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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧18ー24

2011年07月28日 | Weblog
 杜牧ー18
     薔薇花            薔薇の花

  朶朶精神葉葉柔   朶朶(だだ)精神あり  葉葉(ようよう)柔らかなり
  雨晴香払酔人頭   雨晴れ 香り払いて  人頭(じんとう)を酔わしむ
  石家錦障依然在   石家(せきか)の錦障(きんしょう)  依然として在り
  閑倚狂風夜不収   閑(しず)かに狂風に倚(よ)りて   夜に収めず

  ⊂訳⊃
          どの花も生気にあふれ  葉はしなやかに延びている

          雨が晴れて湧き立つ薫  酔っぱらってしまいそうだ

          晋の石崇の幔幕が    いまも張られているように

          気紛れな風に吹かれて  のんびり夜まで咲いている


 ⊂ものがたり⊃ 制挙に及第した大和二年(828)の秋のはじめ、杜牧は弘文館校書郎・試左衛兵曹参軍に任ぜられました。弘文館は門下省に属する図書館で、皇族や三品以上の高官の子弟の学校を兼ねていました。その校書郎ですので、図書の管理を掌る事務官ということでしょう。
 試左衛兵曹参軍というのは弘文館校書郎の職禄を指定する寄禄官で、正九品上の品階とみられます。唐の官制では館院の職には固有の品階がありませんので、左衛兵曹参軍と同じ職禄を給するために兼務形式をとるものです。「試」がついているのは定員外の試官に任ずるという意味で仮り採用といった意味はありません。なお、左衛は近衛軍である十六衛のひとつで、兵曹参軍は兵員のことを掌る事務官です。しかし、寄禄官ですので仕事にたずさわるわけではありません。
 杜牧のこの職は、制挙の合格者として特に不名誉な地位ではありませんでしたが、任官してほどない十月に、江西観察使沈伝師(しんでんし)の辟召(へきしょう)を受け、洪州(江西省南昌市)に行くことになります。沈伝師は尚書省都省の右丞(正四品下)でしたが太和二年十月に江西観察使に任ぜられました。だから杜牧は、いっしょに江南に行こうと誘われたのです。
 沈伝師はかつて杜牧の祖父杜佑から引き立てられたことがあり、今回流入(官に就くこと)した旧上司の孫の後ろ盾になってやろうと思ったのでしょう。辟召というのは節度使や観察使などの使職(令外の官)が自分の僚佐を独自に採用することで、貢挙に合格していても合格していなくても、また現に任官している者でも採用することができました。だから使職は自分の意に適った人材を広く物色して、配下に採用することができました。
 杜牧がこれに応じたのは、弘文館校書郎の地位に不満があったというよりも、より多くの収入を得たかったからだと思われます。杜牧の家は父親の死後、収入がありませんでしたので、伯父たちの援助があったとしても借金が嵩んでいたと思われます。杜牧は任官して、いまや一家の家長として生計を担わなければならない立場になっていました。当時の江南は物産が豊かで物価も安く、地方官は本俸以外にいろいろな収入があったらしく、都での勤務よりも収入が多かったのです。
 杜牧は洪州で、江西団練府巡官・試大理評事という官職を与えられますが、ここでも試大理評事というのは寄禄官で、江西団練府巡官というのが本務です。江西団練府は江西観察使が兼務する江西団練使の使府のことで、その巡官になったということになります。巡官は使職の僚佐のひとつで、管下の団練府(地方の自衛を主務とする軍事組織)の状況を監察するなどの役目でしょう。
 年が明けると、杜牧は洪州ではじめての江南の春を迎え、管下の山野を歩きながら巡官としての仕事をはじめます。江南の花々はどれも匂い立つように萌えて咲き誇っています。薔薇(そうび)は唐代には観賞用として栽培されていたようですが、ここでは蔓草の野茨でしょう。「石家の錦障」は晋の富豪石崇の説話で、石崇は散歩の小径に錦の歩障(道の両側に張る眼隠しの幔幕)を五十里も張り巡らして、暮らしの豪勢さを誇ったといいます。杜牧は沿道の花々が石崇の歩障のように風に吹かれて咲いており、夜になっても仕舞われることがないと詠っているわけです。

 杜牧ー19
     山石榴             山石榴

  似火山榴映小山   火の似(ごと)き山榴(さんりゅう)  小山(しょうざん)を映(おお)う
  繁中能薄艶中閑   繁中(はんちゅう)能(よ)く薄く  艶中(えんちゅう)閑(かん)なり
  一朶佳人玉釵上   一朶(いちだ) 佳人(かじん)  玉釵(ぎょくさ)のごとく上(のぼ)せば
  秖疑焼却翠雲鬟   秖(た)だ疑う  翠雲(すいうん)の鬟(わげ)を焼却せんかと

  ⊂訳⊃
          燃えるような躑躅の花  丘の面を埋めつくす

          繁っていながら薄紅く  あでやかにして淑やかだ

          一枝折って頭に挿せば 美しい人よ

          豊かな黒髪は  いまにも焼けてしまいそう


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「山石榴」(さんせきりゅう)は躑躅(つつじ)のことです。くれないの花が丘の斜面をおおっている姿は、日本でも目にすることができます。山石榴は江南を代表する花でした。晩春の汗ばむくらいの陽気の中で、雲鬟(うんかん)の美女を持ち出したのは閨怨詩の流れをくむ技巧でしょうか。「鬟」(わげ)は女性の髪を環のかたちに結い上げるもので、唐代の流行でした。なかでも華やかなものを双鬟望仙髻(そうかんぼうせんきつ)といいます。

 杜牧ー20
   張好好詩            張好好の詩

  君為豫章姝     君は豫章(よしょう)の姝(しゅ)たり
  十三纔有余     十三纔(わずか)に余(よ)有り
  翠鳳生尾     翠(すいさつ)  鳳尾(ほうび)を生じ
  丹葉蓮含跗     丹葉(たんよう)  蓮跗(はすふ)を含む
  高閣倚天半     高閣(こうかく)  天半(てんぱん)に倚(よ)り
  章江聯碧虚     章江(しょうこう) 碧虚(へききょ)に聯(つらな)る
  此地試君唱     此の地  君の唱(しょう)を試(こころ)み
  特使華筵鋪     特に華筵(かえん)を鋪(し)か使(し)む
  主公顧四座     主公(しゅこう)   四座(しざ)を顧(かえり)み
  始訝来踟蹰     始(はじめ)は訝(いぶか)る来て踟蹰(ちちゅう)するを
  呉娃起引賛     呉娃(ごあい)   起ちて引賛(いんさん)し
  低徊映長裾     低徊(ていかい)  長裾(ちょうきょ)に映ず
  双鬟可高下     双鬟(そうかん)  高下(こうげ)すべく
  纔過青羅襦     纔(わずか)に青羅襦(せいらじゅ)を過ぐ
  盼盼乍垂袖     盼盼(へんぺん)  乍(たちま)ち袖(しゅう)を垂れ
  一声雛鳳呼     一声(いっせい)  雛鳳(すうほう)呼ぶ
  繁弦迸関紐     繁弦(はんげん)  関紐(かんちゅう)を迸(ほう)し
  塞管裂円蘆     塞管(さいかん)  円蘆(えんら)を裂く
  衆音不能逐     衆音(しゅうおん) 逐(お)う能(あた)わず
  裊裊穿雲衢     裊裊(じょうじょう) 雲衢(うんく)を穿(うが)つ
  主公再三嘆     主公(しゅこう)   再三嘆(たん)じ
  謂言天下殊     謂言(いげん)す  天下の殊(しゅ)と
  贈之天馬錦     之(これ)に天馬錦(てんばきん)を贈り
  副以水犀梳     副(そ)うるに水犀梳(すいさいそ)を以てす
  龍沙看秋浪     龍沙(りゅうさ)   秋浪(しゅうろう)を看(み)
  明月遊東湖     明月(めいげつ)  東湖(とうこ)に遊ぶ
  自此毎相見     此(こ)れ自(よ)り毎(つね)に相見(あいみ)
  三日已為踈     三日(さんじつ)  已に踈(そ)と為(な)す
  玉質随月満     玉質(ぎょくしつ)  月に随いて満ち
  豔態逐春舒     豔態(えんたい)  春を逐(お)いて舒(の)ぶ
  絳脣漸軽巧     絳脣(こうしん)  漸(ようや)く軽巧(けいこう)
  雲歩転虚徐     雲歩(うんぽ)    転(うたた)た虚徐(きょじょ)たり

  ⊂訳⊃
          君は豫章の美少女で
          十三をすこし出たばかり
          鳳凰の尻尾に翡翠の羽根
          蓮の葉が  萼をくるんでいる感じ
          楼閣は  中天にそびえ
          章江は  天につらなる
          そこで  君の歌声を試そうと
          特に豪華な宴席が開かれた
          主人公が  満座をみわたし
          怪訝にも  君は躊躇いがちに来る
          呉の美女が案内して紹介し
          ゆきつもどりつ裳裾は映える
          双の髷は  高く低くゆれ動き
          薄絹の青い衣が過ぎるだけ
          美しく目をみひらいて袖を垂れ
          ひと声発する雛鳥の声
          琴の音は  弦からほとばしり
          笛の音は  管を裂いて鳴りひびく
          並の音は追いつけず
          朗々と雲間にひびく
          主人公は  幾度も感嘆し
          天下の妙技とほめたたえた
          褒美には  天馬の錦を贈り
          水犀の櫛を副える
          龍沙に行っては  秋の浪を眺め
          東湖に遊んでは  明月を賞する
          それからはいつもお供を命じ
          三日も会わねば ご無沙汰となる
          玉のような美質は日ごとに満ち
          なまめかしさは春を追って伸びる
          深紅の唇は    次第に軽やかになり
          歩く姿は緩やか  雲の上をゆくようだ
          

 ⊂ものがたり⊃ 杜牧は洪州で張好好(ちょうこうこう)という歌妓に出会いました。張好好はときに十三歳、洪州の楽籍(がくせき)に属し、使職の家妓として宴席に侍っていました。
 杜牧はのちに洛陽で張好好と再会し、そのときに五十八句、二百九十字の五言古詩を書いています。今回はその前半三十二句を掲げます。というのは、その部分が洪州での最初の出会いを回想する部分になっているからです。
 冒頭の「豫章」(江西省南昌市)は洪州の郡名で、杜牧は洪州に赴任してほどなく十三歳の張好好と宴会の席で顔を合わせます。その美少女を「翠 鳳尾を生じ 丹葉 蓮跗を含む」と言っているのは、実に巧みな表現です。
 つぎの八句は張好好がはじめて宴席に出てくるところです。後の回想ですので、あのとき君はまだ初心で、ためらいがちに出て来たねと、杜牧は笑いながら詠っていると想像してください。「双鬟」は前々回「山石榴」で紹介した双鬟望仙髻のことで、高い髷が揺れ動き、薄絹の青い裳裾が杜牧の前を通り過ぎただけでした。それから張好好は美しい目をみひらいて歌をうたい始めます。その声は雛鳥の声のように澄んで愛らしかったというのです。
 つづく八句は張好好の歌声がすばらしかったことを褒めるものです。「主公」というのは宴席の主人公のことで、江西観察使沈伝師ですが、沈伝師も感嘆の声をあげ、褒美に天馬の錦や水犀の櫛を与えました。
 最後の八句のはじめ四句は、宴席ではじめて出会ったあとのつき合いです。張好好は使職に付属する家妓であって、沈伝師の侍妾ではありません。だから使府の催すさまざまな遊宴の席に侍ります。杜牧も主人に従って宴席に列座しますので、三日も会わないと、長く会わなかったような気になると詠います。
 最後(ただし全体の詩では中間)の四句は、張好好が日ごとに美しくなまめかしくなったと褒めているわけで、杜牧は張好好に好意を抱いていたと思います。このようにして、江南での一年はあっという間に過ぎてゆきました。

 杜牧ー24
    寄牛相公            牛相公に寄す

  漢水横衝蜀浪分   漢水(かんすい)横に衝(つ)いて  蜀浪(しょくろう)分かれ
  危楼点的払孤雲   危楼(きろう)  点的(てんてき)のごとく  孤雲を払う
  六年仁政謳歌去   六年の仁政  謳歌(おうか)し去り
  柳遠春隄処処聞   柳  春隄(しゅんてい)に遠くして  処処(しょしょ)に聞こゆ

  ⊂訳⊃
          漢水の合するところ  長江は二分して波立ち

          黄鶴楼のいただきは  点となって雲に達する

          六年間の仁政に    賞讃の声は満ち

          春の柳は江堤に列なり  別れを惜しむ声がする


 ⊂ものがたり⊃ 大和四年(850)正月、武昌軍節度使牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)が兵部尚書・同中書門下平章事に任ぜられ、都にもどることになりました。平章事(べんじょうじ)は宰相ということで、複数任命されるのが通例ですが、政府の政策を決定する立場になるのです。杜牧は牛僧孺の栄転を祝って詩を贈ります。
 話は二十年ほど前に遡りますが、杜牧が五歳であった元和二年(807)に憲宗は李吉甫(りきっほ)を宰相に任じて藩鎮に対する強硬策を推進しました。牛僧孺はその二年前に二十六歳で進士に及第し、任官していました。
 元和三年(808)に憲宗は制挙を実施しますが、牛僧孺は李宗閔(りそうびん)らとともに賢良方正能直言極諌科を受験し及第します。そのとき牛僧孺と李宗閔は、李吉甫の政策が無謀であるとして強く批判しましたので、ふたりは李吉甫に疎まれ、制挙の成績が優秀であったにもかかわらず重用されませんでした。いわゆる「牛李の党争」はこのときにはじまります。
 「牛李の党争」は政策論としてはじまりますが、その裏には、李吉甫のように試験を受けずに先祖の功績によって任官し高官になっていく恩蔭系の官僚と、家が寒門(高官を出していない士の家)であるため受験によって任官する貢挙系の官僚との対立があり、次第に党派抗争の様相を呈してきます。
 杜牧は名門の生まれでしたので、恩蔭で任官することも可能でした。事実、杜牧の従兄弟の多くは祖父杜佑の恩蔭で任官しています。しかし、士人のあいだでは進士になって、つまり自己の実力によって任官するのを誇りに思う風潮が育っていましたので、詩文にすぐれていた杜牧は、あえて進士に挑戦し、制挙にも合格したのです。だから杜牧は出身は恩蔭系ですが、任官は貢挙系という微妙な立場にあり、両方に友人知人が多かったのです。
 牛僧孺に対しては尊敬する先輩官僚として接しており、詩で見るかぎり武昌の節度使の使府に立ち寄ったこともあり、武昌にある黄鶴楼にも上ったと見られます。杜牧は「六年の仁政  謳歌し去り」と牛僧孺を賞讃していますが、このことは恩蔭系(李党)の李徳裕(りとくゆう:李吉甫の息子)からみれば、牛党(貢挙系)に組する行為とみなされたでしょう。杜牧のどちらの党にも通じているという中間的な立場は、このあと杜牧の人生に大きな影響を及ぼすことになります。