍馬何逡巡   後来(こうらい)の鞍馬(あんば)の何ぞ逡巡たる
  当軒下馬入錦茵   軒(のき)に当たりて馬より下り錦茵(きんいん)に入る
  楊花雪落覆白蘋   楊花(ようか)は雪のごとく落ちて白蘋(はくひん)を覆い
  青鳥飛去銜紅巾   青鳥(せいちょう)は飛び去りて紅巾を銜(ふく)む
  炙手可熱勢絶倫   手を炙(あぶ)れば熱す可し  勢いは絶倫(ぜつりん)なり
  慎莫近前丞相嗔   慎んで近づき前(すす)む莫(なか)れ  丞相嗔(いか)らん

  ⊂訳⊃
          三月三日  空はからりと晴れわたり
          長安の水辺には  美人が多い
          身のこなしは艶やかで  取り澄ました姿は充実している
          肌は滑らかできめは細かく  肉づきは釣り合っている
          薄絹の刺繍の衣裳は  春の陽にかがやき
          金糸の孔雀や銀糸の麒麟で埋めつくされている
          頭上には  何があるかと見上げれば
          簪のみどりの飾りが  鬢のあたりに揺れている
          背中には  何があるかと眺めれば
          真珠の飾りが腰の辺まで垂れ  ほどよく体にまといつく
          なかでも目立つのは大きな天幕のなか  楊貴妃の親族だ
          虢国や秦国と名誉の称号を賜っている
          紫の駱駝の瘤が  翡翠の釜から取り出され
          水晶の大皿には  銀白の魚が並んでいる
          だが食べるのに飽きたのか  犀角の箸はつけないまま
          鑾刀で刻んだ細切りの肉は  皿にむなしく散らばっている
          ときに宦官が馬を飛ばして  塵も立てずに到着すると
          宮中の厨房からは  あまたの珍味が送られてくる
          笛や太鼓は哀しげに鳴って  鬼神を動かし
          取り巻きの連中は  ごった返して出世のために満ちている
          あとから来た馬は  思わせぶりに立ちどまり
          軒先で馬をおり   錦の敷き物を踏んでゆく
          柳絮(りゅうじょ)が雪のように降って  浮き草を覆い
          青い鳥が  紅い領巾(ひれ)をくわえて飛び去ってゆく
          手をかざせば  火傷をするほどに権勢は盛んであり
          ゆめゆめ天幕のそばに近寄るでない  丞相がお嗔りになる


 ⊂ものがたり⊃ そのころ安西都護の高仙芝(こうせんし)は、怛羅斯(タラス:キルギス共和国シヤンブィル)河畔で黒衣大食(こくいタージー:イスラム帝国アッバース朝)の大軍と対峙していましたが、敗れて退き、怛羅斯城に立てこもって防戦していました。しかし、葛羅禄(カルルク:トルコ族の一派)の内応に遇って大敗します。史上有名な「タラスの戦い」です。
 同じころ剣南節度使の楊国忠(ようこくちゅう)は雲南の南詔(雲南省大理一帯)を攻めていました。天宝十載(752)、楊国忠はみずから兵を率いて南詔を再征しようとしていましたが、都から急使が来て長安に呼びもどされます。楊国忠が長安に着いた直後の十一月に宰相李林甫(りりんぽ)が病死して、楊国忠は後任の宰相に任じられました。李林甫は十八年間も権力の座にあり、楊貴妃の一族といえども李林甫の顔色をうかがいながら用心していました。いまや楊貴妃の「ふたいとこ」にあたる楊国忠が宰相になり、楊氏一族には恐れるものがなくなりました。
 杜甫は集賢院待制のまま呼び出しが来るのを待っていましたが、とうとう待ちきれなくなって、天宝十二載(753)の正月に再び賦を書いて延恩匭(えんおんき)に投じました。そのころ楊貴妃の一族は、わが世の春を謳歌していました。貴妃の兄や姉三人は高位に任ぜられ、宮中にも自由に出入りできる身分です。季春の三月三日は二十四節気には当たりませんが、厄除けの日として水辺で身を清める風習がありました。清明節も近いので恵風の吹く気持ちの良い季節です。そのころになると、長安の遊楽の地、曲江のほとりでは、宴遊の人々で賑わいを程します。杜甫も出かけて行ったようです。
 「麗人行」の行は歌という意味で、七言を主としていますので七言古詩になるでしょう。はじめの十句は楊貴妃の三人の姉、韓国夫人、虢国(かくこく)夫人、秦国夫人の贅沢なようすをあからさまに描いています。表現としては詩的誇張もあるとみるべきでしょう。なお、盎葉(おうよう)の「盎」は外字になるので同音の字に変えています。    いましも曲江の水辺には、宴会のための大きな天幕が張られ、なかでも豪華なのは楊家の三夫人の天幕です。杜甫は中に入ったわけではないと思いますが、天幕のなかの卓には贅沢を極めた料理が並べられていると対句で詠います。駱駝の瘤を煮たものや、新鮮な魚の料理です。
 しかし、食べるのに飽きたのか箸もつけられていないと、杜甫は見てきたように述べています。細切りの肉も大皿の上に散らばっているけれども、それに加えて、宮中の厨房からは、宦官が馬を飛ばして塵も立てずに新たなご馳走を運んでくるといったサビース振りだというのです。
 最後の八句は杜甫が実際に目にしたことと感想です。楊貴妃の姉、三夫人の天幕のあたりには、権力者に取り入ろうとする人々でごった返しており、後から来た人もためらいがちに馬を降りて天幕のなかに入ってゆきます。
 頽廃は雪のように降りつもって、青い鳥が赤い絹の領巾を口にくわえて飛び去る姿が象徴的に描かれています。結びの二句は杜甫の感想で、「手を炙れば熱す可し 勢いは絶倫なり 慎んで近づき前む莫れ 丞相嗔らん」と右丞相楊国忠の横暴と危険を指摘するのです。
 このころの杜甫は、七言歌行の自由な形式で当代の社会を厳しく批判する詩を書いていますが、だからといってみずからの官途への希望、「奉儒守官」の道を否定するものではありません。唐代の士人にとって、官途は唯一の意義ある人生の選択肢であることに変わりはなく、才能のある自分が埋もれて用いられないことを歎いているのです。