李白ー42
春夜洛城聞笛 春夜洛城に笛を聞く
誰家玉笛暗飛声 誰(た)が家の玉笛ぞ 暗(あん)に声を飛ばす
散入春風満洛城 散じて春風(しゅんぷう)に入りて洛城(らくじょう)に満つ
此夜曲中聞折柳 此の夜 曲中(きょくちゅう) 折柳(せつりゅう)を聞く
何人不起故園情 何人(なにびと)か起こさざらん 故園(こえん)の情
⊂訳⊃
誰が吹くのかあの笛は 闇をぬって流れてゆく
春風と交じり合い 洛陽の街に満ちわたる
今夜聞こえたその曲は 別れを惜しむ折楊柳
その哀しげな笛の音に 誰か故郷を懐わざる
⊂ものがたり⊃ 冬が近くなると、李白は元丹丘の山居を出て洛陽に行き、翌年の夏の終わりまで洛陽に滞在します。詩は春の夜の洛陽を詠っていますので、李白がはじめて洛陽の春を経験した開元二十年(732)春の作品でしょう。李白は三十二歳になっていました。
李白が洛陽に滞在している目的は長安滞在と同じでしょう。洛陽は東都と呼ばれ、則天武后の時代は正式の都でした。洛陽の気候は温和、食糧は豊富とあって皇族や高官はここに別邸をかまえ、各地の知識人も集まってくる文化の中心地でした。
李白は洛陽で太原太守の息子の元演や崔成甫らと知り合いますが、肝腎の官途への手掛かりに思わしい成果はありませんでした。なお、そのころ杜甫は二十一歳で、江南に旅行中でした。
李白ー43
遊南陽清泠泉 南陽の清泠泉に遊ぶ
惜彼落日暮 彼(か)の落日の暮るるを惜(おし)み
愛此寒泉清 此の寒泉(かんせん)の清きを愛す
西耀逐流水 西耀(せいよう)は流水を逐(お)い
蕩漾遊子情 蕩漾(とうよう)す 遊子(ゆうし)の情
空歌望雲月 空しく歌って雲月(うんげつ)を望み
曲尽長松声 曲尽きて長松(ちょうしょう)の声
⊂訳⊃
遥かに日暮れの景を惜しみながら
この冷泉の清い流れを愛する
流れの水に沿って 夕日は耀き
さすらい人の旅情をかき立てる
雲間の月を眺めて 空しく歌い
曲が終われば 松風の音がするばかり
⊂ものがたり⊃ 二年前の初夏に安陸を旅立ってから、李白は三度目の秋を洛陽で迎えます。秋には南陽をへて安陸にもどることになりますが、南陽の内郷県(河南省南陽市)は長安に上るときに一度通った城市です。そのときは急いで通過しただけでしたので、今度はしばらく滞在して崔宗之らと知り合いになったようです。南陽の名所を訪ねて詩を作っていますが、なんだか淋しそうです。
意気込んで出かけた長安でしたが初期の成果を生むことなく、新婚まもなく置き去りにした妻と許氏の人々のいる安陸にもどるのですから、李白の足も重かったに違いありません。
李白ー46
太原早秋 太原の早秋
歳落衆芳歇 歳(とし)落ちて 衆芳(しゅうほう)歇(や)み
時当大火流 時は大火(たいか)の流るるに当たる
霜威出塞早 霜威(そうい) 塞(とりで)を出でて早く
雲色渡河秋 雲色(うんしょく) 河(かわ)を渡って秋なり
夢繞辺城月 夢は繞(めぐ)る 辺城(へんじょう)の月
心飛故国楼 心は飛ぶ 故国の楼(ろう)
思帰若汾水 帰るを思えば汾水(ふんすい)の若(ごと)く
無日不悠悠 日として悠悠(ゆうゆう)たらざるは無し
⊂訳⊃
年の半ばを過ぎて 花は散り果て
季節はまさに 火星が西に流れるとき
霜の厳しさは 塞を出るとことに早く
黄河を渡れば 雲のけはいも秋が深い
わたしの夢は 国境をめぐる月に似て
心は古里の 高楼に飛んでいる
帰る日に想いを馳せれば 汾水の流れのように
一日として 愁いに沈まない日はないのである
⊂ものがたり⊃ 開元二十三年(735)の夏五月ころ、李白は帰省する元演に誘われて太原までの長途の旅をします。黄河を越え、汾水を遡ってゆく朔北への大旅行です。
詩中の「大火」は二十八宿のひとつで心宿星のことです。大火は陰暦五月の日暮れになると真南の空に高くあらわれ、六月以降になると西の空に移動します。「流」は心宿星が西に傾くことをいい、さすがの李白も太原の秋が早いことに驚いています。
李白に対する元家の待遇は手厚いものであったらしく、李白は太守の邸に世話になりながら、翌年の夏まで太原に滞在し、周辺を見物したりして過ごしています。李白が安陸を発つとき、許氏は第二子を懐妊していたらしく、誕生の日が近いことを知らせてきたと思いますが、李白はもどることなく、春二月ころには長男誕生の報せが太原に届いたはずです。李白は長男に伯禽(はくきん)という名をつけますが、息子に対面するのは、その年の末になってからのようです。
春夜洛城聞笛 春夜洛城に笛を聞く
誰家玉笛暗飛声 誰(た)が家の玉笛ぞ 暗(あん)に声を飛ばす
散入春風満洛城 散じて春風(しゅんぷう)に入りて洛城(らくじょう)に満つ
此夜曲中聞折柳 此の夜 曲中(きょくちゅう) 折柳(せつりゅう)を聞く
何人不起故園情 何人(なにびと)か起こさざらん 故園(こえん)の情
⊂訳⊃
誰が吹くのかあの笛は 闇をぬって流れてゆく
春風と交じり合い 洛陽の街に満ちわたる
今夜聞こえたその曲は 別れを惜しむ折楊柳
その哀しげな笛の音に 誰か故郷を懐わざる
⊂ものがたり⊃ 冬が近くなると、李白は元丹丘の山居を出て洛陽に行き、翌年の夏の終わりまで洛陽に滞在します。詩は春の夜の洛陽を詠っていますので、李白がはじめて洛陽の春を経験した開元二十年(732)春の作品でしょう。李白は三十二歳になっていました。
李白が洛陽に滞在している目的は長安滞在と同じでしょう。洛陽は東都と呼ばれ、則天武后の時代は正式の都でした。洛陽の気候は温和、食糧は豊富とあって皇族や高官はここに別邸をかまえ、各地の知識人も集まってくる文化の中心地でした。
李白は洛陽で太原太守の息子の元演や崔成甫らと知り合いますが、肝腎の官途への手掛かりに思わしい成果はありませんでした。なお、そのころ杜甫は二十一歳で、江南に旅行中でした。
李白ー43
遊南陽清泠泉 南陽の清泠泉に遊ぶ
惜彼落日暮 彼(か)の落日の暮るるを惜(おし)み
愛此寒泉清 此の寒泉(かんせん)の清きを愛す
西耀逐流水 西耀(せいよう)は流水を逐(お)い
蕩漾遊子情 蕩漾(とうよう)す 遊子(ゆうし)の情
空歌望雲月 空しく歌って雲月(うんげつ)を望み
曲尽長松声 曲尽きて長松(ちょうしょう)の声
⊂訳⊃
遥かに日暮れの景を惜しみながら
この冷泉の清い流れを愛する
流れの水に沿って 夕日は耀き
さすらい人の旅情をかき立てる
雲間の月を眺めて 空しく歌い
曲が終われば 松風の音がするばかり
⊂ものがたり⊃ 二年前の初夏に安陸を旅立ってから、李白は三度目の秋を洛陽で迎えます。秋には南陽をへて安陸にもどることになりますが、南陽の内郷県(河南省南陽市)は長安に上るときに一度通った城市です。そのときは急いで通過しただけでしたので、今度はしばらく滞在して崔宗之らと知り合いになったようです。南陽の名所を訪ねて詩を作っていますが、なんだか淋しそうです。
意気込んで出かけた長安でしたが初期の成果を生むことなく、新婚まもなく置き去りにした妻と許氏の人々のいる安陸にもどるのですから、李白の足も重かったに違いありません。
李白ー46
太原早秋 太原の早秋
歳落衆芳歇 歳(とし)落ちて 衆芳(しゅうほう)歇(や)み
時当大火流 時は大火(たいか)の流るるに当たる
霜威出塞早 霜威(そうい) 塞(とりで)を出でて早く
雲色渡河秋 雲色(うんしょく) 河(かわ)を渡って秋なり
夢繞辺城月 夢は繞(めぐ)る 辺城(へんじょう)の月
心飛故国楼 心は飛ぶ 故国の楼(ろう)
思帰若汾水 帰るを思えば汾水(ふんすい)の若(ごと)く
無日不悠悠 日として悠悠(ゆうゆう)たらざるは無し
⊂訳⊃
年の半ばを過ぎて 花は散り果て
季節はまさに 火星が西に流れるとき
霜の厳しさは 塞を出るとことに早く
黄河を渡れば 雲のけはいも秋が深い
わたしの夢は 国境をめぐる月に似て
心は古里の 高楼に飛んでいる
帰る日に想いを馳せれば 汾水の流れのように
一日として 愁いに沈まない日はないのである
⊂ものがたり⊃ 開元二十三年(735)の夏五月ころ、李白は帰省する元演に誘われて太原までの長途の旅をします。黄河を越え、汾水を遡ってゆく朔北への大旅行です。
詩中の「大火」は二十八宿のひとつで心宿星のことです。大火は陰暦五月の日暮れになると真南の空に高くあらわれ、六月以降になると西の空に移動します。「流」は心宿星が西に傾くことをいい、さすがの李白も太原の秋が早いことに驚いています。
李白に対する元家の待遇は手厚いものであったらしく、李白は太守の邸に世話になりながら、翌年の夏まで太原に滞在し、周辺を見物したりして過ごしています。李白が安陸を発つとき、許氏は第二子を懐妊していたらしく、誕生の日が近いことを知らせてきたと思いますが、李白はもどることなく、春二月ころには長男誕生の報せが太原に届いたはずです。李白は長男に伯禽(はくきん)という名をつけますが、息子に対面するのは、その年の末になってからのようです。